歩道を並んで歩きながら、朱里はこっそり指先をぎゅっと握りしめていた。

 嵩が「ゆっくり歩こうか」と言ったその穏やかさは、胸の奥をやわらかく揺らす。
 でも同時に、《金曜日の“あの視線”》がどうしても消えてくれない。

(……望月さん、絶対に気づいてたよね)

 あの日、コンビニの袋を手にした瑠奈は一瞬だけ固まり、
「おっ、平田先輩と中谷先輩!」
と目を丸くした。
その表情が、今日になって何度も脳裏をよみがえる。

 その気配を感じ取ったのか、嵩がゆっくり朱里の歩幅に合わせながら口を開いた。

「……やっぱり、気にしてる?」

「えっ……な、なにをですか」

「金曜のこと。望月さんに見られたこと」

 その一言で、胸の奥を触れられたように朱里は息をのんだ。

「少し……だけ、気になります。でも、あの日は偶然ですし」

「うん。偶然だよ。だから心配しなくていい」

 嵩の声は、金曜よりも落ち着いている。
 まるで朱里の不安を吸い取るように。

「……でも、望月さんって朱里さんの後輩だよね」

「はい。しかも仕事、すごくできて……ちょっと、ライバルです」

「なるほど。それなら余計に気を遣わせちゃったかな」

 嵩は申し訳なさそうに眉を下げた。
 その仕草が、逆に朱里の胸を締めつけた。

「ち、違います! 平田さんは悪くないです。本当に」

「そう言ってくれると助かるけど。……でもね」

 嵩は少しだけ足を止め、朱里のほうを向く。

「金曜に見られたくらいで俺と歩きづらくなるなら──それも、嫌なんだ」

 その言葉は想像よりずっとまっすぐで、朱里はうまく呼吸ができなくなった。

 視線を上げられないまま、朱里は小さく呟く。

「……歩きづらいなんて、思ってません」

「そっか。それならよかった」

 嵩がふっと笑った瞬間、
(ああ……ダメだ。平田さんの笑顔、ずるい)
と朱里は胸の奥でこっそり叫んだ。

 そのとき、スマホが震えた。
 金曜に瑠奈から来ていた、あのメッセージへの返信をまだしていない。

『朱里先輩、平田さんと仲良しなんですね♡』

 あの軽い文面が、今になって胸に刺さる。

(……どう返せばいいの、これ)

 ほんの少し立ち止まった朱里の気配に、嵩がすぐ気づく。

「返信しなくていいよ。無理に取り繕う必要もないし」

「……なんでそんな、全部分かってるみたいに言うんですか」

「朱里さんが、すごく分かりやすいから」

「わ、分かりやすくないです!」

「うん。分かりやすいよ」

 くすっと笑う声が、雨上がりの空気にやさしく溶ける。

 金曜に見られた“視線”は、もう追いかけてこない。
 そう思えてしまうほど、嵩の隣は安心感で満たされていた。