●第3章 夕立は恋の香り
ナナちゃんは身体をはった本気のキャンペーンガール。
昭和48 年に名鉄百貨店セブン館のオープン1周年を記念して誕生した「ナナちゃん」。季節にあわせて大変身!ファッションに敏感な巨大マネキン「ナナちゃん」は名古屋駅前の顔として愛されており、若者の待ち合わせスポットとして今も活躍している。

自衛隊には「5分前の精神」という考え方が浸透しており、開始時間の5分前には準備を整え、定刻になったら100%の状態で臨むという意識が根付いている。
集合5分前。
11:25ぴったりにナナちゃん人形の足元に現れた流美に15分前から待っていた陸が声をかける。
「町田3曹!」
「ちょっと、プライベートに階級はやめようよ。自衛隊丸出し!」
見慣れないワンピースの流美はちょっと照れながら言う
「今日は『流美』でいいよ。」
急に二人の距離が縮まった気がした。
「じゃあ行きましょうか、流美さん」
「行こうか、武村君」
「あ、自分も下の名前で呼んでください。『陸』です。りく。」
「行こうか陸!・・で、どこにしよう?」
「サラダバーがおいしい店知ってるんで、流美さんさえ良ければ。」
「いいよ!行こうか。」
二人は階段から地下街に潜り、地下鉄東山線で栄に向かった。
今にも泣きだしそうな空は、二人を待ち受ける波乱を予言しているかのようだった。

地下鉄栄駅の10A出口の階段を上がり、久屋大通り沿いにある店の前に着いた陸は唖然とした。
『改装中』の看板
「すみません。よく調べてなくて。」
「いいよ、ほかにも店はいくらでもあるし。また今度来ようよ!」
と言われた陸は「また」がある可能性に静かに歓喜した。
「何か食べたいものあります?」
「何でもいいけど・・・お肉かな?」という流美にドキッとした陸は妄想をかきたてられた。
『肉食系女子』と言う言葉は『草食系男子』と対比的に表現されるようになったが、草食化とは異性関係に淡白になることを指しており、肉食化はその逆である。
流美はそんなことを意識していたわけではないが、
【『2人で焼肉を食べに行こう』と誘ってついてきた女の子をゲットできる確率80%】という男性向け雑誌の記事を思い出してドキドキしていた陸。
「いいですね『肉』。ステーキにします?それとも焼肉がいいですか?」
現代の様にスマホで検索とはいかない当時、雑誌などで下調べしていなければ、看板を頼りに捜し歩くしか術はなかった。
一緒にお店を捜し歩く二人の足取りは軽かった。
そんな二人を遠目に追いかける視線があったが、そんなことは眼中にない二人。
この夏もアブラゼミが騒がしく鳴いていた。

久屋大通り沿いをテレビ塔方面に少し北上したところで、たまたま一番初めに見つけたステーキ屋に入ろうということになり二人は昼食を済ませた。そのまま帰るのも・・・ということで久屋大通駅から地下鉄名城線で1駅の名古屋城に行こうということになった。
江戸時代に流行した俗謡「伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ、尾張名古屋は城で持つ」と言われる通り名古屋繁栄のシンボルとして名古屋の街を見守ってきた名古屋城。
「金鯱師団」の金鯱も名古屋城の「金鯱」が所以となっている。
黄金の鯱を頂き、史上最大の延床面積を誇った大天守が、往時の姿を鮮やかに伝えている。
地元に住んでいるとわざわざ行かないという人も多く、陸も流美も子供のころに行ったきり暫く行ってないから、久しぶりに行ってみようということになった。

