大嫌い!って100回言ったら、死ぬほど好きに変わりそうな気持ちに気付いてよ…。

 瑠奈が平田さんを連れて応接スペースを出て行ったあと。

 私は、しばらく動けなかった。

 椅子の肘掛けに置いた指先が、冷たく震えている。

(……言えなかった)

 胸の奥で、敗北みたいな痛みがじんじんと広がる。

 誰に負けたわけでもないのに、負けたような気分だった。

(“上司です”なんて……それが本音なわけないのに)

 自分でもわかっている。

 でも口に出せば、今まで積み上げてきたものが壊れてしまう気がして。

(怖い……)

 本当は、それだけなのに。

 午後の業務が始まっても、集中できなかった。

 デスクに戻ると、向かいの席の美鈴さんがちらりと私を見た。

「朱里ちゃん、大丈夫?」

「え……えっと、はい」

「顔色悪いわよ」

 言いながら、そっとミネラルウォーターを差し出してくれる。

「ありがとう、ございます……」

 喉に冷たい水が落ちていく。

 だけど、心の熱は全然冷えない。

「……何かあった?」

 美鈴さんの聞き方は優しくて、逃げ道を作ってくれる。

(でも……言えない)

 私と平田さんのことを、誰にも言ってはいけない。

「いえ、ちょっと……眠いだけです」

 自分でもわかるくらい下手な嘘だった。

 美鈴さんはそれ以上追及せず、

「無理しないでね」

 と小さくつぶやき、仕事に戻っていった。


 午後三時。

 トイレに立った帰り、給湯室の前を通りかかったときだった。

 中から声が聞こえる。

 ──瑠奈だ。

「……だから、私、ちゃんと言ったんです。“逃げません”って」

 瑠奈の明るい声が、自信に満ちて響く。

「返事はまだですけど……でも、平田さん、私の気持ちをちゃんと聞いてくれたんです。だから……信じてます」

 胸の奥がぎゅっと縮んだ。

(あ……)

 逃げていたのは、私だけだ。

 瑠奈は怖がりながらも、ちゃんと進んでいる。

 その事実が、刺さる。

「“言うべきことは言う”。だって、後悔したくないじゃないですか」

 その言葉が、今の私に向けられたようで、思わず息を呑んだ。

(後悔……)

 今日の自分はどうだろう。

 言えなくて。

 逃げて。

 また次に回して。

(……後悔してる)

 はっきりと自覚した瞬間、胸がズキンと痛んだ。

 瑠奈の声が徐々に遠ざかり、給湯室の扉が閉まる。

 私はその場に立ち尽くした。

(私も……言わなきゃ、いけないんだ)

 このままじゃ、何も変わらない。


 仕事を終えてオフィスを出ると、夕焼けが沈みかけていた。

 昨日より少し冷たい風が頬を撫でる。

 スマホを握りしめたまま立ち止まる。

 平田さんに、メッセージを送るかどうか。

 指が震える。

(話したい……でも……)

 そのとき、背後から足音が一つ。

 振り返ると──

「中谷さん」

 平田さんだった。

 スーツの上着を片手に、ほんの少しだけ疲れた表情。

 でも目だけは、まっすぐ私に向いていた。

「今日……朝言った続きを、聞かせてもらえませんか」

 逃げ場は、もうどこにもなかった。
 でも──

(逃げたくない)

 その気持ちが、負けずに胸に残っていた。

 私は、小さく深呼吸した。

「……話したいことがあります」

 はっきり言えた。

 その瞬間、平田さんの表情が、一瞬だけ柔らかく揺れた。

「じゃあ……歩きながらでいいですか」

 昨日と同じように、ゆっくりした声。

 でも、昨日と違っていた。

 私の覚悟は、もう決まりかけていた。

 並んで歩き出したとき。

(今日こそ言わなきゃ)

 そう決意した自分がいた。

 言えなかった言葉の続きを、取り戻すために。