■第二部 夏影の螺旋
●第1章 曇りのち雨、時々晴れ
気になる女性ができた陸は、頑なに態度を変えない巌のこともあり、だんだん梨乃のことを面倒に思うようになっていた。
会う度にそっけなくなる陸の態度を敏感に感じ取っていた梨乃は、群馬への帰り道、新宿歌舞伎町のBarパスポートに毎度寄り道するようになっていた。
頻度こそ違うが、以前付き合っていた「ホストの彼氏」について浜田に相談していた頃と同じような気持ちで、月に数回Barパスポートに顔を出していた。
名古屋行きを承諾してもらうために、毎週群馬の実家に戻り、梅を交えて巌に説得を試みる梨乃だったが、巌が首を縦に振ることはなかった。
梅にだけは頭が上がらないはずの巌だったが、この件に関しては頑に拒否をしていた。
陸が転勤になった3か月後、梨乃の兄・一久は料理人としての修業を終え、開店準備のために地元の群馬に戻ることになった。
梨乃を独り東京に残しておくことを良しとしなかった巌は、梨乃にも帰郷命令を出した。
辛抱強く説得すれば巌も折れて、名古屋行きを許してくれるだろうという梨乃の淡い期待は、数か月にわたる説得がすべて失敗に終わったことで、崩れ去っていた。挫折感を感じて疲れ切っていた梨乃は、父の言いつけ通り、群馬の実家に戻ることにした。
実家に戻る前の日の夜、Barパスポートには一人でロックグラスを傾ける梨乃の姿があった。
平日ということもあり、終電前に客は梨乃だけになっていた。
「そろそろ終電だけど大丈夫?」
バーテンダーの浜田が心配して声をかけると、
「浜ちゃん、私たちもうダメかも・・・」と弱気な声を出す。
「浜ちゃん、私寂しいよ・・・」潤んだ眼を向ける梨乃。
浜田はエレベーターの扉の前にある閉店用のドアを閉めると鍵をかけた。
同じころ名古屋で電話を待っていた陸は揺れていた。
梨乃が約束通り名古屋に来られるのか?
父に阻まれ破局するのか?
新たな恋の予感がどこに向かうのか?
密室に男女二人。
初めてではなかった。
寂しがりで甘えん坊の梨乃は遠距離恋愛に向いていない。
アルコールの助けがあると梨乃の理性は脆くも崩壊する。
月一ペースで会っていたとはいえ、半年近くも陸とは離れて暮らしていた。
限界だった。心も体も。
・・・陸はきっとモテる。知らない誰かに誘惑されてる・・・
不安と猜疑心が、梨乃の心を揺らし、迷いを後押しする。
女の勘は鋭いという。陸も寂しい時にいい人が現れたらきっとそっちに行ってしまう。
そろそろそんな頃合いだと感じていた梨乃は、覚えのあるかつての憧れ、浜田を求めずにはいられなかった。
浜田も雄だった。
求められれば応じる。
情が無いと言えば嘘になる。
陸と梨乃をくっつけようとしたのも浜田だが、梨乃は元自分の客。
自ら手放した梨乃が、揺れながら自分を求めている。
浜田も過去の未練と未来の後悔の間で揺れた。
陸に対しての友情のような想いもある。
どちらかを向けば、どちらかには背を向ける。
結局は背中合わせの恋。
梨乃の肩を抱く浜田。
触れる頬と頬。
浜田は梨乃の頬を涙が伝ったのを感じた。
梨乃の瞳からこぼれ落ちた涙の訳を浜田は知らない。
この夜が、すべてを狂わせる分岐点になるとは思いもよらなかった。
エステサロンを退職し群馬の実家に帰った梨乃は、兄が始めた居酒屋を手伝い、そこでもらうアルバイト代が唯一の収入源にはなっていた。浪費家の梨乃には切り崩す蓄えもない。開店直後で、まだ客足も安定しない兄の店では充分な給料をもらうこともできず、収入はエステティシャン時代の半分以下になっていた。家賃がかからなくなっていたとはいえ、毎月新幹線で陸に会いに行く交通費を捻出するのは楽ではなかった。
次第に名古屋へ行く頻度が減り、浮いた分の交通費は新宿に消えるようになっていった。
ゆるぎない巌の牙城は相変わらず高く聳え立っていた。
難航していた名古屋行きに一石を投じる変化があった。
梨乃の生理が来ない。
梨乃は先ず、祖母の梅に相談した。そして母の志津。
志津が薬局で買ってきてくれた検査薬を試してみる。
2つある判定窓の両方にくっきりと濃いピンクの線。
・・・陽性!?ど・どうしよう?・・・
「ねえ、どうだったの?」
トイレの外から心配そうに尋ねる志津に、ドアを開け、そっとスティック型の検査薬を差し出す。
「ん、これどっちなの?」
「陽性だよ。多分。」不安そうに答える梨乃をよそに
「良かったじゃない、おめでとう!」と喜ぶ志津。
「でも、まだお父さんに許してもらってない・・・」
「大丈夫よ、既成事実作っちゃえば、流石のお父さんも反対できないでしょう?」
普段はまじめで控えめな志津とは思えない反応。
「ねえ、おばあちゃんもそう思うでしょ?」
そういうと、女性三人で巌の書斎へ向かった。
トントントン
「お父さん入るよ」志津が先頭を切る。
いつも通りしかめっ面の巌に
「ねえ、梨乃に赤ちゃん出来たかもしれませんよ!」
更に表情が険しくなる巌
「もうそろそろ認めてあげたらどうですか?
