会社までの道のりは、通常なら十五分ほど。
 なのに、嵩と一緒に歩くとその時間がどうしてこうも“特別なもの”に変わってしまうのか。

 朱里は胸の奥がじわりと熱くなるのを感じながら、ほんの少しだけ歩幅を調整した。
 隣にいる嵩が、絶妙な距離で合わせてくれているのが分かる。

 ふと、嵩が口を開いた。

「朱里さん、今日の仕事……悩んでることある?」

「え……急にどうしたんですか?」

「さっき、打ち合わせで少し元気なかった気がして」

「……見てたんですね」

「そりゃあ見るよ。同じチームなんだから」

 なんでもないように言うその声が、どうしようもなく胸を揺らす。

(こんなの……反則でしょ)

 朱里は誤魔化すように視線を逸らし、歩道の花壇に落ちた雨粒を追った。

「ちょっと考えごとをしてただけです。望月さんのこととか……いろいろ」

「そっか」

 嵩は深くは追及しなかった。ただ、一度短く息を吐いたあと、穏やかな声で続けた。

「でも、金曜のことは気にしなくていい。望月さんにどう思われても、俺は俺だし」

「……平田さん、そういうところ、ずるいです」

「ずるい?」

「なんか……落ち着いてて。私ばっかり、ぐるぐるしてる感じで」

 嵩は立ち止まり、朱里のほうを向いて柔らかく笑った。

「ぐるぐるしてる朱里さん、結構好きだけどな」

「~~っ……!」

 その瞬間、朱里の心臓は跳ねた。
 反射的に顔を隠すように下を向くと、耳がじんじん熱い。

 嵩は少し照れたように視線を逸らしながら続けた。

「……あ、今のは、ちょっと言いすぎたかも」

「い、言いすぎですよ……!」

「ごめん。でも、嘘じゃない」

 真剣な目で言われると、朱里はもう逃げ場がなかった。

 そのとき──背後から、パタパタと早足の気配。

(え……まさか、また瑠奈ちゃん!?)

 朱里の背筋が一気に固くなる。

 だが振り返ると、そこには──

「中谷さん! 平田さん! ちょうどよかった!」

 書類の束を抱えた田中美鈴が息を切らしながら駆け寄ってきた。

 朱里は心臓を押さえながら、思わず脱力する。

「び、びっくりした……」

「なにその反応!? 私、幽霊か何か!?」

 美鈴がむくれた顔で言い、嵩は「はは」と苦笑した。

「どうかしたの?」朱里が尋ねると、美鈴は書類を抱えたまま慌てた声を上げた。

「部長が追加資料欲しいって! 中谷さん、今日帰り遅くなるかもだって!」

「えっ……今からですか?」

「うん。緊急らしい。で、平田さんにも話があるって」

 嵩と朱里が顔を見合わせる。

 せっかく“ゆっくり歩く帰り道”だったのに、
現実が容赦なく追いついてきた、そんな瞬間だった。

 嵩は深くため息をつき、朱里へ視線を向ける。

「……じゃあ、この続きは……また今度にしようか」

「……はい」

 本当は“また今度”じゃ嫌なのに。

 でも、そう言ってしまうには勇気が足りなくて、
朱里はただ静かに頷くしかなかった。