大嫌い!って100回言ったら、死ぬほど好きに変わりそうな気持ちに気付いてよ…。

 火曜日。

 朝から、心臓が落ち着かなかった。

 “今日、平田さんと話す”。

 ただそれだけの事実が、こんなにも重くのしかかるなんて、昨日までの私は知らなかった。

(どこで話すんだろう……。社内? 外? 会議室?)

 余計な想像が次々と湧き、落ち着きが消えていく。

 出社したものの、デスクに座ってからも資料の文字が頭に入らなかった。


 午前十時。

 自席で入力作業をしていると、私の横を通り過ぎようとした誰かが、ふっと足を止めた。

 ──平田さんだった。

「中谷さん」

 一瞬で背筋が強張る。

「……はい」

 周りに人がいるのに、声が少し震えていた。

「昼休み……少し時間いいですか」

 事務的な言い方なのに、目だけはまっすぐで、逃げ道を作ってくれなかった。

「……はい」

 その返事が、まるで判決を受けたみたいに重かった。


 昼。

 定刻のチャイムが鳴るより早く、私は席を立つ準備をしていた。

 でも実際に立ち上がる勇気が出なくて、時計を何度も見てしまう。

(怖い……)

 本心だった。

 けれどそれ以上に、

(逃げたくない……)

 そう思う自分も確かにいた。

 そんなとき──

「じゃ、行きましょうか」

 振り向くと、平田さんが立っていた。

 声が優しいわけでも、深刻なわけでもない。

 ただ、「ここにいる」という確かな存在感だけがあった。

 私は小さく頷いた。


 向かった先は、オフィスの端にある小さな応接スペースだった。

 午前中は誰も使わないことが多い場所。

 他の社員からも少しだけ距離があって、声を潜める必要もある。

 席に向かい合って座ると、心臓の音がやけに大きく響いた。

 最初に口を開いたのは、平田さんだった。

「昨日のことだけど」

 落ち着いた声。

 だけど、どこかぎこちない。

「瑠奈さんから、告白を受けたこと……話しておきたいと思って」

「……はい」

 喉が乾いて、言葉が詰まる。

「すぐに答えられなかったのは、中谷さんのことがあるからです」

 胸の奥が、ずきんと痛んだ。

 でも、その言葉は、どこか苦しげだった。

「中谷さんとは、ちゃんと話をしないまま、色んなことが曖昧で……それを残したまま返事するのは、違うと思った」

 私は指先を握りしめた。

「仕事のこともあるし、立場もある。そこを踏まえてどう感じてるのか……本当の気持ちを知りたかったんです」

「……本当の気持ち……」

 その言葉が、怖かった。

 言ったら、終わるかもしれない。

 言わなかったら、もっと終わるのに。

「中谷さん」

 名前を呼ばれると、息が止まりそうになる。

「昨日、『上司ですから』って言いましたよね」

「……言いました」

「それが、本音なんですか?」

 たった一つの問い。

 でも、逃げ場のない問いだった。

 私は目を伏せ、手を膝の上でぎゅっと握った。

(違う……違う……)

 心のなかではずっと叫んでいたのに、口が動かない。

「もし、本音なら……それでいいんです」

 その言い方は、優しいのに、残酷だった。

「でも、もし──“それ以外”の気持ちがあるなら」

 平田さんの声が、ほんの少しだけ震えた。

「言ってほしい」

 胸が痛い。

 苦しい。

(言いたい……でも、言えない……)

 喉の奥で、言葉が絡まって出てこない。

 その沈黙の中で、平田さんがふっと視線を落とした。

「……昨日、瑠奈さんから、こう言われました」

 私は顔を上げる。

「『私は逃げません。最後までちゃんと言います』って」

 その言葉は、私の胸の中心に突き刺さった。

(私は……逃げてる)

 ずっと。

 “大嫌い”を盾にして。

 “上司”を盾にして。

 何も言わずに、選ばれる側でいるだけで。

「だから……中谷さんにも、聞いておきたいんです」

 静かに、でも強く。

「俺に対して……どう思ってるのか」

 頭が真っ白になった。

 言わなきゃ。

 言わなきゃいけない。

 でも、怖い。

 言葉が喉の奥で震えて、涙が出そうになる。

「……私……」

 絞り出すように口を開いた瞬間。

 応接スペースの入り口から、誰かの足音が近づいてきた。

 そして──

「平田さん、探しました!」

 明るい声が空気を切り裂いた。

 瑠奈だった。

 書類を抱えたまま、笑顔でこちらを見ている。

「急ぎの確認が入ってて……すぐ見ていただきたくて!」

 その笑顔が、悪気のない無邪気さで、余計に残酷だった。

 平田さんは一瞬だけ目を閉じ、私の方を向いて小さく言った。

「……続きは、またあとで」

 そして立ち上がった。

 私はただ、何も言えずに座ったまま。

 瑠奈が平田さんと並んで去っていく背中を、動けずに見送るしかなかった。

 胸に残ったのは──

 言いかけた言葉の重みと、

 言えなかった悔しさだけだった。