その日は、何でもない金曜日だった。
午後の会議が早めに終わり、
部署全体が少しだけ気の緩んだ空気に包まれていた。
「今日、飲み行く人ー?」
誰かの声に、数人が反応する。
朱里は資料を片付けながら、静かに帰る準備をしていた。
「中谷さん」
唐突に呼ばれて、顔を上げる。
そこにいたのは、瑠奈だった。
椅子をくるっと回し、肘をついてこちらを見ている。
「はい?」
「昨日、誰と帰ったんですか?」
一瞬で、空気が止まった。
「……え?」
「だって、いつもより靴きれいだし。
あと、今日はネイルも直してる」
根拠が、どうでもいいのに鋭い。
「たまたま、です」
「ふーん」
納得していない声。
瑠奈は、ちらりと朱里の背後を見る。
「平田さん?」
名前を呼ばれ、嵩が振り返る。
「昨日、中谷さんと一緒でしたよね?」
──完全にアウト。
「……瑠奈」
美鈴が、低く制止する。
でも、瑠奈は止まらない。
「だって気になってたんですもん。
最近、二人とも“話しかけてほしくない顔”してるし」
朱里の背筋が凍る。
嵩は一瞬だけ考えるように視線を落とし、
そして、はっきり言った。
「一緒に帰りました」
ざわ、と小さく空気が揺れた。
「やっぱり!」
瑠奈は、嬉しそうですらある。
「じゃあ、付き合ってるんですか?」
その言葉は、刃物みたいに真っ直ぐだった。
朱里は息を吸うことも忘れた。
嵩が答える前に、瑠奈が続ける。
「中谷さん、
平田さんのこと、めちゃくちゃ好きですよね?」
世界が、完全に止まる。
「……え?」
「だって、平田さんがいないとき、
“嫌い”って言い方、全然違いますもん」
美鈴が、ゆっくりと立ち上がる。
「瑠奈、そこまで」
「え、ダメでした?」
本気で分かっていない顔。
瑠奈は朱里を見る。
「中谷さん、違うなら違うって言ってください」
逃げ場が、消えた。
朱里は、指先が震えるのを感じながら、口を開く。
「……好き、です」
声は小さいけれど、はっきりしていた。
「平田さんのこと、好きです」
一拍。
二拍。
誰も、何も言えない。
嵩は、ゆっくりと息を吐いてから言った。
「俺もです」
短く、迷いのない声。
「中谷さんが好きです」
瑠奈は、目を丸くしてから──
「え、じゃあ事件じゃないじゃないですか」
と、首を傾げた。
「両想いなのに、
なんでそんなに距離あるんです?」
その一言で、場の緊張が逆方向に崩れた。
「瑠奈!!」
「今度こそアウトです」
美鈴と先輩の声が重なる。
朱里は、思わず笑ってしまった。
怖かった。
恥ずかしかった。
でも──
誰かに言われなければ、
自分でも言えなかった言葉だった。
嵩が、少し困ったように笑う。
「……事件は、俺たちですね」
「ですね!」
瑠奈は満足そうに頷いた。
「でも良かったです。
ずっと見てて、
もどかしかったので」
それだけ言って、何事もなかったように席に戻る。
嵐は、去った。
朱里は、まだ少し熱の残る頬を押さえながら、思う。
(……もう、戻れない)
でも。
嵩が隣で、何も言わずに立っている。
その距離は、もう──怖いだけの距離じゃなかった。
午後の会議が早めに終わり、
部署全体が少しだけ気の緩んだ空気に包まれていた。
「今日、飲み行く人ー?」
誰かの声に、数人が反応する。
朱里は資料を片付けながら、静かに帰る準備をしていた。
「中谷さん」
唐突に呼ばれて、顔を上げる。
そこにいたのは、瑠奈だった。
椅子をくるっと回し、肘をついてこちらを見ている。
「はい?」
「昨日、誰と帰ったんですか?」
一瞬で、空気が止まった。
「……え?」
「だって、いつもより靴きれいだし。
あと、今日はネイルも直してる」
根拠が、どうでもいいのに鋭い。
「たまたま、です」
「ふーん」
納得していない声。
瑠奈は、ちらりと朱里の背後を見る。
「平田さん?」
名前を呼ばれ、嵩が振り返る。
「昨日、中谷さんと一緒でしたよね?」
──完全にアウト。
「……瑠奈」
美鈴が、低く制止する。
でも、瑠奈は止まらない。
「だって気になってたんですもん。
最近、二人とも“話しかけてほしくない顔”してるし」
朱里の背筋が凍る。
嵩は一瞬だけ考えるように視線を落とし、
そして、はっきり言った。
「一緒に帰りました」
ざわ、と小さく空気が揺れた。
「やっぱり!」
瑠奈は、嬉しそうですらある。
「じゃあ、付き合ってるんですか?」
その言葉は、刃物みたいに真っ直ぐだった。
朱里は息を吸うことも忘れた。
嵩が答える前に、瑠奈が続ける。
「中谷さん、
平田さんのこと、めちゃくちゃ好きですよね?」
世界が、完全に止まる。
「……え?」
「だって、平田さんがいないとき、
“嫌い”って言い方、全然違いますもん」
美鈴が、ゆっくりと立ち上がる。
「瑠奈、そこまで」
「え、ダメでした?」
本気で分かっていない顔。
瑠奈は朱里を見る。
「中谷さん、違うなら違うって言ってください」
逃げ場が、消えた。
朱里は、指先が震えるのを感じながら、口を開く。
「……好き、です」
声は小さいけれど、はっきりしていた。
「平田さんのこと、好きです」
一拍。
二拍。
誰も、何も言えない。
嵩は、ゆっくりと息を吐いてから言った。
「俺もです」
短く、迷いのない声。
「中谷さんが好きです」
瑠奈は、目を丸くしてから──
「え、じゃあ事件じゃないじゃないですか」
と、首を傾げた。
「両想いなのに、
なんでそんなに距離あるんです?」
その一言で、場の緊張が逆方向に崩れた。
「瑠奈!!」
「今度こそアウトです」
美鈴と先輩の声が重なる。
朱里は、思わず笑ってしまった。
怖かった。
恥ずかしかった。
でも──
誰かに言われなければ、
自分でも言えなかった言葉だった。
嵩が、少し困ったように笑う。
「……事件は、俺たちですね」
「ですね!」
瑠奈は満足そうに頷いた。
「でも良かったです。
ずっと見てて、
もどかしかったので」
それだけ言って、何事もなかったように席に戻る。
嵐は、去った。
朱里は、まだ少し熱の残る頬を押さえながら、思う。
(……もう、戻れない)
でも。
嵩が隣で、何も言わずに立っている。
その距離は、もう──怖いだけの距離じゃなかった。



