大嫌い!って100回言ったら、死ぬほど好きに変わりそうな気持ちに気付いてよ…。

夜十一時。

嵩は、部屋の明かりをつけないまま、ソファに座っていた。

カーテンの隙間から、街灯の白い光だけが差し込んでいる。

テレビは消えたまま。

もし音を流したら、考えるのをやめてしまいそうだった。

テーブルの上には、スマホ。

課長からのメッセージは、まだ既読になっていない。

《正式通知は今週中。準備を始めておいてくれ》

短い文面。

逃げ場のない現実。

(準備、か……)

転勤は、仕事としては正解だ。

評価も、チャンスも、間違いなく手に入る。

でも──
朱里の顔が浮かぶ。

駅前で、少し震えた声で言われた言葉。

──「待てます」

その一言が、嵩を縛っていた。

待たせる権利なんて、自分にあるのか。

約束していい未来なのか。

ソファの背にもたれ、天井を見る。

(選ばない、は選択じゃない)

分かっている。

分かっているから、苦しい。

ポケットに入れたままの名刺入れを取り出す。

そこに挟まっていた、朱里のメモ。

以前、仕事で渡されたものだ。

走り書きの文字。

少し癖のある丸み。

ただのメモなのに、指が止まる。

(……近づくなって、言われたら)

その想像だけで、息が詰まった。

逆に。

(……行ってください、って言われたら)

それもまた、辛い。

どちらに転んでも、傷つく未来しか見えない。

でも──
嵩は、ゆっくりとスマホを手に取った。

朱里の名前を、開く。

送信画面まで行って、止まる。

(今じゃない)

今言えば、ただ不安を渡すだけだ。

答えを持たないまま、怖さを押し付けることになる。

それだけは、したくなかった。

「……俺は」

声に出してみる。

「……逃げないって、言った」

自分に向けての言葉。

だったら、やるべきことは一つしかない。

まず──
自分の気持ちを、はっきりさせること。

仕事か、朱里か。

そんな単純な二択じゃない。

“どちらも大事だ”という事実から、

どういう形で責任を取るか。

それを決めなければならない。

嵩は、立ち上がり、窓を開けた。

夜風が入る。

冷たくて、現実的で、頭が少し冴える。

(もし、行くなら)

朱里に、ちゃんと時間を渡す。

選ぶ自由を、奪わない。

(もし、行かないなら)

仕事から逃げたと言われても、

自分で引き受ける。

どちらも、簡単じゃない。

でも。

(どちらも、“決めた”なら、言える)

嵩は、スマホをテーブルに置いた。

課長のメッセージを、既読にする。

そして、短く打った。

《承知しました。
 少し考える時間をください》

送信。

胸の奥で、何かが静かに動き出す。

この夜は、答えを出す夜じゃない。

でも──
逃げずに考える夜だ。

嵩は、ソファに戻り、目を閉じた。

朱里の声を思い出しながら。