大嫌い!って100回言ったら、死ぬほど好きに変わりそうな気持ちに気付いてよ…。

会議室のドアが、静かに閉まった。

昼休み直前。

誰もいないはずの時間帯を、嵩が選んだ。

「……座ろうか」

そう言われて、朱里は頷く。

向かい合って座る距離が、やけに遠く感じた。

机の上には、何もない。

資料も、メモも、逃げ道も。

嵩は一度、息を整えるように胸を上下させた。

「昨日、話すって言ったこと」

「……うん」

声が震えなかったことに、朱里自身が驚いた。

嵩は目を逸らさない。

「転勤の話が、正式に来た」

──きた。

頭では分かっていた言葉なのに、

実際に聞くと、音が違った。

「四月付けで」

「……場所は?」

聞けた。

逃げなかった。

「関西支社」

「ほぼ確定だ。最終確認だけ残ってる」

“ほぼ確定”。

それは、もう決まっているという意味だった。

沈黙が落ちる。

時計の針の音が、やけに大きい。

朱里は膝の上で、拳をぎゅっと握った。

(距離、だ)

時間でも、気持ちでもなく。

物理的な距離。

嵩が続ける。

「俺、一人で決めるつもりだった」

「……うん」

「でも、それは違うって言われた」

誰に、とは聞かなくても分かった。

美鈴だ。

「中谷さんに、ちゃんと話さないまま進むのは」

「卑怯だって」

その言葉に、朱里は少しだけ笑った。

「……田中さん、言いそうですね」

嵩も、わずかに笑う。

でも、すぐに真剣な目に戻った。

「行くか、行かないか」

「正直、まだ決めきれてない」

その言葉に、朱里の胸がざわつく。

「でも」

「逃げる選択肢は、もうないと思ってる」

嵩は、ゆっくり言葉を置く。

「仕事としては、行くのが正解だ」

「評価も、条件も、悪くない」

淡々とした説明。

でも、それは“仕事の話”だけだった。

朱里は、そこを待っていた。

「……私のことは?」

言葉に出した瞬間、心臓が強く打った。

嵩は、間を置かず答えた。

「大事だよ」

「だから、話してる」

逃げない答えだった。

でも、優しすぎて、痛い。

「一緒に来て、とは言えない」

「残ってほしい、とも言えない」

朱里は、視線を落とす。

(そうだよね)

どちらも、相手の人生を奪う言葉だ。

「中谷さんの選択を」

「縛りたくない」

嵩の声は、静かだった。

「……だから」

「転勤は、事実として伝える」

「その上で――どうするかは、二人で考えたい」

“二人で”。

その言葉が、胸に残る。

朱里は、ゆっくり息を吸った。

怖かった。

でも、昨夜決めた。

聞くと。

逃げないと。

「……分かりました」

顔を上げる。

嵩を見る。

「聞く覚悟は、してきました」

「今すぐ答えは出せないけど」

一拍、置いて。

「知らないままより、ずっといいです」

嵩の肩が、わずかに緩んだ。

「ありがとう」

「……そう言ってもらえるの、救われる」

会議室の外から、誰かの足音が近づく。

現実が、戻ってくる音。

嵩が立ち上がる。

「今日は、ここまでにしよう」

「続きは……ちゃんと時間を取って」

朱里も立つ。

足は、まだ震えていた。

でも、立てていた。

「はい」

「……逃げませんから」

その言葉に、嵩は小さく頷いた。

ドアを開ける直前、嵩が一度だけ振り返る。

「中谷さん」

「はい」

「聞いてくれて、本当にありがとう」

朱里は、微笑んだ。

それは、強がりじゃない。

ちゃんと、受け取った証だった。