翌朝。
出社してすぐ、私はスマホを伏せたまま、自席に座った。
昨夜も結局、平田さんからは何の連絡もなかった。
(当たり前だよね。距離を取ったのは、私なんだから)
自分に言い聞かせるようにして、パソコンの電源を入れる。
けれど──
「おはよう、朱里」
いつもより少し控えめな声が、背後から聞こえた。
振り返ると、そこには平田さんが立っていた。
「あ……おはようございます」
目が合って、すぐに逸らす。
一瞬の沈黙。
「今日の午前、B社の件、一緒に確認してもいい?」
「……はい、もちろんです」
業務連絡。それだけのはずなのに、胸の奥が妙にざわつく。
午前中の打ち合わせは、驚くほどぎこちなかった。
隣に座っているのに、視線は合わない。
資料の受け渡しも、言葉も、どこか距離を意識してしまう。
(前は、もっと自然だったのに)
打ち合わせが終わり、他のメンバーが先に出て行く。
部屋に残ったのは、私と平田さんの二人だけ。
「……朱里」
名前を呼ばれて、びくっと肩が揺れる。
「この前から、やっぱり様子が違う」
「気のせいです」
即答してしまった。
でも、その声は少しだけ震えていた。
平田さんは私の表情をじっと見て、ゆっくりと言った。
「俺、何か怒らせたなら、ちゃんと言ってほしい」
「怒ってません」
「じゃあ……避けてる理由は?」
まっすぐすぎる問いに、言葉が詰まる。
(言えるわけ、ないじゃない)
瑠奈のこと。
自分の臆病さ。
本当はずっと好きだったこと。
全部、言えない。
「……仕事に集中したいだけです」
苦し紛れの嘘。
平田さんは、少しだけ困ったように笑った。
「そっか。じゃあ、俺も踏み込まない」
その言葉は、優しいのに──
どこか、決別みたいに聞こえた。
「今までみたいに、軽く誘うのもやめるよ」
胸が、きゅっと締め付けられる。
(やめないで、って……言えない)
私はうつむいたまま、小さくうなずいた。
昼休み。
社内のカフェスペースで、美鈴が私の前にトレーを置いた。
「……ねえ朱里。顔、完全に終わってるんだけど」
「ひどいな」
「ひどいのはあんたの顔色」
ぐさりと刺さる。
「昨日の夜から、何あった」
「……何も」
そう言った瞬間、美鈴がため息をついた。
「“何もない顔”じゃないでしょ、それ」
沈黙。
しばらくして、私はぽつりとこぼした。
「……平田さんが、私から距離を置くって」
「は?」
美鈴が一瞬で表情を変える。
「それ、あんたが望んだ結果じゃん?」
「……うん」
「なのに、その顔?」
私はスプーンを握りしめる。
「嬉しいはずなのに……苦しい」
美鈴はあきれたように、でもどこか優しく笑った。
「それ、“こじらせ”以外の何ものでもないよ」
「……分かってる」
「でもね」
美鈴は真剣な目で言った。
「離れてくれた相手を、あとから“引き止めたい”なんて、分が悪すぎ」
図星だった。
「今さら?」
「“今さら”が一番遅れるのが恋愛だって、元クズの私が保証する」
「……元クズって」
「そこは突っ込まなくていい」
美鈴はコーヒーを一口飲んで、続けた。
「瑠奈ちゃんが本気なら、平田さんはそのうち動く」
胸が、ずしりと重くなる。
「その時、朱里はどうするの?」
私は答えられなかった。
午後の仕事が終わり、オフィスの照明が少しずつ落ちていく。
帰り支度をしながら、私は無意識に、平田さんの席を見ていた。
──もう、こちらを気にしなくなった横顔。
(自分で手放したくせに……)
なのに。
(こんなに、苦しい)
スマホが震えた。
思わず、平田さんの名前を探してしまう。
でも表示されたのは──
【望月 瑠奈】
《今日はありがとうございました。平田さん、すごく優しくて……やっぱり尊敬しちゃいます》
思わず、息が止まる。
続けて、もう一件。
《先輩にも、ちゃんとお伝えしておきたくて》
(“ちゃんと”って、何……)
胸に、嫌な予感が広がっていく。
私の知らないところで、何かが確実に動き始めている。
──このまま何も言わなかったら、
本当に“手遅れ”になる。
分かっているのに。
私はまだ、「大嫌い」という仮面を捨てられずにいた。
