翌朝。
 朱里は出社早々、デスクでため息をついていた。

 昨日、嵩に誤解を解かれた時──あんなに優しい顔で言われたのに、素直に「よかった」って言えなかった自分が嫌だった。
 むしろ、あの「好きすぎる」発言を思い出しては、ひとりで勝手に赤面して、勝手に混乱している。

「……あーもう! 何あれ! 『好きすぎる』って何なの!?」
 心の中で叫びながら、メールの返信を打つ手が止まる。
 机の上には、昨日嵩にもらった資料が置きっぱなし。そこに小さく“ありがと”って朱里のメモが残されていた。

 すると、ふいに背後から声がした。
「……朝からずいぶん考え事だな」
「ひゃっ!?」
 振り返ると、そこには当の本人──平田嵩。
 いつもの穏やかな笑顔で、コーヒー片手に立っている。

「な、なによ……脅かさないでよ!」
「脅かしてない。朱里が勝手に驚いたんだろ」
「む……」

 嵩は、彼女のデスクの上に視線を落とした。
「これ、俺に返すの? それとも記念に取っておく?」
「き、記念って! そんなもの取っとくわけないでしょ!」
「へえ、そう?」
 口元をわずかに緩める嵩。
 朱里は顔を真っ赤にしながら、ぷいっとそっぽを向いた。

(もーっ! なんなのその余裕!)
 心の中でそう叫びながらも、どこかうれしい自分がいるのがまた腹立たしい。

「なあ朱里」
 嵩が少し声を落とした。
「今週末、もし時間あったら……また出かけない?」
「えっ」
「映画のチケット、もらったんだ。せっかくだし、一緒にどうかと思って」

 心臓が跳ねた。
 でも次の瞬間、朱里の“こじらせスイッチ”が入る。

「な、なんで私なの?」
「え?」
「だって、瑠奈さんとか他にもいるでしょ? どうせなら、そっち誘えばいいじゃない」
「……なんでそうなるんだよ」
「知らないわよ! 勝手にすればいいでしょ!」

 言ってから、あっ……と気づいた。
 嵩の表情が、一瞬だけ驚いたように動いて、それから少し困ったように笑った。
「朱里、また“そういうモード”入ってる?」
「な、なにそれ!」
「すぐ拗ねる。そういうとこ、わかりやすい」
「……っ、うるさい!」

 朱里は椅子を勢いよく回転させ、モニターの方に向き直った。
 その背中を見ながら、嵩は小さく息をついた。
「じゃあ、また後でちゃんと誘うから」
「勝手にすれば!」

 嵩が去った後も、朱里の頬は熱を持ったままだった。
 机の下で、そっと拳を握りしめる。
「……“好き”って言われると、困るんだよ……」

 でも──心の奥では。
 “もう一度言ってくれたら、きっと困らずに笑えるのに”
 そんな想いが、静かに芽生えつつあった。