翌朝。
昨日の雨が嘘のように晴れ渡り、街路樹の葉が朝日を浴びてきらめいていた。

朱里は少し早めに出社した。
まだ人の少ないオフィスでパソコンを立ち上げ、書類を整理していると、背後から声がした。

「おはようございます、中谷さん」

振り返ると、嵩が立っていた。
朝の光に照らされたその姿は、いつもより柔らかく見えて、朱里の胸がどきりと跳ねる。

「おはようございます……」

朱里は視線を落とし、キーボードを叩くふりをした。
けれど嵩は少し迷ったあと、彼女の机の横に立った。

「昨日……急に帰ってしまったから、気になって」

「あれは……」
言いかけて、朱里は口をつぐんだ。
本当は「八つ当たりしてごめんなさい」と言いたい。
でも、喉の奥で言葉が固まってしまう。

「もし、僕に何か至らないことがあったなら──」

「ち、違います!」
思わず声を上げてしまい、朱里は慌てて続けた。
「平田先輩が悪いわけじゃなくて……ただ、私が……」

言葉が途切れた。
続きは「好きだから」と告げればいいのに、それだけがどうしても出てこない。

嵩は朱里の様子を見て、少しだけ笑った。
「……なら良かったです。無理はしないでくださいね」

それだけ言って、自分の席へ戻っていく。

朱里は机の下で拳を握りしめた。
今なら──ほんの一歩、素直に近づけたかもしれないのに。

「……バカ」
小さくつぶやいて、顔を伏せる。

でも心の奥で、昨日よりも少しだけ前に進めた気がした。
「大嫌い」と口にする自分の中に、確かに「好き」が芽生えているのだから。

朱里は小さなため息をついてモニターに向き直った。
新しい一日が始まる。
それは同時に、彼女と嵩の関係が少しずつ変わっていく予感でもあった。