大嫌い!って100回言ったら、死ぬほど好きに変わりそうな気持ちに気付いてよ…。

昼休みの給湯室は、妙に静かだった。

電子レンジの回る音と、ポットが沸く小さな唸り。

それ以外は、何もない。

朱里はマグカップを握ったまま、ぼんやり立っていた。

昨夜のことが、まだ頭から離れない。

(手、繋いだ……)

思い出すたび、頬が熱くなる。

「……中谷さん」

背後から、低く落ち着いた声。

振り返ると、田中美鈴が立っていた。

相変わらず無表情に近い顔で、コーヒーを注いでいる。

「最近、分かりやすいですね」

心臓が跳ねた。

「え……な、何がですか?」

「嵩さんの話をするとき、
 一拍遅れてから否定するところです」

朱里は言葉を失った。

「……そんな、こと」

「あります」

即答だった。

美鈴はマグカップを手に、朱里の隣に並ぶ。

「『別に好きじゃないです』
 『興味ないです』
 『大嫌いです』」

淡々と、再現する。

「そのあと、必ず目線が下がる。
 声が半音、下がる。
 手が、止まる」

朱里は、何も言えなかった。

「……で、昨夜は何がありました?」

「な、なんで分かるんですか……」

「今日は、指輪してないのに
 左手を気にしてるからです」

完敗だった。

美鈴は朱里を責めるでもなく、ただ事実を並べる。

「中谷さんは、
 “嫌い”って言葉を盾にしてます」

「……」

「好きになるのが怖いんですよね」

胸の奥を、正確に突かれた。

朱里は唇を噛む。

「……だって、もし……」

「傷つくのが怖い?」

「……はい」

美鈴は、少しだけ首を傾けた。

「でも、それ」

一拍置いてから、言った。

「もう、十分傷ついてる人の言い分ですよ」

朱里の喉が、詰まる。

「何もしてないふりをして、
 一番痛い場所をずっと押してる」

逃げ場のない言葉だった。

美鈴は、視線を逸らさず続ける。

「嵩さん、知ってますか?」

「……え?」

「中谷さんが『大嫌い』って言うたび、
 ほんの少し、嬉しそうな顔してること」

朱里は息を呑んだ。

「嫌われてないって、
 分かってるからです」

「……そんな……」

「本当に嫌いなら、
 そもそも視界に入れません」

沈黙。

ポットが、カチ、と音を立てて止まる。

美鈴はマグを持ち上げ、最後に言った。

「中谷さん」

その声は、いつもと同じ温度なのに。

「100回『大嫌い』って言う前に、
 一回くらい、
 自分に正直になってもいいと思いますよ」

それだけ言って、給湯室を出ていった。

残された朱里は、しばらく動けなかった。

──正しい。

全部、正しい。

だからこそ、痛かった。

(……私、もう……)

否定できないところまで、来てしまっている。

朱里は、そっと左手を握りしめた。

昨夜、確かにあった温度を、

「言葉を渡す人」
 展示会の翌日。

 教室の窓から入る光が、昨日より少しやわらかく感じられた。

 席に着くと、隣からノートを閉じる音がする。

 白川澪だった。いつも通りの制服、いつも通りの静かな横顔。

「……展示会、どうだった?」

 視線を前に向けたまま、澪が言う。

 もう知っているはずなのに、あえて聞いてくれた声だった。

「……不思議だった。自分の絵なのに、少し遠くて」

「でも、ちゃんと立って見られたんでしょ」

 私は頷いた。

 澪はそれ以上、詳しく聞こうとしなかった。

「蒼さ、進路調査、まだ?」

「……うん」

 正直に答えると、澪は小さく息を吸った。

「決められないの、悪いことじゃないと思う。
 描いてる人って、すぐ“答え”にしなくていい人だと思うから」

 澪は私のほうを見た。

 強くもなく、優しすぎもしない目。

「でもね、蒼。
 描いてる間だけ本気で、あとは曖昧っていうのは……違うと思う」

 胸の奥が、静かに揺れた。

「描くって決めたなら、描く場所も、ちゃんと選んでいいんじゃない?」

 澪はそう言って、視線を窓の外に戻す。

 それ以上は言わなかった。

 だけど、その言葉は、私の中で何度も反響した。

 ──描く場所も、選んでいい。
 
 放課後、美術室。

 紺野先生は、私が来るのをわかっていたみたいに椅子を引いて待っていた。

「展示会、どうだった?」

「……逃げずに、見てきました」

「それは上出来だ」
 
 先生は笑って、机の上の進路希望調査票をこちらに向ける。

「昨日と今日で、何か変わったか?」
 私は少し考えてから、正直に答えた。

「……決められない理由が、少しだけわかりました」

「ほう」

「決めるのが怖いんじゃなくて、
 ちゃんと選んだって言える自信がなかったんだと思います」

 言葉にした瞬間、不思議と肩の力が抜けた。


「でも……描くことから逃げないって決めたなら、進む場所も、ちゃんと考えたいです」

 先生は、しばらく黙って私を見ていた。

「水瀬。
 進路欄はな、“完成”を書かなくていい。
 今の線を書けばいいんだ」

 先生はペンを差し出す。

「途中の線でも、進んでるなら十分だ」

 私は調査票を受け取った。

 真っ白だった欄が、急に怖くなくなる。

 ──まだ名前のない色。
 でも、描き続けると決めた色。

 私は、ゆっくりとペンを握った。
逃がさないように。