パパがいなかったら赤ちゃんも可哀そうでしょ?」
むくっとプレジデントチェアから立ち上がる巌
「バカモン!そんな出鱈目な話があるか!!」
激高する巌
「大体だなあ、わしは認めとらんぞ!勝手に子供なんぞ作りやがって!
順番も守れんのか!あの男は!兎に角、絶対に認めん!子供は堕ろせ!」
我を失い吠える巌。
『パン!』巌の咆哮を梅の平手打ちが静めた。
「お主それでも人の親か?折角授かった子を堕ろせとは、よく言えたな!」
年老いたとはいえ、女手一つで幼かった巌を育てながら、松田の家を守ってきた梅には人間としての本質的な強さがあった。
「子は宝ぞ!お主の親父さんだったらどう言うか、よお考えてみろ!」
「そんなものは、知らん。会ったこともないし。」
駄々っ子のように弱弱しく答える巌。
「志津さんの言う様に、父親のおらん可哀そうな子を作るんか?お主のような・・・
よお考えろ!」と言って書斎を後にする梅。
プレジデントチェアに座るとくるっと回って背を向け黙る巌。
「じゃあ、考えてあげて下さいね。」と言い残し、梨乃と部屋を出る志津。
巌は目を閉じたまましばらく動かなかった。
書斎のプレジデントチェアにもたれ迷走していた。
娘を自分の手の届くところに置いておきたい・・・
何かあれば助けてあげたい・・・願いは叶えてあげたい・・・
娘の交際相手・武村陸にはあったことがない・・・
彼は自衛官・・・軍属・・・不安定な世界情勢・・・戦争・・・
派兵・・・戦死・・・未亡人・・・ててなし・・・孤独・・・
伴侶を亡くした梅・・・独りで子育て・・・
この50年戦争をしていない日本・・・平和憲法・・・憲法第9条・・・改憲・・・
遠方・・・名古屋・・・仕事・・・転勤・・・転職・・・妊娠・・・出産・・・孫・・・
葛藤の中にいた巌は、答えが出ないまま、いつの間にか眠りについていた。
奥の和室ではオルゴールの調べが物憂げに何かを伝えようとしていた。
●第1章 曇りのち雨、時々晴れ
気になる女性ができた陸は、頑なに態度を変えない巌のこともあり、だんだん梨乃のことを面倒に思うようになっていた。
会う度にそっけなくなる陸の態度を敏感に感じ取っていた梨乃は、群馬への帰り道、新宿歌舞伎町のBarパスポートに毎度寄り道するようになっていた。
頻度こそ違うが、以前付き合っていた「ホストの彼氏」について浜田に相談していた頃と同じような気持ちで、月に数回Barパスポートに顔を出していた。
名古屋行きを承諾してもらうために、毎週群馬の実家に戻り、梅を交えて巌に説得を試みる梨乃だったが、巌が首を縦に振ることはなかった。
梅にだけは頭が上がらないはずの巌だったが、この件に関しては頑に拒否をしていた。
陸が転勤になった3か月後、梨乃の兄・一久は料理人としての修業を終え、開店準備のために地元の群馬に戻ることになった。
梨乃を独り東京に残しておくことを良しとしなかった巌は、梨乃にも帰郷命令を出した。
辛抱強く説得すれば巌も折れて、名古屋行きを許してくれるだろうという梨乃の淡い期待は、数か月にわたる説得がすべて失敗に終わったことで、崩れ去っていた。挫折感を感じて疲れ切っていた梨乃は、父の言いつけ通り、群馬の実家に戻ることにした。
実家に戻る前の日の夜、Barパスポートには一人でロックグラスを傾ける梨乃の姿があった。
平日ということもあり、終電前に客は梨乃だけになっていた。
「そろそろ終電だけど大丈夫?」
バーテンダーの浜田が心配して声をかけると、
「浜ちゃん、私たちもうダメかも・・・」と弱気な声を出す。
「浜ちゃん、私寂しいよ・・・」潤んだ眼を向ける梨乃。
浜田はエレベーターの扉の前にある閉店用のドアを閉めると鍵をかけた。
同じころ名古屋で電話を待っていた陸は揺れていた。
梨乃が約束通り名古屋に来られるのか?
父に阻まれ破局するのか?
新たな恋の予感がどこに向かうのか?
