応接室の空気は、さっきからやけに静かだった。

書類を整えながら、私はちらちらと平田さんの横顔を盗み見る。
でも、見るたびに胸がきゅっと縮こまって、すぐ目をそらす。

──だって、気まずい。

金曜のあの雨上がり。
『歩きませんか』って誘われて、並んで歩いているところを、よりにもよって瑠奈に見られて。

そのあと何も言われてないけど……言われてないからこそ怖い。

「…………」

耐えきれず、私は小さく息を吐いた。

その気配に気づいたのか、平田さんが私の方を見る。

「中谷さん」

「っ、はい!」

変な声が出た。
こじらせ度が増している自覚はある。できれば見ないでほしい。

平田さんは少しだけ口元で笑って、それから真剣な声に戻った。

「さっきの話の続きなんだけど」

──続き。

ああ、来た。
“雨上がりの続きなんて聞いてない”……と、さっき応接室で思わず心の中で叫んだあの案件だ。

「……ええと、“見られた件”ですよね?」

自分から言ってしまった。
いや、でもどうせ話題になるなら、もう逃げても仕方ないし。

平田さんは、少し驚いたように目を瞬いた。

「……やっぱり気にしてる?」

その一言で、胸の奥がぐしゃっとなる。

気にしてないわけ、ない。

「そ、そりゃ気になりますよ。だって……瑠奈、でしたし」

「望月さんが?」

「はい。よりにもよって、あの子に……」

言ってから、しまったと思う。

よりにもよって、ってどういう意味だ、とか思われたら──

でも平田さんは怒ったりせず、むしろ「やっぱり」と言いたげな顔をした。

「望月さん、金曜の夜に帰り際、俺に少し聞いてきた」

「えっ……何を?」

「“朱里先輩、怒ってませんでした?”って」

「……は?」

怒ってないどころか、私は緊張しすぎてまともに歩けなかったんですけど。

「どうやら、中谷さんが機嫌悪かったのか気になってたみたいだよ」

「え、えぇ……?機嫌悪いとかじゃなくて……その……緊張してただけで……」

言いながら、自分で余計恥ずかしくなってくる。

恋のライバルに心配されるとか、どういう構図なんだろう。

平田さんは少しだけ困ったように笑った。

「俺としては、嬉しかったんだけどな。……緊張されてたって知って」

その言い方が優しすぎて、顔が一瞬で熱くなる。

「べ、別に……平田さんが特別とかじゃなくて!その……人に見られて、びっくりしただけで……!」

「特別じゃない、ね」

平田さんの声が、ほんの少しだけ低くなる。

やめて、そういう声。
心臓が無理。

「ち、違……違わないけど、違うわけでもなくて……違うって言いたいんじゃなくて……ああもう!」

机に額をゴンとつけたい衝動をギリギリで抑えた。

平田さんが苦笑しながら、静かに言う。

「中谷さん」

「……はい」

「金曜の“続き”だけど……俺は、あの日のこと、別に隠すつもりはないよ」

「えっ……」

「望月さんにどう見られたかよりも、俺がどうしたいかのほうが大事だと思ってる」

まただ。
またそういうことを、こっちの心臓が死ぬほど忙しくなるタイミングで言う。

「ど、どうしたい……って」

「たとえば──今日の帰り、また一緒に帰りたいとか」

心臓がひっくり返った。

「や、やだもう……そういうの、急に……」

「急かな?」

「急です!」

「そう?」

なぜそんなに涼しい顔で言えるのか、本当に理解できない。

でも、ほんの少しだけ勇気が湧いてきて、私はぎゅっと拳を握った。

「あの……今日の帰り……」

「うん」

「……ちょっとだけなら、いいです」

少しだけ。
本当に“少し”だけ。

でも、それでも前よりずっと──私のほうが進んでいる。

きっと平田さんには、全部バレているんだろうけど。