応接室の空気は、朝の静けさと、ふたりの緊張が溶け合ったように、妙にやわらかく、落ち着かない。

 朱里は、手のひらで膝の上のスカートの布をそっとつまむ。
 指先が、いつもよりすこしだけ強く震えていた。

「えっと……その……続きって、どの……部分でしょうか」

 曖昧に笑うと、嵩は「逃げた」と気づいたような目をした。
 でも責めるような色はなく、むしろ困ったように優しい。

「……全部、かな」

「ぜ、全部……!?」

「うん。中谷さんが“また映画行きたいです”って言ったことも、
 その後で急に瑠奈さんに会って、言えなくなったことも。
 俺、ちゃんと話したかったんだ」

 朱里の心臓は、最初のコーヒーみたいに熱くて落ち着かない。

(やっぱり……覚えてたんだ……)

 朱里は自分で言った“また映画行きたい”を思い出して、机の下で足をもじもじさせた。

「……あれは、その……勢いで言っただけで」

「勢いでも、嬉しかったよ」

「っ……!」

 びっくりして顔を上げると、嵩は少し照れたみたいに目をそらした。

「映画の感想、話す中谷さん……すごく楽しそうだったから。
 “また行きたい”って言われて……俺も、また一緒に行きたいと思った」

 反射的に朱里は口を開く。

「あ、あの、それ……誤解されちゃいますよ!?」

「誤解……?」

「る、瑠奈ちゃんに……っ。私たちが週末に会ってるって思われたら……!」

 嵩は目を瞬かせ、そしてふっと笑う。

「中谷さん。“思われたら困る相手”って、瑠奈さんじゃなくて──」

 そこまで言って、嵩は言葉を飲み込んだ。
 代わりに少しだけ真面目な顔になって、朱里のほうを見る。

「……誰?」

「っ……!」

 その一言で、朱里の呼吸は一瞬止まった。

 この質問は、ずるい。
 だって、本当の答えなんて──

(“平田さん、あなたです”なんて……言えるわけ……)

 朱里はあわてて視線をそらし、鞄の端をぎゅっと握る。

「こ、困る相手なんて……別に……」

「じゃあ、なんで土日ずっと気にしてたの?」

「な、なんで……っ!?」

「今日、早く来た理由も」

「そ、それは……朝の準備が早く終わって……」

「それ、土曜日も日曜日も終わってたでしょ?」

「うぐっ……!」

 完全に、逃げ道がふさがれた。

 嵩が机に肘を置き、身体を少し朱里に寄せる。
 近づいた距離が、朱里の心臓の音を大きくする。

「……中谷さん」

「は、はい……」

「“また映画行きたい”って言ってくれたこと。
 俺が勝手に喜んでいいなら……喜びたい」

「……え」

「金曜の“続き”は……それだけ」

 嵩の声は、驚くほど静かで、まっすぐだった。

 朱里は言葉を失い、ぱちぱち瞬きをする。
 そして気づく。

(これ……完全に、
 “また誘うから覚悟してて”
 って言われてる……!?)

「……あの……っ」

 朱里は真っ赤になって、やっとのことで言葉を搾り出す。

「そ、そういうの……突然言わないでください……!」

「言わないほうがよかった?」

「そ、そういう問題じゃなくて……!」

「じゃあ、よかった?」

「っ……!!」

 嵩の少しだけいたずらっぽい笑みが、朱里の胸に追い打ちをかける。

(も、もうやだ……この人、本当に……好きになっちゃう……)

「中谷さん」

「……はい?」

「次の映画。
 一緒に行こう」

 朱里の心臓は、今日いちばん大きく跳ねた。