大嫌い!って100回言ったら、死ぬほど好きに変わりそうな気持ちに気付いてよ…。

朱里と別れたあと、嵩はしばらくその場を動けなかった。

 時計を見ると、思っていたより時間は経っていない。それなのに、胸の奥には、ひとつの夜を越えたあとのような静けさが残っていた。

 朱里は、すべてを語ったわけではなかった。

 迷っていることも、不安も、言葉にした。

でも──決定的な一言だけは、最後まで口にしなかった。

「……言わなかった、んだな」

 歩き出しながら、嵩は独り言のように呟く。

 それが何だったのか、具体的にはわからない。それでも、あれは“言えなかった”のではなく、“選んで言わなかった”のだと、なぜかはっきり感じていた。

 帰り道、朱里の声が何度も思い出される。

 「まだ、自分の言葉じゃない気がして」

 「決めたら、それは逃げじゃなくなるから」

 彼女は、自分の弱さを差し出した。

 でも、嵩に寄りかかる形ではなかった。

 答えを預けることもしなかった。

 それが、少しだけ寂しくて──同時に、ひどく誇らしかった。

 嵩は立ち止まり、夜空を見上げる。

 もし、朱里があのとき「一緒にいてほしい」と言っていたら、自分は迷わず頷いただろう。

 もし、「離れるかもしれない」と言われていたら、引き留める言葉を探しただろう。

 けれど、朱里はどちらも言わなかった。

 その沈黙は、嵩に選択を投げ返してきているようだった。

「……俺は、どうしたいんだ」

 答えは、もう胸の奥にあった。

 朱里が決めきれない時間を過ごしているなら、
 朱里が自分の言葉を探しているなら、
 自分は──その隣に立つ覚悟を、先に決めてもいい。

 守るとか、引っ張るとか、そういう大きなことじゃない。

 ただ、逃げ道を塞がず、立ち止まる場所を一緒に選ぶこと。

 朱里が言わなかった言葉は、
 「助けて」でも
 「待って」でもなかった。

 それはきっと、
 「信じてる」だったのだと、嵩は思う。

 ポケットの中で、スマートフォンがわずかに震える。

 メッセージは来ていない。それでも、嵩は画面を点けて、メモアプリを開いた。

 ──焦らなくていい。
 ──決めるのは、君のタイミングでいい。
 ──でも、俺はここにいる。

 送らない文章を打ち込み、保存する。

 今は、まだ伝えない。それでいい。

 朱里が“伝えること”と“伝えないこと”を選んだように、

 嵩もまた、“待つ”という選択を選び取ったのだから。

 夜風が少し冷たくなった。

 それでも、嵩の歩幅は、さっきより確かに前を向いていた。