二人は地下鉄名城線の名古屋城駅を降り、大津通側にある東門から名古屋城エリアに入った。
二の丸付近にある「那古野城跡」の白い看板の前に来ると、歴史好きな陸は
「右手をご覧ください。今の名古屋城は徳川家康が建てた「名古屋城」で、この辺りは、かの織田信長が父の信秀から譲り受けた、かつての『那古野城」の跡地になります。』と得意げに解説を始めた。
「何でそんなこと知ってんの?ツアコンみたい!」と大喜びの流美。
さらに「清正石」と言われる一際大きな石垣の前に来ると
「右手をご覧ください。こちらが名古屋城の石垣の中で最大の巨石で、この石を築城の名手・加藤清正が運んだという伝承があり「清正石」と呼ばれています。」と調子に乗る。
リクペディアには歴史にまつわるウンチク情報が豊富だ。
「ちょっと、何でそんなことまで知ってんの?マジでガイドのバイトしてたでしょ!」
「公務員はバイト禁止だよ!」と大ウケする流美を狂おしいほど可愛いと思う陸だった。
名古屋城は中に入ってしまうと鉄筋コンクリートのビルなので、外から眺める方が城の美しさを堪能できる。二人は天守閣の南側から正門を出て、西側のお堀沿いに北側を回り、名古屋城の北側に位置する名城公園に歩を進めた。
ウキウキ気分で名城公園を散策する二人に暗雲が立ち込める。
西の空からにわかに暗くなり、稲光の5秒後に雷轟が響いた。
「やばい、夕立来ますね・・・走りましょう!」
流美の手を引いて名城公園駅方面に走り出す陸。
流美に夢中になるあまり、梨乃から何度も着信があったことに気が付かない陸だった。
片側4車線の大津通り。
歩行者用の信号に阻まれる。
名城公園の交差点の信号が青になり、ダッシュする二人。
大津通を半分渡り切ったあたりで、土砂降りに飲み込まれた。
地下鉄名城黒鉛駅の階段に辿り着いたときはかなり濡れていた。
「アハハ、あああ、もうびしょびしょ!」
「もう少しだったのに・・・間に合わなかったー!」
「野生の勘はなかなかだったけど、ちょっと遅かったね!」
「信号さえなければー!」
悔しがる陸。
「ところでいつまで手握ってるの?」
ハッとして、手を放す陸
「あ、すみません・・」
「ハハハ、別にいいんだけど、なんか面白かったね!」
子供みたいにはしゃぐ二人。
流美の髪から滴る雨。
雨に濡れて少し透けてしまっているキャミソールのライン。
息苦しいほどのドキドキが、ダッシュしたせいなのか、
流美のことを意識しすぎたせいなのか分からなかった。
「私の家、砂田橋だからとりあえずうちに行こうか?」と言う流美に
思考停止した陸は「はい」と答え、心の中でガッツポーズをした。
そのまま地下鉄名城線に乗車し、びしょ濡れの二人は座るのを遠慮した。
車両が揺れるたびによろけそうになる流美を、力強く支える陸の腕に男らしさを感じた流美は、少しうつむいて頬を赤らめていた。
名城公園駅から6つ目の砂田橋で降りる二人。
少し雨脚は弱まっていた。
「さっきよりはましだね、どうせびしょ濡れだし。」
と小雨のなかに突撃する流美。
後に続く陸。
「すぐそこのあれだから」と
11階建てのマンションを指さす流美。
砂田橋駅徒歩5分の分譲マンション。
エレベーターで上がって、右奥の1001号室。
キーを差し込み玄関ドアを開ける。
「遠慮しないで上がって!」
「おじゃまします!」
いい香りにドキドキが止まらない陸。
「風邪ひくといけないから先にシャワー浴びていいよ!」と洗面室に案内すると、
「タオルはこれ使って」と洗濯機の上の棚にタオルを置いた。
「すみませんお借りします」と言って服を脱ぎ、ユニットバスの折れ戸を開ける陸。
熱いシャワーを浴びて少し落ち着きを取り戻したのもつかの間。
「着替え置いとくから、濡れた服は洗っちゃうね!」
ドキドキして「ハイ」と言うしかない陸。
何も考えずに、浴室内のシャンプーを使ってしまい、流美と同じシトラス系のいい香りを纏ったことで妄想が膨らむ。
妄想が過剰な期待を呼び、しばらく浴室から出られなかった。
タオルからもいい香り。
脳が痺れっぱなしの陸。
何とか平静を装い、用意してくれた新品の下着とスエット上下を着ると、タオルで髪を拭きながらリビングに行く。
「お先にいただきました。ありがとうございます」
「サイズ大丈夫だった?亡くなった主人のだけど気にしないで!
陸の服も乾燥機かければ4時間くらいで乾くから。」

「私もシャワー浴びてくるけど、覗いちゃダメだからね!」と言って洗面室の方へ行く流美。
トイレを借り、ドアを開けた陸の耳に、浴室からシャワーの音が聞こえた。
流美の入浴シーンを妄想せずにはいられない陸。
覗きたい誘惑を振り切り、リビングに戻った時、ふと視線が吸い寄せられた。
キッチン奥の棚に、小さな位牌と精悍な顔つきで敬礼をする男性の写真。
「亡くなった主人・・・この人か。」
・・・少し俺に似てる・・・
陸の脳裏に言葉に表しずらいざわめきが広がっていった。

