翌朝、朱里は鏡の前でため息をついていた。

「はぁ……顔、むくんでる」

昨日の夜はほとんど眠れなかった。
何度目を閉じても、雨に濡れた街角でのやり取りがフラッシュバックしてくる。
──傘を差し出す嵩の横顔。
──「大嫌い」と言い放ってしまった自分の声。

あの瞬間から、朱里の心はずっと落ち着かないままだった。

会社に着くと、偶然にもエントランスで嵩と鉢合わせした。
嵩は笑顔で軽く会釈する。

「おはようございます、中谷さん」

その穏やかな声に胸が跳ねる。
昨日のことを根に持っている様子はなさそうだ。
むしろ、何事もなかったかのように接してくれている。

(……優しい。そういうところが、余計にずるいんです)

朱里は視線を逸らし、そっけなく返す。
「おはようございます」

二人で並んでエレベーターに乗り込む。
密室に流れる沈黙。朱里は心臓の鼓動を聞かれそうで落ち着かない。

「昨日は……大変でしたね」
嵩が口を開いた。
「雨の中、走って戻ってきて。風邪とかひいてませんか?」

「ひいてません」
朱里は短く答える。

(またそうやって心配して……)
本当は嬉しい。でも、素直に喜ぶことができない。

「もし風邪引いたら、困りますから。明日のプレゼン、あなたがいないと回りませんし」
嵩が少し冗談めかして言う。

朱里は思わず口を尖らせた。
「……だから嫌いなんです。そうやって誰にでも優しいから」

──二回目。

嵩が一瞬きょとんとした顔をする。
だが、すぐに苦笑して「厳しいですね」とだけ返した。

朱里は自分の発言を後悔しつつ、もう引っ込みがつかない。
(本当は嬉しいくせに。どうしていつも逆のことばかり言っちゃうの、私)

その日の午後。
プレゼン準備で資料を確認していた朱里のデスクに、嵩がやってきた。

「中谷さん、これ昨日のデータの追加分です。あなたの資料に差し込んでおくと、説得力が増すと思います」

「……ありがとうございます」
思わず口をついて出た言葉に、自分でも驚く。

嵩が少し嬉しそうに微笑んだ。
「よかった。昨日みたいに『大嫌い』って言われるかと思いました」

「っ……!」
朱里の顔が一気に赤くなる。

「そ、そうです、大嫌いです!」

──三回目。

「えぇ……」嵩は苦笑しながら頭をかいた。
「まぁ、そういうことにしておきます」

その反応がまた朱里をもどかしくさせる。
(どうして気づかないんですか。どうして笑って流すんですか。
……本当は、その笑顔が好きで仕方ないのに)

夕方、仕事を終えて会社を出ると、再び小雨が降り出していた。
嵩が横から傘を差し出す。

「一緒に帰りましょう」

「いりません」朱里は即答する。

「でも——」

「大嫌いです。そういう押しつけがましいの」

──四回目。

傘の下から逃げ出すように駆け出した朱里の胸は、昨日よりもさらに痛かった。

「ほんとは……一緒に帰りたかったのに」

夜の街灯に滲む雨粒を見上げながら、朱里は自分の心の不器用さを呪うしかなかった。