「……はい。行きます」

 朱里がそう答えた瞬間、嵩はふっと柔らかく笑った。
 オフィスの窓の外は、さっきまでの雨が嘘のように静まり返り、夕暮れの光が街を淡く染めていた。

「じゃあ、片付けたら行きましょう」

「はい……」

 朱里は胸の奥がざわざわして、いつものようにカバンを閉じるだけなのに手がぎこちない。
 “少し歩きませんか”——ただそれだけのことなのに。

(どうしよう……なんでこんなに緊張してるの)

 同期や友達の誘いなら、こんなに動揺しないのに。




■ オフィスのエレベーター前

 「お待たせしました」と朱里が駆け寄ると、嵩はスマホをポケットに戻した。

「急がなくていいのに。……行きましょうか」

 並んでエレベーターに乗ると、朱里は自然と端に寄ってしまう。
 視界に映るのは、彼のワイシャツの袖、仕草、横顔──
 どれも職場で何度も見ているはずなのに、なぜか意識してしまう。

(落ち着いて……私。何もない。ただ歩くだけ……)

 チーン、と軽い音がして1階に着く。




■ ビルの外

 夕方の風は少しだけ冷たく、雨上がりの匂いがほのかに残っていた。

「ほんとに、雨上がってよかったですね」

「そうですね。……濡れずに済んで良かったです」

 嵩の歩幅は少しゆっくりで、朱里のペースに合わせてくれている。
 それに気づいて余計に胸が熱くなる。

(……優しい。いつもだけど、こうして二人きりだと余計に)

 気まずさをごまかすように、朱里は話題を探した。

「えっと……あの……今日は、どうして私を……?」

 聞きながら、(しまった!)と思った。
 なんだか期待してるみたいに聞こえる。

 しかし嵩は、困ったように笑った。

「別に大した理由じゃないんです。ただ……」

「ただ……?」

「朱里さん、最近ずっと忙しそうだったから」

「え」

「だから今日は、少し気分転換をしてほしいなと思って」

 それは、完全に不意打ちだった。

 怒ってもいないし、説教でもない。
 仕事の話でもない。

 ただ純粋に、気遣いだった。

 朱里は思わず俯いてしまう。

「……そんな、私なんて」

「“なんて”じゃないですよ」

 嵩の声は、いつもより柔らかかった。

「朱里さん、頑張ってるの知ってます。ちゃんと見てますよ」

「……っ」

 胸の奥がぎゅっとなる。

 雨上がりの夕方に、こんな言葉を言われるとは思わなかった。

 思わなかったけれど──
 こんなにも嬉しいとは、思わなかった。

「……ありがとうございます」

 声はかすかに震えていた。

 嵩はそれに気づいたのかどうか、ちらりと朱里を見て問いかける。

「このあと、もう少し歩きます? それとも……」

「歩きたいです。もう少しだけ」

 朱里が言い切ると、
 嵩は微笑んで「じゃあ、行きましょう」と手を軽くポケットに戻した。

 二人は、雨上がりの街をゆっくりと歩き出す。

 そのとき──

「おっ、平田先輩と中谷先輩!」

 突然、後ろから声がして二人が振り向くと、望月瑠奈がコンビニの袋を手に立っていた。

「えっ……瑠奈!? なんでここに!?」

「いや、ちょっと駅まで……って、え? 二人で散歩? え? え??」

 目が完全に“面白いものを見つけてしまった人”になっている。

(やばい……!!)

 朱里の心臓は別の意味で跳ね上がる。

 嵩も「あぁ……」と苦笑していた。