映画館を出ると、夜風が頬をすり抜けていった。
 朱里は両手をコートのポケットに突っ込み、少しうつむきながら歩く。
 隣を歩く嵩の足音が、一定のリズムで耳に響いていた。

「風、冷たいな」
 嵩がぼそりと言う。
「そ、そうですね……でも、気持ちいいです」
 朱里は、さっきまでのドキドキを誤魔化すように笑った。

 ──“理由、言ったら来なかったかもしれないから”
 あの言葉が、まだ胸の奥でくすぶっている。

 理由って、なに?
 “仕事の後輩だから”? “たまたま空いてたから”?
 それとも……。

 横顔をちらりと見た。
 嵩は、信号の青を待ちながらポケットの中でスマホをいじっている。
 その横顔は、スクリーンの光よりも穏やかで、でも、少し遠く見えた。

「……あの、今日の映画、どうでした?」
 自分でも驚くほど、声が上ずる。

「面白かった。意外とラストが熱かったな」
「うん、あの……ヒロインが最後に、“あなたのこと、大嫌い”って言ってたの、あれ……」
「“大嫌いなほど好き”って意味だろ?」
 嵩が、自然に返す。
 朱里の心臓が跳ねた。

「そ、そう、ですよね……」
「中谷も、似たようなこと言うじゃん。大嫌いって」
「えっ!? そ、それは、違っ──」

 否定しようとした瞬間、信号が青に変わった。
 嵩は軽く笑って先に歩き出す。
 朱里は追いつけず、数歩遅れて足を動かした。

 夜風が、少し冷たく感じる。
 でも、それ以上に胸の奥が熱い。
(大嫌い、なんて……ほんとは、もう、言えないよ)

 歩道橋の上、二人並んで見下ろす街の明かり。
 朱里は、小さく息を吸いこんだ。

「……あの、嵩さん」
「ん?」
「次は……もっと静かな映画、にしません?」
「苦手克服しないのか?」
「べ、別に、そういう意味じゃ──!」

 からかうような嵩の笑み。
 朱里は顔をそむけ、夜風に紛れてつぶやいた。

「……大嫌い。ほんと、ずるい人。」

 でもその声は、きっと風に乗って、彼の耳にも届いていた。
 嵩の横顔が、ふっと優しくほころんだ気がした。