出社してすぐ、私はスマホを伏せたまま、自席に座った。
昨夜も結局、平田さんからは何の連絡もなかった。
(当たり前だよね。距離を取ったのは、私なんだから)
自分に言い聞かせるようにして、パソコンの電源を入れる。
けれど──
「おはよう、朱里」
いつもより少し控えめな声が、背後から聞こえた。
振り返ると、そこには平田さんが立っていた。
「あ……おはようございます」
目が合って、すぐに逸らす。
一瞬の沈黙。
「今日の午前、B社の件、一緒に確認してもいい?」
「……はい、もちろんです」
業務連絡。それだけのはずなのに、胸の奥が妙にざわつく。
午前中の打ち合わせは、驚くほどぎこちなかった。
隣に座っているのに、視線は合わない。
資料の受け渡しも、言葉も、どこか距離を意識してしまう。
(前は、もっと自然だったのに)
打ち合わせが終わり、他のメンバーが先に出て行く。
部屋に残ったのは、私と平田さんの二人だけ。
「……朱里」
名前を呼ばれて、びくっと肩が揺れる。
「この前から、やっぱり様子が違う」
「気のせいです」
即答してしまった。
でも、その声は少しだけ震えていた。
平田さんは私の表情をじっと見て、ゆっくりと言った。
「俺、何か怒らせたなら、ちゃんと言ってほしい」
「怒ってません」
「じゃあ……避けてる理由は?」
まっすぐすぎる問いに、言葉が詰まる。
(言えるわけ、ないじゃない)
瑠奈のこと。
自分の臆病さ。
本当はずっと好きだったこと。
全部、言えない。
「……仕事に集中したいだけです」
苦し紛れの嘘。
平田さんは、少しだけ困ったように笑った。
「そっか。じゃあ、俺も踏み込まない」
その言葉は、優しいのに──
どこか、決別みたいに聞こえた。
「今までみたいに、軽く誘うのもやめるよ」
胸が、きゅっと締め付けられる。
(やめないで、って……言えない)
私はうつむいたまま、小さくうなずいた。
昼休み。
社内のカフェスペースで、美鈴が私の前にトレーを置いた。
「……ねえ朱里。顔、完全に終わってるんだけど」
「ひどいな」
「ひどいのはあんたの顔色」
ぐさりと刺さる。
「昨日の夜から、何あった」
「……何も」
そう言った瞬間、美鈴がため息をついた。
「“何もない顔”じゃないでしょ、それ」
沈黙。
しばらくして、私はぽつりとこぼした。
「……平田さんが、私から距離を置くって」
「は?」
美鈴が一瞬で表情を変える。
「それ、あんたが望んだ結果じゃん?」
「……うん」
「なのに、その顔?」
私はスプーンを握りしめる。
「嬉しいはずなのに……苦しい」
美鈴はあきれたように、でもどこか優しく笑った。
「それ、“こじらせ”以外の何ものでもないよ」
「……分かってる」
「でもね」
美鈴は真剣な目で言った。
「離れてくれた相手を、あとから“引き止めたい”なんて、分が悪すぎ」
図星だった。
「今さら?」
「“今さら”が一番遅れるのが恋愛だって、元クズの私が保証する」
「……元クズって」
「そこは突っ込まなくていい」
美鈴はコーヒーを一口飲んで、続けた。
「瑠奈ちゃんが本気なら、平田さんはそのうち動く」
胸が、ずしりと重くなる。
「その時、朱里はどうするの?」
私は答えられなかった。
午後の仕事が終わり、オフィスの照明が少しずつ落ちていく。
帰り支度をしながら、私は無意識に、平田さんの席を見ていた。
──もう、こちらを気にしなくなった横顔。
(自分で手放したくせに……)
なのに。
(こんなに、苦しい)
スマホが震えた。
思わず、平田さんの名前を探してしまう。
でも表示されたのは──
【望月 瑠奈】
《今日はありがとうございました。平田さん、すごく優しくて……やっぱり尊敬しちゃいます》
思わず、息が止まる。
続けて、もう一件。
《先輩にも、ちゃんとお伝えしておきたくて》
(“ちゃんと”って、何……)
胸に、嫌な予感が広がっていく。
私の知らないところで、何かが確実に動き始めている。
──このまま何も言わなかったら、
本当に“手遅れ”になる。
分かっているのに。
私はまだ、「大嫌い」という仮面を捨てられずにいた。



