スマホの画面を、もう何度見ただろう。
──今日の帰り、また一緒に帰りたい。
たったそれだけの文章なのに、胸の奥がざわざわする。
(逃げない、って言ったくせに)
私は深呼吸して、親指を画面に置いた。
『……ちょっとだけなら、いいです』
送信。
それだけで、心臓が一気に早鐘を打つ。
(何この緊張感)
既読がつくのは、思ったより早かった。
そして、すぐに返事が来る。
『ありがとう。じゃあ、エントランスで待ってます』
淡々とした文面なのに、どこか嬉しそうな響きがして、勝手に顔が熱くなる。
(……単純すぎ)
その日の仕事は、正直ほとんど頭に入らなかった。
時計を見るたびに、秒針の音がやけに大きく感じる。
定時。
バッグを手に席を立つと、心なしか周囲の視線が気になる。
(別に、何もおかしくないのに)
エントランスには、すでに嵩がいた。
スーツ姿のまま、スマホをポケットにしまって、こちらに気づくと少しだけ表情が緩む。
「中谷さん」
「……平田さん」
「今日は、ありがとう」
「“ちょっとだけ”ですから」
そう言うと、嵩は小さく笑った。
「わかってます」
並んで歩き出す。
外はもう暗く、街灯の光が濡れた歩道に反射していた。
「雨、すっかりあがりましたね」
「そうですね」
会話はそれだけ。
なのに、沈黙が苦しくない。
むしろ、隣にいること自体が落ち着く。
(……こういうの、ずるい)
「中谷さん」
しばらくして、嵩が口を開いた。
「最近、前より話しやすくなった気がします」
「え……?」
「前は、“大嫌い”って、よく言われてたので」
心臓が跳ねる。
「……それ、まだ気にしてたんですか」
「正直、はい」
困ったように笑う嵩に、胸がちくっと痛んだ。
「冗談だって、わかってはいたんですけど」
「……」
「でも、最近は言われなくなって」
嵩は、少しだけ歩く速度を落とした。
「それはそれで、距離を感じるというか」
(……なんでそんなこと言うの)
私は視線を前に向けたまま、ぽつりと返す。
「……言わなくなっただけです」
「嫌いじゃ、なくなった?」
一瞬、言葉に詰まる。
(ここで“違います”って言えたら、どれだけ楽だろう)
「……」
沈黙が答えになってしまいそうで、私は慌てて付け足した。
「少なくとも、今は……言いたくないです」
嵩は、少し驚いたように目を瞬かせてから、ふっと息を吐いた。
「それ、嬉しいです」
胸が、きゅっと締め付けられる。
(……本当に、ずるい)
「……平田さん」
「はい」
「“ちょっとだけ”って言いましたけど」
私は立ち止まり、勇気を振り絞って言った。
「もう少し、歩きませんか」
嵩は、一瞬目を見開いてから、静かに笑った。
「じゃあ、今日はゆっくり行きましょうか」
並んで歩き出す夜道。
距離は、ほんの一歩分。
でも、その一歩が、想像以上に近くて──
胸の奥で、何かが確かに動き出していた。
──今日の帰り、また一緒に帰りたい。
たったそれだけの文章なのに、胸の奥がざわざわする。
(逃げない、って言ったくせに)
私は深呼吸して、親指を画面に置いた。
『……ちょっとだけなら、いいです』
送信。
それだけで、心臓が一気に早鐘を打つ。
(何この緊張感)
既読がつくのは、思ったより早かった。
そして、すぐに返事が来る。
『ありがとう。じゃあ、エントランスで待ってます』
淡々とした文面なのに、どこか嬉しそうな響きがして、勝手に顔が熱くなる。
(……単純すぎ)
その日の仕事は、正直ほとんど頭に入らなかった。
時計を見るたびに、秒針の音がやけに大きく感じる。
定時。
バッグを手に席を立つと、心なしか周囲の視線が気になる。
(別に、何もおかしくないのに)
エントランスには、すでに嵩がいた。
スーツ姿のまま、スマホをポケットにしまって、こちらに気づくと少しだけ表情が緩む。
「中谷さん」
「……平田さん」
「今日は、ありがとう」
「“ちょっとだけ”ですから」
そう言うと、嵩は小さく笑った。
「わかってます」
並んで歩き出す。
外はもう暗く、街灯の光が濡れた歩道に反射していた。
「雨、すっかりあがりましたね」
「そうですね」
会話はそれだけ。
なのに、沈黙が苦しくない。
むしろ、隣にいること自体が落ち着く。
(……こういうの、ずるい)
「中谷さん」
しばらくして、嵩が口を開いた。
「最近、前より話しやすくなった気がします」
「え……?」
「前は、“大嫌い”って、よく言われてたので」
心臓が跳ねる。
「……それ、まだ気にしてたんですか」
「正直、はい」
困ったように笑う嵩に、胸がちくっと痛んだ。
「冗談だって、わかってはいたんですけど」
「……」
「でも、最近は言われなくなって」
嵩は、少しだけ歩く速度を落とした。
「それはそれで、距離を感じるというか」
(……なんでそんなこと言うの)
私は視線を前に向けたまま、ぽつりと返す。
「……言わなくなっただけです」
「嫌いじゃ、なくなった?」
一瞬、言葉に詰まる。
(ここで“違います”って言えたら、どれだけ楽だろう)
「……」
沈黙が答えになってしまいそうで、私は慌てて付け足した。
「少なくとも、今は……言いたくないです」
嵩は、少し驚いたように目を瞬かせてから、ふっと息を吐いた。
「それ、嬉しいです」
胸が、きゅっと締め付けられる。
(……本当に、ずるい)
「……平田さん」
「はい」
「“ちょっとだけ”って言いましたけど」
私は立ち止まり、勇気を振り絞って言った。
「もう少し、歩きませんか」
嵩は、一瞬目を見開いてから、静かに笑った。
「じゃあ、今日はゆっくり行きましょうか」
並んで歩き出す夜道。
距離は、ほんの一歩分。
でも、その一歩が、想像以上に近くて──
胸の奥で、何かが確かに動き出していた。



