「やっぱり、先輩と平田さんなんですね」

 瑠奈の声は、静かだった。
 でも、その静かさが逆に怖かった。

「……何のこと?」

 とぼけたつもりでも、自分の声が少し震えているのが分かる。

「昨日、見ました。先輩と平田さんが一緒に歩いてるところ」

 あっさり言われて、言葉が詰まる。

「偶然です。帰りが同じだっただけ」

「偶然、ですか」

 瑠奈は小さく笑った。
 でもその笑顔は、どこか苦そうだった。

「私は平田さんに映画をすすめられたり、休日の話をしたりしてました。先輩も、同じことしてたんですね」

 責めるようでもなく、ただ事実を並べる口調。

「……私は、上司として」

「まだ、そう言うんですね」

 瑠奈の声が、少しだけ強くなる。

「じゃあ聞きます。先輩は──平田さんのこと、何とも思ってないんですか?」

 胸の奥を、正確に突かれた気がした。

「……」

 答えられない沈黙が、すべてを肯定してしまいそうで怖い。

「私は、好きです。平田さんのこと」

 まっすぐな告白だった。

「先輩がどう思ってるか分かりません。でも、私は譲る気ありませんから」

 言い切る瑠奈に、私は何も言い返せなかった。

 言えない。
 “私も同じ気持ちです”なんて。

 

 その日の午後、仕事にまったく集中できなかった。

(私は……どうしたいの?)

 平田さんは、優しい上司。
 頼れる指導役。
 それだけのはずだったのに。

 視界の端に、彼の背中が入るだけで、胸が落ち着かなくなる。

 けれど──

(瑠奈の気持ちを知ってしまった今、私は何も言っちゃいけない気がする)

 逃げたいのに、目が勝手に彼を追ってしまう。



 定時前、デスクに戻ってきた平田さんが、少しだけ声を潜めて言った。

「今日も、少し歩く?」

 一瞬、心が跳ねた。

「……すみません。今日は、用事があって」

 本当は、何の予定もない。

 ただ──
 瑠奈の言葉が、頭から離れなかっただけ。

「そう。無理言ってごめん」

 少し残念そうに笑う平田さん。

 その笑顔が、こんなにも胸を締めつけるなんて思わなかった。

(私、大嫌いって何回言えば、この気持ちから逃げられるんだろう)

 帰り道、ひとりで歩きながら私は小さくつぶやく。

「……大嫌い」

 でも、その言葉はもう、
 自分を守るための嘘にしか聞こえなかった。