翌朝。
嵩はいつもより少し早く会社に着いた。
誰かと約束があるわけでも、急ぎの仕事があるわけでもない。
ただ、昨夜の続きを、頭の中で終わらせたくなかった。
デスクに座り、コーヒーを一口飲む。
苦味が、やけに現実的だった。
(朱里は、言わなかった)
それが、どうしても引っかかっていた。
「好き」とも言わなかった。
「一緒にいてほしい」とも言わなかった。
引き止めもしなければ、突き放しもしなかった。
それなのに──
あの夜は、逃げなかった。
嵩はPCを立ち上げ、業務メールを確認する。
その中に、見慣れた件名があった。
【人事異動に関する最終確認】
胸の奥が、ひくりと動く。
“ほぼ確定”だった転勤は、
もう“いつ・どう伝えるか”の段階に入っている。
昨夜までは、
「もう少し一人で抱えよう」
そう思っていた。
でも今は、違う。
朱里は、全部を預けなかった。
だからこそ、嵩も“全部を一人で決める”必要はない。
(選択を、共有していい)
それが、彼女が言わなかった言葉の、意味なのだと思った。
午前中の会議が終わり、廊下ですれ違った美鈴が、嵩をちらりと見る。
「……平田さん」
足を止めたのは、美鈴のほうだった。
「顔、少し変わりましたね」
嵩は苦笑する。
「そう見えますか」
「ええ。決断した人の顔です」
「まだ、全部じゃないですけど」
美鈴は頷いた。
「それで十分です。
一人で決めないって選択も、立派な決断ですから」
それ以上、何も言わなかった。
でも、その一言で、嵩の背中はもう一度押された。
昼休み。
スマートフォンを取り出し、朱里の名前を表示する。
すぐに送らない。
急がせない。
でも──先延ばしにもしない。
打った文は短い。
《今日、帰りに少し話せる?
重い話だけど、ちゃんと向き合いたい》
送信。
画面を伏せた瞬間、
嵩は初めて“怖さ”を感じた。
答え次第で、何かが動く。
動いてしまえば、もう元には戻れない。
それでも。
(言われなかった言葉の、その先へ行くって、こういうことだ)
窓の外では、昼の光が変わらず差している。
世界は何も変わっていないように見える。
でも、嵩の中では確かに、
“待つだけの時間”が終わりを迎えていた。
嵩はいつもより少し早く会社に着いた。
誰かと約束があるわけでも、急ぎの仕事があるわけでもない。
ただ、昨夜の続きを、頭の中で終わらせたくなかった。
デスクに座り、コーヒーを一口飲む。
苦味が、やけに現実的だった。
(朱里は、言わなかった)
それが、どうしても引っかかっていた。
「好き」とも言わなかった。
「一緒にいてほしい」とも言わなかった。
引き止めもしなければ、突き放しもしなかった。
それなのに──
あの夜は、逃げなかった。
嵩はPCを立ち上げ、業務メールを確認する。
その中に、見慣れた件名があった。
【人事異動に関する最終確認】
胸の奥が、ひくりと動く。
“ほぼ確定”だった転勤は、
もう“いつ・どう伝えるか”の段階に入っている。
昨夜までは、
「もう少し一人で抱えよう」
そう思っていた。
でも今は、違う。
朱里は、全部を預けなかった。
だからこそ、嵩も“全部を一人で決める”必要はない。
(選択を、共有していい)
それが、彼女が言わなかった言葉の、意味なのだと思った。
午前中の会議が終わり、廊下ですれ違った美鈴が、嵩をちらりと見る。
「……平田さん」
足を止めたのは、美鈴のほうだった。
「顔、少し変わりましたね」
嵩は苦笑する。
「そう見えますか」
「ええ。決断した人の顔です」
「まだ、全部じゃないですけど」
美鈴は頷いた。
「それで十分です。
一人で決めないって選択も、立派な決断ですから」
それ以上、何も言わなかった。
でも、その一言で、嵩の背中はもう一度押された。
昼休み。
スマートフォンを取り出し、朱里の名前を表示する。
すぐに送らない。
急がせない。
でも──先延ばしにもしない。
打った文は短い。
《今日、帰りに少し話せる?
重い話だけど、ちゃんと向き合いたい》
送信。
画面を伏せた瞬間、
嵩は初めて“怖さ”を感じた。
答え次第で、何かが動く。
動いてしまえば、もう元には戻れない。
それでも。
(言われなかった言葉の、その先へ行くって、こういうことだ)
窓の外では、昼の光が変わらず差している。
世界は何も変わっていないように見える。
でも、嵩の中では確かに、
“待つだけの時間”が終わりを迎えていた。