ダイニングの椅子に腰かけて、何気なく携帯を開くと、梨乃から何度も着信があったことに気が付く。まさかここで電話するわけにもいかず、携帯を閉じると、シャワーを浴び終えた流美がリビングに戻って来た。
陸がキッチン裏の男性の写真に視線をやったのを見逃さなかった流美は
「主人の写真、気になった?」
「似てるよね?」
「ええ」
「私も初めて武村君を見た時、実はドキッてしたんだ。
 主人が生まれ変わって帰って来たのかと思って・・・」
陸の向かいに腰かける流美
「自分も他人に思えません・・初めてです。自分に似た人。」
「ホントはすごい複雑だったんだ。主人ね、明野でヘリのパイロットしてたの。
2月に式だけ挙げて、落ち着いたら新婚旅行こうね・・・て言ってた矢先・・。
飛行訓練中に突然レーダーから消えて・・・
機体の破片は見つかったんだけど、結局遺体は見つからなかったんだ・・・
ひどくない?式挙げて1週間もしないうちに置いてけぼり。
この年で未亡人よ。信じられる?
だからもしかして、どこかで生きてるかも・・って淡い期待したりして・・・」
沈黙する陸。
「そんなわけないんだけどねー。この間やっと四十九日終わったばかりだから、いつまでも引きずってちゃいけないなーって思ってた時に、武村君から誘われたから、ちょっと考えちゃった。」
「すみません・・・事情も知らずに。」
「ううん、違うの。嬉しかった!ホントだよ。ちょっと複雑な気持ちなのは否定できないけど。」
目を潤ませた流美は続ける
「あの人から直接『いつまでも引きずるな!』って言われてる気がして・・・でも似てたら余計引きずっちゃうよね~?」
「そうですよね・・・って自分がいうのも変ですけど・・・」
「もし武村君の事好きになっちゃったらどうしよー?
顔で選んだと思われちゃうかなー?とかあれこれ考えちゃった(笑)」
「自分は顔で選んでもらったのでも嬉しいです。
ただ流美さんが結婚してたのもショックで、ご主人が亡くなってたのもショックで、
色々ショックで・・・何を話したらいいか分からなくなってます。すみません。」
「謝らないで・・・私が『訳あり物件』なのがいけないんだから。」
「いえ、自分もホントは、流美さんほどじゃないけど『訳あり』なんです。」
実は新宿で出会った梨乃と同棲していたが、転勤になり今は遠距離中なこと。
梨乃の父親に反対されていて、破綻寸前なことなどを正直に話した。
「色々あるんだね~。よし、そういう事ならお姉さんが相談に乗ってあげるよ!」と
気持ちを切り替えた流美が微笑んだ。
「陸は主人の弟って思うことにするよ。」
「これからは私の事を姉だと思って接すること!分かった?」
複雑な心境で頷く陸。
「すごい!私って『天才』よね?」と自画自賛する流美の目に涙はなくなっていた。

「夕飯何でもいいよね?」と言うと、ありあわせの材料で手際よくサラダとパスタをさっと作り振舞う流美を見て、こんな女性が奥さんだったら最高なのに・・・とどちらかと言うとズボラな梨乃と比べていた。
よく冷えたワインで乾杯をして、夜が更けるまでお互いの身の上話をする二人。
朝霞の婦人自衛官教育隊の話、習志野新教の話、空挺で殉職したお父さんの話、山崎1曹の話、ラッパ隊の話、朝霞の中央観閲式の話・・・同業なだけに共通の話題も多く、話ははずみ、いつの間にかワインのボトルが3本空いていた。
飲みすぎた陸は、そのままリビングで寝てしまった。
流美は眠っている陸の頬に軽くキスをしてタオルケットをかけると
「弟に手を出しちゃまずいよね、流美!」と自分にくぎを刺し、自室のベッドに行き休んだ。

コーヒーのいい香りに目を覚ました陸は、リビングで寝てしまったこと、おそらく流美がかけてくれたであろうタオルケットに気が付き、
「すみません、いつの間にか寝ちゃって!」
「ちょうど朝ごはん出来たとこだから食べて!」
ダイニングにはワンプレートにトーストと目玉焼きベーコン、ホットコーヒーが用意されていた。
一緒に朝食をとり、一応別々に部屋を出ることにした。
先に部屋を出ることにした陸を
「行ってらっしゃい!時々線香あげに来てね。お兄ちゃんに。」
そう言って送り出した流美は、亡き夫の遺影に問いかける。
「きっと晴れるよね?」
昨日降っていた雨は止んでいた。
雨に濡れた、見慣れた景色が宝石のように輝いて見えたのは陸だけではなかった。