「じゃあ、今日はゆっくり歩こうか」

平田さんがそう言った瞬間、私は思わず椅子の背にもたれた。

──帰るって言ってしまった。

いや、言ったのは私なんだけど。
でも、改めて言われるとなんか恥ずかしさの破壊力が違う。

「……あの、ほんとに“ちょっとだけ”ですよ?」

念押しのつもりで言うと、平田さんは肩をすくめて笑った。

「うん。分かってるよ。中谷さん、すぐ逃げるし」

「に、逃げてません!」

逃げてる……気はする。
否定すると余計バレる。分かってるけど否定したい。

「じゃあ逃げない?」

「……逃げません」

自分で言っておいて、若干後悔する。
なんでこんなラブコメのヒロインみたいなセリフを言ってるんだ私は。

すると平田さんが、目を細めてこちらを見つめた。

「それ、けっこう嬉しい」

「……っ」

心臓が無理。
ほんとこの人、言葉の破壊力が強すぎる。

私は咳払いをして、なんとか態勢を立て直した。

「と、とにかく……今日は帰りに、少しだけ歩いて、それで……終わり、です」

「終わり、ね」

平田さんの声が、わざとらしく少し低くなった。

「“終わりにするのは中谷さん次第”って言ったら、困る?」

「こ、困ります!今すぐ困ってます!」

「そっか」

彼は楽しそうに笑って、書類をまとめ始めた。

私はというと、そわそわしながら自分の資料を片付ける。

でも、片付けながら気づいた。

──あれ、これ実質デートなのでは?

いやいやいや、落ち着け中谷朱里。
“ちょっと歩くだけ”だし、“帰る方向が同じだけ”だし、デートでは……ない。ないはず。

(……でも、嫌じゃない)

そのことが、自分でも驚くほど胸の奥で温かくなる。

ただ、温かくなると同時に不安も湧いてきた。

(瑠奈、どう思うかな……)

ライバルである後輩の顔がどうしてもちらつく。

金曜日、あの子はあんなに素直な目でこちらを見ていた。

「朱里先輩、怒ってませんでした?」なんて心配していたらしいし……。

(……なんか、余計に言いづらい)

その時、

「中谷さん」

「はいっ!」

また変な声が出た。
もう今日は何回出すんだろう、この情けない声。

「帰り……正面玄関で待ってるよ」

「……わ、分かりました」

少しだけ。

ほんの少しだけなのに、こんなに緊張するのはなんでだろう。

応接室を出ようとしたとき、平田さんが付け足した。

「無理しなくていいからね。……でも、来てくれると嬉しい」

その優しさがずるい。

私が今日、逃げられなくなった最大の理由は、たぶんそれだ。

私はぎゅっと拳を握って、小さくうなずいた。

「……行きます。行きますから……あんまり、期待しないでください」

「期待してるよ」

「……っ!」

そんなの、言わないでほしい。
いや、言われたくないわけじゃないんだけど……言われると困る。

心拍数がすごいことになっているまま、私は応接室を出た。

廊下を歩きながら、思う。

(……“ちょっとだけ”のはずなのに)

どうしてこんなにドキドキするんだろう。