翌日のオフィスは、驚くほど“いつも通り”だった。
コピー機の音、キーボードを叩く音、誰かの小さなため息。
その中で私は、昨日の帰り道が夢だったんじゃないかと錯覚しそうになる。
「中谷さん、この資料──」
「はい、すぐ確認します」
平田さんは、完璧に“上司の顔”をしていた。
声のトーンも、距離感も、何ひとつ変わらない。
(……約束、ちゃんと守ってる)
そう思うと、胸の奥が少しだけむず痒い。
「中谷さーん」
ひょい、と隣から顔を出してきたのは、望月瑠奈だった。
「この数字、ここで合ってますか?」
「うん、合ってるよ」
答えながら、ふと視線を感じる。
瑠奈の目が、ちらりと平田さんの席に向いた。
「……?」
「なんでもないです」
にこっと笑うけれど、その笑顔がどこか探るようで、私は内心ドキッとする。
「そういえば」
瑠奈は声を潜めた。
「昨日、平田さんと一緒に帰ってましたよね?」
心臓が、一拍遅れる。
「……え?」
「たまたま見かけました」
あっさりと言われて、誤魔化す暇もない。
「コンビニの前で」
あの時か。
私は、できるだけ平静を装う。
「たまたま方向が同じだっただけだよ」
「ふーん」
瑠奈は、納得したような、していないような顔をする。
「でも」
ぐっと距離を詰めてきて、小声で続けた。
「中谷さん、昨日より顔色いいです」
「……それ、関係ある?」
「あります」
即答だった。
「なんか、柔らかくなってます」
私は、言葉に詰まる。
(鋭すぎるんだけど、この子)
「それに」
瑠奈は、意味ありげに笑った。
「平田さんも、ちょっとだけ優しかったです」
「えっ?」
「ほんのちょっとですよ?」
楽しそうに付け足す。
「でも、分かります」
私は、苦笑いしか返せない。
「瑠奈は、気にしすぎ」
「そうですか?」
首を傾げながら、瑠奈は席に戻っていった。
その背中を見送りながら、私は小さく息を吐く。
(これは……隠し通せる気がしない)
その時。
「中谷さん」
後ろから、平田さんの声。
「午後の打ち合わせ、少し早めても大丈夫ですか?」
「は、はい。大丈夫です」
視線が合う。
一瞬だけ、ほんの一瞬だけ。
昨日の夜の余韻みたいなものが、静かに滲んだ。
でも、すぐに平田さんは視線を外し、いつもの上司の顔に戻る。
(……ずるい)
私は心の中で、そっと呟く。
ちゃんと“約束”を守ってるのに。
なのに、こうして意識させてくる。
そして、もうひとつ確信する。
(望月瑠奈は、きっと気づき始めてる)
まだ何も始まっていないのに。
なのに、もう簡単には戻れない。
そんな予感だけが、静かに胸に残っていた。
コピー機の音、キーボードを叩く音、誰かの小さなため息。
その中で私は、昨日の帰り道が夢だったんじゃないかと錯覚しそうになる。
「中谷さん、この資料──」
「はい、すぐ確認します」
平田さんは、完璧に“上司の顔”をしていた。
声のトーンも、距離感も、何ひとつ変わらない。
(……約束、ちゃんと守ってる)
そう思うと、胸の奥が少しだけむず痒い。
「中谷さーん」
ひょい、と隣から顔を出してきたのは、望月瑠奈だった。
「この数字、ここで合ってますか?」
「うん、合ってるよ」
答えながら、ふと視線を感じる。
瑠奈の目が、ちらりと平田さんの席に向いた。
「……?」
「なんでもないです」
にこっと笑うけれど、その笑顔がどこか探るようで、私は内心ドキッとする。
「そういえば」
瑠奈は声を潜めた。
「昨日、平田さんと一緒に帰ってましたよね?」
心臓が、一拍遅れる。
「……え?」
「たまたま見かけました」
あっさりと言われて、誤魔化す暇もない。
「コンビニの前で」
あの時か。
私は、できるだけ平静を装う。
「たまたま方向が同じだっただけだよ」
「ふーん」
瑠奈は、納得したような、していないような顔をする。
「でも」
ぐっと距離を詰めてきて、小声で続けた。
「中谷さん、昨日より顔色いいです」
「……それ、関係ある?」
「あります」
即答だった。
「なんか、柔らかくなってます」
私は、言葉に詰まる。
(鋭すぎるんだけど、この子)
「それに」
瑠奈は、意味ありげに笑った。
「平田さんも、ちょっとだけ優しかったです」
「えっ?」
「ほんのちょっとですよ?」
楽しそうに付け足す。
「でも、分かります」
私は、苦笑いしか返せない。
「瑠奈は、気にしすぎ」
「そうですか?」
首を傾げながら、瑠奈は席に戻っていった。
その背中を見送りながら、私は小さく息を吐く。
(これは……隠し通せる気がしない)
その時。
「中谷さん」
後ろから、平田さんの声。
「午後の打ち合わせ、少し早めても大丈夫ですか?」
「は、はい。大丈夫です」
視線が合う。
一瞬だけ、ほんの一瞬だけ。
昨日の夜の余韻みたいなものが、静かに滲んだ。
でも、すぐに平田さんは視線を外し、いつもの上司の顔に戻る。
(……ずるい)
私は心の中で、そっと呟く。
ちゃんと“約束”を守ってるのに。
なのに、こうして意識させてくる。
そして、もうひとつ確信する。
(望月瑠奈は、きっと気づき始めてる)
まだ何も始まっていないのに。
なのに、もう簡単には戻れない。
そんな予感だけが、静かに胸に残っていた。



