それは、会議の終わり際だった。
「──あ、そういえば」
課長が資料を閉じながら、何気ない口調で言った。
「来月の人事異動、最終調整に入ってます。
正式発表はもう少し先ですが、各部署、引き継ぎの準備だけは進めておいてください」
その一言で、空気がほんの少しだけ張り詰めた。
“来月”“人事異動”。
朱里の指が、無意識にペンを握り直す。
(……来月?)
ざわ、と小さな波が広がる。
「今回、動く人多いらしいですよ」
「営業、地方出るって噂ありますよね」
「え、誰が?」
──噂は、形を持たないまま、具体性だけを増していく。
朱里は、視線を落としたまま、聞いているふりをしていた。
聞きたくないわけじゃない。
でも、聞いてしまったら、何かが決定的になる気がして。
ふと、顔を上げると。
斜め前の席で、嵩が静かに資料をまとめていた。
表情は変わらない。
いつも通り、落ち着いていて、冷静で。
──でも。
朱里には分かってしまった。
嵩は、この話題を“初耳”として聞いていない。
昼休み。
給湯室で、望月瑠奈が声を潜める。
「ねえ、中谷さん」
「はい?」
「……平田さん、動くって話、聞いてます?」
一瞬、呼吸が止まる。
「え?」
「営業のエース枠、地方支社に一人送るって。
条件、完全一致なんですよね」
軽い口調。
悪意はない。
でも、容赦がなかった。
「私、まだ何も……」
朱里がそう言うと、瑠奈は少しだけ目を丸くした。
「あ、そっか。
本人からは、まだなんだ」
──その言い方。
「まだ」。
朱里の胸に、嫌な重さが落ちる。
午後の仕事は、正直、あまり頭に入ってこなかった。
数字を確認しながらも、
メールを打ちながらも、
思考は何度も同じところに戻る。
(転勤……?
じゃあ、昨日の“また明日”は……?)
逃げないって決めた。
怖いって言うって決めた。
でも、
“時間が限られているかもしれない”ことは、
まだ覚悟していなかった。
定時前。
美鈴が、朱里のデスク横に立つ。
「中谷さん」
「はい」
「……今日、帰り、一人で大丈夫?」
それだけで、察しているのが分かる。
朱里は、小さく笑った。
「大丈夫です。
……でも、帰りは一緒に帰ります」
「そう」
美鈴はそれ以上何も言わない。
言わないけれど、確実に“準備”をしている目だった。
定時。
エレベーター前で、嵩が声をかけてくる。
「……一緒に、帰れる?」
朱里は頷く。
並んで歩き出してから、しばらく沈黙が続く。
昨日までの“心地いい沈黙”とは違う。
言葉が、喉の奥で渋滞している沈黙。
耐えきれず、朱里が口を開く。
「……今日、人事異動の話、出ましたね」
嵩の足が、ほんの一瞬だけ遅れた。
「うん」
否定しない。
誤魔化さない。
それが、何よりの答えだった。
「……何か、聞いてますか?」
問いは、震えていなかった。
でも、覚悟を要する声だった。
嵩は、少しだけ空を見上げてから言う。
「正式じゃない。
でも……可能性は、ある」
胸が、ぎゅっと締め付けられる。
「……どこ、ですか?」
「まだ、言えない」
その言葉は、拒絶じゃなかった。
むしろ、“守ろうとしている”響きだった。
「決まったら、ちゃんと話す。
逃げないって、言っただろ?」
朱里は、立ち止まらずに歩きながら、答える。
「……はい」
怖い。
昨日より、ずっと。
でも。
(言わなかったら、きっと後悔していた)
その言葉が、今も支えになっている。
転勤の話は、もう噂じゃない。
職場の空気が、それを証明している。
それでも──
今は、隣を歩いている。
その事実だけを、朱里は大事に抱えた。
「──あ、そういえば」
課長が資料を閉じながら、何気ない口調で言った。
「来月の人事異動、最終調整に入ってます。
正式発表はもう少し先ですが、各部署、引き継ぎの準備だけは進めておいてください」
その一言で、空気がほんの少しだけ張り詰めた。
“来月”“人事異動”。
朱里の指が、無意識にペンを握り直す。
(……来月?)
ざわ、と小さな波が広がる。
「今回、動く人多いらしいですよ」
「営業、地方出るって噂ありますよね」
「え、誰が?」
──噂は、形を持たないまま、具体性だけを増していく。
朱里は、視線を落としたまま、聞いているふりをしていた。
聞きたくないわけじゃない。
でも、聞いてしまったら、何かが決定的になる気がして。
ふと、顔を上げると。
斜め前の席で、嵩が静かに資料をまとめていた。
表情は変わらない。
いつも通り、落ち着いていて、冷静で。
──でも。
朱里には分かってしまった。
嵩は、この話題を“初耳”として聞いていない。
昼休み。
給湯室で、望月瑠奈が声を潜める。
「ねえ、中谷さん」
「はい?」
「……平田さん、動くって話、聞いてます?」
一瞬、呼吸が止まる。
「え?」
「営業のエース枠、地方支社に一人送るって。
条件、完全一致なんですよね」
軽い口調。
悪意はない。
でも、容赦がなかった。
「私、まだ何も……」
朱里がそう言うと、瑠奈は少しだけ目を丸くした。
「あ、そっか。
本人からは、まだなんだ」
──その言い方。
「まだ」。
朱里の胸に、嫌な重さが落ちる。
午後の仕事は、正直、あまり頭に入ってこなかった。
数字を確認しながらも、
メールを打ちながらも、
思考は何度も同じところに戻る。
(転勤……?
じゃあ、昨日の“また明日”は……?)
逃げないって決めた。
怖いって言うって決めた。
でも、
“時間が限られているかもしれない”ことは、
まだ覚悟していなかった。
定時前。
美鈴が、朱里のデスク横に立つ。
「中谷さん」
「はい」
「……今日、帰り、一人で大丈夫?」
それだけで、察しているのが分かる。
朱里は、小さく笑った。
「大丈夫です。
……でも、帰りは一緒に帰ります」
「そう」
美鈴はそれ以上何も言わない。
言わないけれど、確実に“準備”をしている目だった。
定時。
エレベーター前で、嵩が声をかけてくる。
「……一緒に、帰れる?」
朱里は頷く。
並んで歩き出してから、しばらく沈黙が続く。
昨日までの“心地いい沈黙”とは違う。
言葉が、喉の奥で渋滞している沈黙。
耐えきれず、朱里が口を開く。
「……今日、人事異動の話、出ましたね」
嵩の足が、ほんの一瞬だけ遅れた。
「うん」
否定しない。
誤魔化さない。
それが、何よりの答えだった。
「……何か、聞いてますか?」
問いは、震えていなかった。
でも、覚悟を要する声だった。
嵩は、少しだけ空を見上げてから言う。
「正式じゃない。
でも……可能性は、ある」
胸が、ぎゅっと締め付けられる。
「……どこ、ですか?」
「まだ、言えない」
その言葉は、拒絶じゃなかった。
むしろ、“守ろうとしている”響きだった。
「決まったら、ちゃんと話す。
逃げないって、言っただろ?」
朱里は、立ち止まらずに歩きながら、答える。
「……はい」
怖い。
昨日より、ずっと。
でも。
(言わなかったら、きっと後悔していた)
その言葉が、今も支えになっている。
転勤の話は、もう噂じゃない。
職場の空気が、それを証明している。
それでも──
今は、隣を歩いている。
その事実だけを、朱里は大事に抱えた。



