朱里は手にしたスマホを見つめたまま、動けずにいた。
画面の中にあるたった数行の文字が、まるで心の奥を揺さぶるように重たく感じる。

> 『こんにちは、中谷先輩。今、平田先輩と一緒ですか? もし可能なら、少しだけお話ししたいことがあって……』



「……どうしよう」
思わず漏れた朱里の声は、かすれていた。

「出ればいいんじゃないか?」
嵩の低い声が返ってくる。
彼の表情は穏やかで、焦りも疑いもない──それが逆に朱里を苦しめた。

「だって、今……」
「俺といるから? 別に構わないよ。話したいなら話せばいい」

あっさりと言い切る嵩に、朱里はぐっと唇を噛んだ。
“構わない”──その一言が、まるで自分なんて大した存在じゃないと突きつけられたようで、胸の奥がきゅっと痛む。

(……構わないって、なに? 少しは、嫌がってくれてもいいのに)

朱里は小さく息を吐いてから、意を決して返信を打った。

> 『今、先輩と一緒にいます。どうしたの?』



送信ボタンを押したあと、画面を見つめながら沈黙が落ちた。
数秒後、すぐに返信が届く。

> 『そうなんですね! ごめんなさい、ちょっと勘違いしちゃいました。また社内で話しましょう!』



……その明るい絵文字つきの文面が、妙に胸に刺さった。
明るく、軽く、まるで「わたし、平田さんのこと気にしてるけど、悪気はないですよ」とでも言いたげな感じで。

「……瑠奈ちゃん、なんだって?」
嵩が尋ねる。朱里はスマホを伏せたまま、できるだけ平然を装う。

「ううん、勘違いだったって。もういいみたい」
「そっか」

それだけ言って、嵩はショッピングモールの天井を見上げた。
どこまでもあっさりしている。まるで何も起こっていないかのように。

その態度に、朱里の中の“こじらせメーター”が一気に振り切れる。

「……ねぇ、嵩さん」
「ん?」
「もし、わたしが誰か別の人といたら、どう思う?」

その問いに、嵩は目を瞬かせた。
「誰かって?」
「たとえば……元カレとか。偶然会って、お茶してたら」

嵩は数秒考えて、口の端を少しだけ上げた。
「別にいいけど。朱里がそうしたいなら」

「……!」

朱里は思わず立ち止まった。
嵩は気づかずに少し先を歩いてしまう。

「ちょっと! “別にいいけど”って、何その反応!」
追いついた朱里がぷいっと睨むと、嵩は苦笑した。

「だって、俺が口出しできる立場か?」
「……!」
「でも、嫌だとは思うかもな」

その小さな“嫌だ”が、ようやく朱里の胸の奥に届いた。
嬉しいくせに、素直になれなくて──

「なによそれ。中途半端」
「お互いさまだろ?」

ふたりは顔を見合わせ、思わず吹き出した。
そんな風に笑い合うのは、きっと久しぶりだった。

でもその笑顔の奥に、朱里はふと気づく。
──嵩の“優しさ”は、時々残酷なくらい無防備だ。

(ねぇ、平田さん。わたし、あなたのそういうとこが一番“嫌い”で、一番……好きなんだよ)

モールの照明が柔らかく二人を照らす。
けれどその光の中で、朱里の心はまだほんの少しだけ、揺れていた。