夜の風が、少しだけ冷たくなってきた。
 街灯の明かりが、濡れたアスファルトに淡く映り込んで、私たちの影を長く引き伸ばしている。

 さっき「もう少しだけ」と言ってから、私たちはほとんど言葉を交わさずに歩いていた。
 でも、不思議と気まずさはない。沈黙が重たくならない。

 むしろ──
 この静けさが、少し心地いい。

「……あの」

 また、私のほうから声を出した。

「月曜日、応接室で話したとき……」

 言いかけて、言葉を探す。

「私、平田さんにちゃんとお礼を言えてなかったなって思って」

 彼は驚いたように私を見る。

「お礼?」

「はい。誘ってくれたこと、嬉しかったので」

 ほんの少し視線を落としながら、正直に告げる。

「正直……あの時は、戸惑いのほうが先に出ちゃって。だから、“ちょっとだけなら”って、あんな言い方しかできなくて……」

 すると平田さんは、ふっと小さく笑った。

「あれ、すごく朱里さんらしいって思ったよ」

「……そうですか?」

「うん。無理して即答しないところとか、相手の気持ちを一回ちゃんと受け止めてから返すところとか」

 そう言われると、少しだけ照れてしまう。

「だから、“ちょっとだけ”でも一緒に帰れるって思った時点で、もう十分だった」

 胸の奥が、また静かにあたたかくなった。

 同じ歩幅で歩いているはずなのに、心の距離だけが少しずつ縮まっていくのがわかる。

「……平田さんって」

 私は、前を向いたまま口を開いた。

「どうして、そこまで私のことを……」

 言い終わる前に、彼が足を止めた。

「朱里さん」

 名を呼ばれるだけで、胸が跳ねる。

 私も立ち止まり、そっと向き合う。

 街灯の下で、平田さんの表情が少しだけ真剣になる。

「俺は……朱里さんに無理をさせたいわけじゃない。でも」

 一度、息を吸って。

「少しずつでいいから、ちゃんと知りたいって思ってる」

 視線が、一直線にぶつかる。

「笑ってるときだけじゃなくて、戸惑ってるときも、迷ってるときも」

 胸の奥が、きゅっと締めつけられた。

 そんなふうに、まっすぐに見つめられたのは久しぶりで。

「だから……今は、“同じ帰り道を歩けてる”ってだけで、俺は十分」

 私は、しばらく言葉を失っていた。

 “同じ帰り道”。

 ただそれだけのことが、どうしてこんなにも特別に感じるのだろう。

「……私も」

 ようやく、声を絞り出す。

「今は、それでいいって思います」

 一瞬、風が吹き抜けて、前髪が揺れた。

「一緒に歩けてる、ってだけで」

 平田さんは、少し安心したような表情で頷いた。

「じゃあ、今日はここまでだね」

 交差点の角。
 ここが、私の分かれ道。

「はい……」

 足は止まっているのに、心だけが先に進んでしまいそうで、名残惜しさが胸に広がる。

 平田さんは、少しだけ照れたように言った。

「また、帰り……誘ってもいい?」

 一瞬だけ迷って。

 私は、小さく笑って答えた。

「……その時の気分次第、ですけど」

 冗談めかした返事に、彼は苦笑しながらも、どこか嬉しそうだった。

「じゃあ、その“気分”を信じて、また誘うよ」

 私たちは軽く会釈をして、それぞれの帰り道へ向き直る。

 背中越しに、同じ夜の空気を感じながら。

 それぞれの歩幅は違うはずなのに、
 不思議と今夜だけは、同じ速さで進んでいる気がした。