火曜日の朝。
 目覚ましが鳴る前に、朱里は目を覚ましていた。

 昨夜のことが、頭から離れなかったからだ。

 平田さんと並んで歩いた、短い帰り道。
 会話は多くなかったのに、不思議と沈黙は重くなくて。
 でも──近づいたぶんだけ、怖さも増した。

「……仕事しなきゃ」

 そう言い聞かせて、身支度を整える。

 

 出社すると、オフィスはいつも通りの朝の空気だった。

「朱里、おはよう!」

 田中美鈴が、やけに元気よく声をかけてくる。

「おはよう」

「昨日、平田さんと一緒に帰ったの?」

 いきなり直球。

「……なんで知ってるの」

「エレベーター前で見ましたから」

 にやにやした笑顔に、何も言い返せない。

「朱里、最近顔に出やすいね」

「出てない」

「出てます」

 即答された。

 そのとき、少し離れた場所で資料を整理していた瑠奈と、ふと目が合う。
 一瞬だけ、視線が絡んで──すぐに逸らされる。

 昨日のことを、彼女も知っているのだろうか。
 それとも、知らないふりをしているだけなのか。

 どちらにしても、胸の奥がざわつく。



 午前の仕事が一段落した頃、内線が鳴った。

『中谷さん、少しいいかな』

 平田さんの声だった。

「はい」

 応接室に入ると、平田さんは窓際に立っていた。

「昨日は、ありがとう。遅くまで付き合わせてしまって」

「いえ……こちらこそ」

 “付き合わせて”なんて言い方が、少しだけ胸に引っかかる。

「今日も忙しそう?」

「……はい。少しだけ」

 その“少しだけ”に、どんな意味が含まれているのか、自分でも分からない。

 平田さんは、ほんの一瞬だけ言葉を探すように視線を伏せたあと、静かに言った。

「無理はしないで。朱里さんが一番大事だから」

 胸が、きゅっと縮む。

 優しさなのか、距離を保つための言葉なのか。
 朱里はそれを、まだ判別できない。

「……ありがとうございます」

 それだけ答えるのが、精いっぱいだった。

 応接室を出た瞬間、鼓動が一気に早まる。

(昨日より、近いはずなのに……どうしてこんなに不安なんだろう)

 その背後で──

「やっぱり、先輩と平田さんなんですね」

 静かな声。

 振り向くと、そこに立っていたのは望月瑠奈だった。