大嫌い!って100回言ったら、死ぬほど好きに変わりそうな気持ちに気付いてよ…。

 夜風が、思ったより冷たかった。

 私は腕をさすりながら、言ってしまった言葉の重さを噛みしめていた。

(言っちゃった……)

 もう引き返せない。

 平田さんは、しばらく黙ったまま、私の横に立っている。

 街灯の下で、その横顔だけが静かに浮かび上がっていた。

「……中谷さん」

 やっと、彼が口を開く。

「正直に言いますね」

 その前置きだけで、胸がぎゅっと締まる。

「俺、ずっと“上司”でいることを理由に、逃げてました」

 私は、思わず顔を上げた。

「逃げてた……?」

「はい」

 平田さんは、苦笑いを浮かべる。

「踏み込んだら、仕事に影響が出るとか。周りにどう見られるとか」

 視線が、遠くの信号機に向けられる。

「でも、それって全部言い訳でした」

 胸が、じんわり熱くなる。

「本当は」

 彼は、一度だけ私を見る。

「中谷さんが、どう思ってるのか知るのが怖かった」

 ──え。

「好きだって思ってもらえてなかったら、今の距離すら失いそうで」

 その言葉に、喉が詰まる。

(同じ……)

 私と、同じだった。

「だから」

 平田さんは、深く息を吸う。

「月曜の朝も。帰りに一緒に歩こうって言ったときも」

 少し照れたように、視線を逸らす。

「正直、心臓バクバクでした」

 思わず、口元が緩んだ。

「……意外です」

「そう言われます」

 彼は、少しだけ肩をすくめる。

 そして、真っ直ぐに私を見る。

「でも、今日」

 一歩、近づく。

 私は、逃げなかった。

「中谷さんが、ちゃんと気持ちを言ってくれたから」

 声が、優しく低くなる。

「俺も、ちゃんと答えます」

 息が止まりそうになる。

 街灯の光が、やけに眩しい。

「俺は」

 一瞬の沈黙。

 その間に、心臓が何度も跳ねる。

「中谷朱里さんのことが、好きです」

 はっきりと、迷いのない声。

 世界が、すっと静かになった。

 胸の奥で、何かがほどける。

「……え」

 間抜けな声しか出なかった。

「驚きますよね」

 平田さんは、少し照れくさそうに笑う。

「でも、“上司”とか“部下”とか抜きで」

 視線が、まっすぐ重なる。

「一人の女性として、好きです」

 目が、熱くなる。

 泣きそうになるのを必死でこらえた。

「……私」

 声が震える。

「私も……」

 その先を言う前に、平田さんが、そっと手を差し出した。

 触れない、ぎりぎりの距離。

「無理に言わなくていいです」

 静かな声。

「今は、ここまで来れたってことで」

 その優しさが、ずるい。

 私は、そっとその手に指先を乗せた。

 それだけで、心臓が壊れそうになる。

「……ずるいのは、平田さんです」

 小さく言うと、彼は少し驚いてから、くすっと笑った。

「お互い様ですね」

 二人の手は、完全には握られていない。

 でも、確かに触れている。

 その曖昧さが、今の私たちにちょうどよかった。

 夜は、まだ終わらない。

 でも、止まっていた時間は、確かに動き出していた。