中谷朱里は、スマートフォンを伏せたまま、しばらく動けずにいた。
画面に表示された嵩からの短いメッセージは、もう何度も読み返したはずなのに、胸の奥でまだ反響している。
——ありがとう。
——あのとき、言われなかった言葉に救われました。
それだけだった。
理由も説明も、感情の整理もない。けれど、朱里には十分すぎるほどだった。
「……そうか」
誰に向けるでもなく、小さく呟く。
伝えなかったことが、誰かを前に進ませることもある。
それは、勇気を出して話すこととは別の、もうひとつの選択だったのだと、今さらながら実感する。
キッチンから、田中美鈴の声がした。
「朱里ー、そろそろ行く時間じゃない?」
「はい、今行きます」
立ち上がり、コートに腕を通す。
鏡に映る自分は、少しだけ表情が柔らいで見えた。
「……よかったですね」
ふいに、美鈴が言う。
何のことかは聞かなくてもわかる。
「はい。でも、何かが終わったって感じじゃなくて」
「うん?」
「始まった、というほどでもなくて……ただ、ちゃんと“今”に戻ってきた感じです」
美鈴は一瞬考えてから、笑った。
「それ、一番健全だと思う」
玄関を出る直前、朱里はもう一度スマートフォンを手に取る。
返信を書くかどうか、少し迷って——結局、短い一文だけを打った。
——こちらこそ。
——無理のない速度で、進んでください。
送信。
それでいい、と自分に言い聞かせる。
同じ頃。
平田嵩は、オフィスの窓際に立ち、街を見下ろしていた。
朱里からの返信を読み終えたあと、不思議と胸が軽かった。
背中を押された、という感覚はある。
けれどそれは、「行け」と言われたわけでも、「待つ」と約束されたわけでもない。
——無理のない速度で。
その言葉が、今の自分には何よりありがたかった。
「平田さん、会議室空きました」
後輩の声に、嵩は振り返る。
「ああ、ありがとう。すぐ行く」
歩き出しながら、ふと思う。
言われなかった言葉があったからこそ、
自分は“自分で決める場所”に立てたのだ、と。
踏み出した人だけが聞こえる音がある。
それは、大きな拍手でも、劇的な合図でもない。
ただ、足元で確かに鳴る、小さな一歩の音だ。
嵩はその音を、確かに聞いていた。
画面に表示された嵩からの短いメッセージは、もう何度も読み返したはずなのに、胸の奥でまだ反響している。
——ありがとう。
——あのとき、言われなかった言葉に救われました。
それだけだった。
理由も説明も、感情の整理もない。けれど、朱里には十分すぎるほどだった。
「……そうか」
誰に向けるでもなく、小さく呟く。
伝えなかったことが、誰かを前に進ませることもある。
それは、勇気を出して話すこととは別の、もうひとつの選択だったのだと、今さらながら実感する。
キッチンから、田中美鈴の声がした。
「朱里ー、そろそろ行く時間じゃない?」
「はい、今行きます」
立ち上がり、コートに腕を通す。
鏡に映る自分は、少しだけ表情が柔らいで見えた。
「……よかったですね」
ふいに、美鈴が言う。
何のことかは聞かなくてもわかる。
「はい。でも、何かが終わったって感じじゃなくて」
「うん?」
「始まった、というほどでもなくて……ただ、ちゃんと“今”に戻ってきた感じです」
美鈴は一瞬考えてから、笑った。
「それ、一番健全だと思う」
玄関を出る直前、朱里はもう一度スマートフォンを手に取る。
返信を書くかどうか、少し迷って——結局、短い一文だけを打った。
——こちらこそ。
——無理のない速度で、進んでください。
送信。
それでいい、と自分に言い聞かせる。
同じ頃。
平田嵩は、オフィスの窓際に立ち、街を見下ろしていた。
朱里からの返信を読み終えたあと、不思議と胸が軽かった。
背中を押された、という感覚はある。
けれどそれは、「行け」と言われたわけでも、「待つ」と約束されたわけでもない。
——無理のない速度で。
その言葉が、今の自分には何よりありがたかった。
「平田さん、会議室空きました」
後輩の声に、嵩は振り返る。
「ああ、ありがとう。すぐ行く」
歩き出しながら、ふと思う。
言われなかった言葉があったからこそ、
自分は“自分で決める場所”に立てたのだ、と。
踏み出した人だけが聞こえる音がある。
それは、大きな拍手でも、劇的な合図でもない。
ただ、足元で確かに鳴る、小さな一歩の音だ。
嵩はその音を、確かに聞いていた。



