玄関の照明がふっと灯り、朱里は濡れた傘を軽く振って水滴を落とすと、いつものように玄関脇の傘立てに差し込んだ。コートも丁寧にハンガーに掛ける。
 仕事で疲れ切った夜でも、部屋を煩雑にしたくない──それが朱里のささやかなこだわりだった。

 「ただいま……」

 小さくつぶやきながらリビングに足を踏み入れると、室内は静まり返っている。エアコンの送風音だけが、残った湿気を押し出すように唸っていた。

 ソファに腰を下ろし、朱里は深い息を吐く。
 今日のプレゼン……あの場面までは完璧だった。
 瑠奈の“補足”が入るまでは。

 彼女の後輩であり、最大のライバル。
 そのひと言で、空気が変わった瞬間を思い返すと、胸がざわつく。

 ──なんであんな言い方をするのよ、瑠奈。

 悔しさと、焦りと、負けたくない気持ち。
 混ざり合った感情が、胃の奥で重く沈んでいた。

 そのとき、スマートフォンが震えた。
 画面に表示された名前を見て、朱里は思わず息をのむ。

 「平田嵩」

 今日のプレゼンで、最も評価してほしかった相手。
 でも、彼が瑠奈の意見に頷いたのも事実だ。

 通話か、メッセージか──どちらでもない。
 通知は “未読メール” を示していた。

 朱里は指先でタップした。

《傘、急ぎじゃないので気にせず使ってください。
今日は付き合ってくれてありがとうございました。
ゆっくり休んでくださいね》

「……っ」

 また心臓が騒ぎだす。

(こんな優しい言い方されたら……。どうしろっていうの?)

 朱里は震える指で返信画面を開いた。

《こちらこそ今日はありがとうございました。
傘……明日お返しします。》

 送信ボタンを押した瞬間──。

(明日……会うの?
普通に会社だけど……なんか特別感出てない!?)

 自分で書いた内容にひとりで勝手に動揺する。

 そこへ、すぐに返事が返ってきた。

《明日は土曜ですよ?》

「あっ……」

 やらかした。

 完全に気持ちが浮ついていた。曜日感覚も吹き飛んでいる。

 続けてメッセージが届く。

《無理に返さなくて大丈夫ですから。
天気悪いみたいなので、使ってください。》

 朱里はスマホを胸に抱えてソファに転がった。

「……ほんと、優しすぎる……」

 嫌いを百回言ったら、
 好きがどんどん溢れてきている気がして怖い。

(大嫌い、なんて……もう言えないよ……)

 でも、まだ言えない言葉もある。

 胸のざわざわを抱えたまま、
 朱里はゆっくりと目を閉じた。

(……明日、どうしよう。会えないのに、会いたい……)