密室に男女二人。
初めてではなかった。
寂しがりで甘えん坊の梨乃は遠距離恋愛に向いていない。
アルコールの助けがあると梨乃の理性は脆くも崩壊する。
月一ペースで会っていたとはいえ、半年近くも陸とは離れて暮らしていた。
限界だった。心も体も。
・・・陸はきっとモテる。知らない誰かに誘惑されてる・・・
不安と猜疑心が、梨乃の心を揺らし、迷いを後押しする。
女の勘は鋭いという。陸も寂しい時にいい人が現れたらきっとそっちに行ってしまう。
そろそろそんな頃合いだと感じていた梨乃は、覚えのあるかつての憧れ、浜田を求めずにはいられなかった。
浜田も雄だった。
求められれば応じる。
情が無いと言えば嘘になる。
陸と梨乃をくっつけようとしたのも浜田だが、梨乃は元自分の客。
自ら手放した梨乃が、揺れながら自分を求めている。
浜田も過去の未練と未来の後悔の間で揺れた。
陸に対しての友情のような想いもある。
どちらかを向けば、どちらかには背を向ける。
結局は背中合わせの恋。
梨乃の肩を抱く浜田。
触れる頬と頬。
浜田は梨乃の頬を涙が伝ったのを感じた。
梨乃の瞳からこぼれ落ちた涙の訳を浜田は知らない。
この夜が、すべてを狂わせる分岐点になるとは思いもよらなかった。
エステサロンを退職し群馬の実家に帰った梨乃は、兄が始めた居酒屋を手伝い、そこでもらうアルバイト代が唯一の収入源にはなっていた。浪費家の梨乃には切り崩す蓄えもない。開店直後で、まだ客足も安定しない兄の店では充分な給料をもらうこともできず、収入はエステティシャン時代の半分以下になっていた。家賃がかからなくなっていたとはいえ、毎月新幹線で陸に会いに行く交通費を捻出するのは楽ではなかった。
次第に名古屋へ行く頻度が減り、浮いた分の交通費は新宿に消えるようになっていった。
ゆるぎない巌の牙城は相変わらず高く聳え立っていた。
難航していた名古屋行きに一石を投じる変化があった。
梨乃の生理が来ない。
梨乃は先ず、祖母の梅に相談した。そして母の志津。
志津が薬局で買ってきてくれた検査薬を試してみる。
2つある判定窓の両方にくっきりと濃いピンクの線。
・・・陽性!?ど・どうしよう?・・・
「ねえ、どうだったの?」
トイレの外から心配そうに尋ねる志津に、ドアを開け、そっとスティック型の検査薬を差し出す。
「ん、これどっちなの?」
「陽性だよ。多分。」不安そうに答える梨乃をよそに
「良かったじゃない、おめでとう!」と喜ぶ志津。
「でも、まだお父さんに許してもらってない・・・」
「大丈夫よ、既成事実作っちゃえば、流石のお父さんも反対できないでしょう?」
普段はまじめで控えめな志津とは思えない反応。
「ねえ、おばあちゃんもそう思うでしょ?」
そういうと、女性三人で巌の書斎へ向かった。
トントントン
「お父さん入るよ」志津が先頭を切る。
いつも通りしかめっ面の巌に
「ねえ、梨乃に赤ちゃん出来たかもしれませんよ!」
更に表情が険しくなる巌
「もうそろそろ認めてあげたらどうですか?
パパがいなかったら赤ちゃんも可哀そうでしょ?」
むくっとプレジデントチェアから立ち上がる巌
「バカモン!そんな出鱈目な話があるか!!」
激高する巌
「大体だなあ、わしは認めとらんぞ!勝手に子供なんぞ作りやがって!
順番も守れんのか!あの男は!兎に角、絶対に認めん!子供は堕ろせ!」
我を失い吠える巌。
『パン!』巌の咆哮を梅の平手打ちが静めた。
「お主それでも人の親か?折角授かった子を堕ろせとは、よく言えたな!」
年老いたとはいえ、女手一つで幼かった巌を育てながら、松田の家を守ってきた梅には人間としての本質的な強さがあった。
「子は宝ぞ!お主の親父さんだったらどう言うか、よお考えてみろ!」
「そんなものは、知らん。会ったこともないし。」
駄々っ子のように弱弱しく答える巌。
「志津さんの言う様に、父親のおらん可哀そうな子を作るんか?お主のような・・・
よお考えろ!」と言って書斎を後にする梅。
プレジデントチェアに座るとくるっと回って背を向け黙る巌。
「じゃあ、考えてあげて下さいね。」と言い残し、梨乃と部屋を出る志津。
巌は目を閉じたまましばらく動かなかった。
書斎のプレジデントチェアにもたれ迷走していた。
娘を自分の手の届くところに置いておきたい・・・
何かあれば助けてあげたい・・・願いは叶えてあげたい・・・
娘の交際相手・武村陸にはあったことがない・・・
彼は自衛官・・・軍属・・・不安定な世界情勢・・・戦争・・・
派兵・・・戦死・・・未亡人・・・ててなし・・・孤独・・・
伴侶を亡くした梅・・・独りで子育て・・・
この50年戦争をしていない日本・・・平和憲法・・・憲法第9条・・・改憲・・・
遠方・・・名古屋・・・仕事・・・転勤・・・転職・・・妊娠・・・出産・・・孫・・・
葛藤の中にいた巌は、答えが出ないまま、いつの間にか眠りについていた。
奥の和室ではオルゴールの調べが物憂げに何かを伝えようとしていた。



