大嫌い!って100回言ったら、死ぬほど好きに変わりそうな気持ちに気付いてよ…。

定時が近づくにつれて、
朱里の集中力は、少しずつ削れていった。

時計を見るたびに、針が進むのがやけに遅い。

(あと一時間……三十分……)

仕事は終わる。

でも、今日の本番はその先にある。

「中谷」

低い声に、肩が小さく跳ねた。

振り向くと、美鈴が立っていた。

いつも通りの、落ち着いた表情。

「今日、定時で上がれる?」
「……はい。大丈夫です」

朱里の答えを聞いて、美鈴は一瞬だけ視線を細めた。

「そう。じゃあ、無理しないで」

それだけ言って、去っていく。

詮索も、励ましもない。

でも――

(知ってる)

美鈴は、何かを察している。

それを言葉にしないのも、彼女なりの距離の
取り方だ。

午後六時。

PCをシャットダウンし、立ち上がる。

周囲の音が、いつもより遠く感じる。

エレベーター前に向かう途中、
ふと視線を上げると――
嵩がいた。

壁際に立ち、スマートフォンを見ている。

昨日より、少しだけ緊張した横顔。

朱里が近づくと、嵩は顔を上げた。

「……お疲れさま」
「お疲れさまです」

その一言だけで、空気が張り詰める。

二人並んで、エレベーターに乗る。

沈黙は、もう慣れたはずなのに。

今日は、違う。

「ありがとう」

扉が閉まった直後、嵩が言った。

「来てくれて」

朱里は、すぐに返せなかった。

“来てくれて”
その言葉が、思っていた以上に重かったから。

「……私も」

ようやく、それだけ口にする。

エレベーターが一階に着く。

扉が開き、夕方の空気が流れ込む。

外へ出ると、日が落ちかけていた。

空はまだ明るいのに、影が長い。

「歩きながらでいい?」

嵩が聞く。

「……はい」

選んだ場所は、駅へ向かう道とは少し違う、

人通りの少ない遊歩道だった。

川沿いの道。

ベンチと街灯が、一定の間隔で並んでいる。

歩き始めてしばらく、
どちらも口を開かなかった。

朱里は、思う。

(もう、“大嫌い”は言えない)

言えば、守れる距離がある。

でも、壊してしまうものも、はっきり見えてしまった。

嵩が足を止める。

「……ここで、少し」

朱里も立ち止まる。

川の水面が、街灯を映して揺れている。

嵩は、朱里を見た。

逃げない目だった。

「昨日、言わなかったことがある」

朱里の胸が、強く鳴る。

「……はい」

聞く覚悟は、できている。

嵩は一度だけ、視線を落とし、

それからまっすぐに朱里を見た。

「俺、転勤の話が出てる」

ついに来た。

「ほぼ、決まってる」

言葉は静かだった。

でも、逃げ場はない。

朱里は、何も言わなかった。

言えなかった、のではない。

ここでは、言わないと決めた。

嵩は続ける。

「だから……今日、話したかった」

朱里は、小さく息を吸った。

そして。

「……ありがとう」

そう言った。

嵩が、少し驚いたように目を瞬かせる。

「今すぐ答えは出せないです」

朱里は、正直に言う。

「でも……聞かなかったことには、したくなかった」

それだけ。

泣きもしない。

責めもしない。

ただ、受け取った。

嵩は、ゆっくり頷いた。

「それでいい」

そう言った声が、少しだけ震えていた。

朱里は思う。

(選んだのは、まだ結論じゃない)
(でも、逃げない選択だ)

川の水面が、また揺れる。

言われなかった言葉。
言えなかった言葉。

それらすべての、その先で――
二人は、同じ場所に立っていた。