翌朝のオフィスは、いつもと同じだった。
いつも通りの照明、いつも通りのキーボードの音、
コーヒーの匂いと、誰かの小さなため息。
──なのに。
朱里は、席に着いた瞬間から、自分だけが少し
だけ世界から浮いている気がした。
(昨日の夜、確かに……)
平田嵩に「好きです」と言った。
怖いまま、震えたまま、逃げずに。
それだけで、世界がひっくり返るわけじゃない。
でも、元に戻ることも、もうできない。
「おはようございます」
少し遅れて嵩が出社してくる。
声はいつも通り、表情も落ち着いている。
朱里も、いつも通りに返した。
「おはようございます」
──それだけ。
目は、合わなかった。
でも、避けたわけでもない。
「変に意識しない」
それが、二人の中で無言の約束みたいに存在していた。
午前中の業務は、滞りなく進んだ。
資料の確認。
簡単なやり取り。
必要な報告。
距離は、昨日までと同じ。
言葉の温度も、仕事の精度も。
……ただ、違ったのは。
朱里が立ち上がった瞬間、
嵩が一瞬だけ、反射的に視線を上げたこと。
嵩が咳払いをしたとき、
朱里の指が、無意識にペンを止めたこと。
ほんの一瞬。
誰にも気づかれないくらいの変化。
でも、確実に──互いを「意識している」間だった。
「ねえ、中谷さん」
昼前、美鈴がさりげなく声をかけてくる。
「はい?」
「……雰囲気、変わった?」
心臓が跳ねた。
「そ、そうですか?」
「うん。
“何かあった顔”じゃなくて、
“何か決めた顔”」
逃げ場のない分析だった。
朱里は、苦笑いで誤魔化す。
「気のせいですよ」
「そう。ならいい」
美鈴はそれ以上踏み込まない。
踏み込まない代わりに、全て分かっている目で、一度だけ朱里を見る。
──親友だけが許される、無言の確認。
午後。
コピー機の前で、偶然、嵩と二人きりになる。
「……昨日は」
嵩が言いかけて、言葉を切った。
「すみません、仕事中でしたね」
朱里も、小さく首を振る。
「大丈夫です。
……今は、それで」
嵩は、少しだけ口元を緩めた。
「うん。
じゃあ、また“帰りに”」
その一言が、胸に残る。
“帰りに”。
昨日の続きが、ちゃんと今日にも繋がっている
証拠。
周囲では、誰かが小声で話している。
「最近、あの二人、静かじゃない?」
「前より、逆に距離あるよね?」
──噂は、まだ輪郭を持たない。
でも、職場は敏感だ。
何も起きていない“ふり”の裏側を、無意識に嗅ぎ取る。
定時。
朱里はバッグを持ち、立ち上がる。
嵩も、同じタイミングで席を離れた。
視線が合う。
頷くだけ。
それだけで、十分だった。
(言わなかったら、きっと後悔していた)
でも──
言ったからこそ、始まった“次の怖さ”も、確かにある。
それでも。
並んで歩く帰り道が、
今日も待っている。
怖いままでも、前に進む。
それが、二人の選んだ距離だった。
いつも通りの照明、いつも通りのキーボードの音、
コーヒーの匂いと、誰かの小さなため息。
──なのに。
朱里は、席に着いた瞬間から、自分だけが少し
だけ世界から浮いている気がした。
(昨日の夜、確かに……)
平田嵩に「好きです」と言った。
怖いまま、震えたまま、逃げずに。
それだけで、世界がひっくり返るわけじゃない。
でも、元に戻ることも、もうできない。
「おはようございます」
少し遅れて嵩が出社してくる。
声はいつも通り、表情も落ち着いている。
朱里も、いつも通りに返した。
「おはようございます」
──それだけ。
目は、合わなかった。
でも、避けたわけでもない。
「変に意識しない」
それが、二人の中で無言の約束みたいに存在していた。
午前中の業務は、滞りなく進んだ。
資料の確認。
簡単なやり取り。
必要な報告。
距離は、昨日までと同じ。
言葉の温度も、仕事の精度も。
……ただ、違ったのは。
朱里が立ち上がった瞬間、
嵩が一瞬だけ、反射的に視線を上げたこと。
嵩が咳払いをしたとき、
朱里の指が、無意識にペンを止めたこと。
ほんの一瞬。
誰にも気づかれないくらいの変化。
でも、確実に──互いを「意識している」間だった。
「ねえ、中谷さん」
昼前、美鈴がさりげなく声をかけてくる。
「はい?」
「……雰囲気、変わった?」
心臓が跳ねた。
「そ、そうですか?」
「うん。
“何かあった顔”じゃなくて、
“何か決めた顔”」
逃げ場のない分析だった。
朱里は、苦笑いで誤魔化す。
「気のせいですよ」
「そう。ならいい」
美鈴はそれ以上踏み込まない。
踏み込まない代わりに、全て分かっている目で、一度だけ朱里を見る。
──親友だけが許される、無言の確認。
午後。
コピー機の前で、偶然、嵩と二人きりになる。
「……昨日は」
嵩が言いかけて、言葉を切った。
「すみません、仕事中でしたね」
朱里も、小さく首を振る。
「大丈夫です。
……今は、それで」
嵩は、少しだけ口元を緩めた。
「うん。
じゃあ、また“帰りに”」
その一言が、胸に残る。
“帰りに”。
昨日の続きが、ちゃんと今日にも繋がっている
証拠。
周囲では、誰かが小声で話している。
「最近、あの二人、静かじゃない?」
「前より、逆に距離あるよね?」
──噂は、まだ輪郭を持たない。
でも、職場は敏感だ。
何も起きていない“ふり”の裏側を、無意識に嗅ぎ取る。
定時。
朱里はバッグを持ち、立ち上がる。
嵩も、同じタイミングで席を離れた。
視線が合う。
頷くだけ。
それだけで、十分だった。
(言わなかったら、きっと後悔していた)
でも──
言ったからこそ、始まった“次の怖さ”も、確かにある。
それでも。
並んで歩く帰り道が、
今日も待っている。
怖いままでも、前に進む。
それが、二人の選んだ距離だった。



