●第5章 遠雷とスコール
梨乃の父、巌は父親を知らない。巌が生まれた直後にガダルカナル島で戦死した。
江戸時代の松田家は代々「名主」と呼ばれる家系で、領主への貢納(年貢・公事・夫役)の責務を担っていた。先祖をたどれば鎌倉時代から続く所謂「名門」で、武士よりも経済的に裕福で、広い屋敷に住み、広大な農地を保有していた。しかし代々の当主が必ずしも有能とはいかず、土地を売って借金の返済に充てるということもあった。時代を追うごとに広大だった農地は減少し、今では500坪ほどを残すのみとなっていた。群馬の田舎とはいえ一般家庭と比べれば、やや裕福な家といえる。
昭和16(1941)年 山本五十六司令長官率いる連合艦隊の真珠湾攻撃により大東亜戦争の火蓋が切って落とされる。翌年の6月ミッドウェー海戦で空母4隻を失う大敗北を喫した日本軍は、ソロモン諸島の制空権を確保する為、南方の島ガダルカナル島に前進航空基地の建設を始めようとしていた。
昭和17(1942)年7月5日、海軍軍人だった松田茂は南方の洋上にいた。
「いよいよ明日から上陸作戦ですね」
「しばらく忙しくなるから、今のうちに家族に手紙でも書いておけよ!」
二つ年上の上官・藤田に言われ、茂は昨年の秋にお見合いで結婚したばかりの妻・梅に宛てて手紙をしたためた。戦地の兵士たちは、家族に手紙を書くことで、自身の状況を伝え、家族の安否を気遣った。手紙は、軍事郵便として送られ、検閲を経て家族の元に届けられる。
『梅へ
体調はどうですか。飯は食べれてますか。お腹の子の為にくれぐれも無理はしないで下さい。自分は元気です。しばらくは帰れませんが、きっと任務を終えて無事に帰るから、それまで家のことは頼みます。明日早いのでもう寝ます。梅も早く休むように。昭和十七年七月五日 松田茂』
松田たちの設営隊は上陸して約1か月後の8月5日に初期工事を完了したが、翌々日、突如としてアメリカ軍による艦砲支援射撃が始まり、アメリカ第一海兵師団が上陸作戦を敢行する。そしてそこから6か月にわたる熾烈な消耗戦・ガダルカナル島の戦いが始まる。
大本営は苦戦する先遣隊を援護し、飛行場を奪還するために陸軍による上陸作戦を数度試みるが、戦力的に優位な敵軍に阻まれ、弾薬・食料の補給線が崩壊する。戦局は更に深刻なものとなり。最終的に20,000名を超える戦没者を出すこととなる。うち戦死したのは5,000名前後。
戦死者の3倍の15,000名程が飢餓と病気により亡くなっている。
多くの餓死者を出したガダルカナル島は後に「餓島」と表記されることもある。
ジリ貧という段階は越え、食料は、とうに尽きている。泥水をすくって沸かし、その辺に生えている野草を入れて飢えをしのぐ。降り続く長雨が体力を奪い、弱った体に追い打ちをかける。
凄惨な飢餓地獄が松田たち日本兵を襲っていた。
いたるところに死体が連なり、撃たれて死ぬことは、もう怖くなくなっていた。
食うことばかり考えていた。
「松田・・俺はもうダメかもしれん・・」
一週間ほど前、敵の銃弾を横腹に受けた藤田の傷口からは膿が出ていた。
「何か口に入れられるもの探してきますから、待ってて下さい。」
と言って立ち上がろうとする松田の腕をつかんで制止した藤田は
「松田、腹減ったよな・・・」
「だから、何か口に入れ・・」
松田の言葉を遮り
「俺が死んだら・・お前が、俺の肉を食ってくれ・・・」
と懇願する藤田。
「頼む・・お前が生きて帰って、俺の家族に伝えてくれ・・・『愛している』・・と」
「藤田さん、そんなこと言わないで下さい!『必ず一緒に帰る』って決めたじゃないですか!」
「そのつもりだったが・・どうやら迎えが来ちまった・・・みたい・・だ」
「藤・田・さん?・・しっかり・し・・ふ・・ふじ・・た・さん・・」
震える声は、兄のように慕っていた男の名前すらまともに呼べなかった。
むせび泣く松田の腕の中で藤田は静かに息を引き取った。
藤田を失った松田は立ち上がり、本能的に泣き叫んでいた
あーーーーーーーーーーーーー!!!
『パン!』・・松田の慟哭を乾いた銃声が静めた。
松田の首筋から赤い糸が線を引く。
糸が切れたマリオネットの様に膝から崩れ落ち、藤田の傍らに仰向けで倒れる。
松田の目に映ったのは、真っ青な空のキャンバスに浮かぶ真っ白な雲。
薄れゆく意識の中で群馬に残してきた妻・梅とまだ見ぬ我が子を想った。
「う・・・め・・」
生後3か月になる「巌」を負ぶって野良仕事をする梅のもとに軍から一通の封筒が届いた。
無言で中身を確認すると、畑にしゃがみこんだ。
見合いとはいえ、茂の男らしさと優しさに梅は惹かれていた。
溢れ出そうになる涙をこらえるように空を見上げ
「いわお、なくでねーぞ!おぬしの親父は立派な漢(おとこ)だった!」
気丈な梅は茂の忘れ形見「巌」に言い聞かすように言った。
「無言の帰還」は、名誉の戦死とたたえられ、戦死者を出した家には、「誉れの家」の標識が掲げられ、称賛された。
悲しむことは許されない。誉れの家らしく、ふるまうことが求められた。戦死を伝える死亡告知書『戦死公報』を手に、涙をこらえ、その死を受け入れるしかなかった。
戦局が思わしくない状況下、遺品が家族のもとに戻ることは稀だったが、幸運にも梅の許には在りし日の茂が写っている2枚の写真が遺品として届けられた。
一枚の写真には駆逐艦の甲板で「敬礼」をする2人の兵隊。笑顔はない。
もう一枚は同じ場所で兄弟の様に肩を組んで満面の笑みを浮かべる2人の兵隊。
『帝国軍人は白い歯を見せるな』という暗黙の軍律と、戦争という狂気の中に居ても、やはり二十歳そこそこの若者という心の表裏をよく現した二枚の写真は、出征前に茂から贈られたオルゴールと共に梅の生涯の宝物となる。
松田の家に嫁いだ梅は、茂への想いから再婚はせず、巌を立派に育てることで自身の責務を果たそうとした。鎌倉時代から続く松田の血脈を紡ぐのが梅自身の使命・命の使い方と考え、独身のまま生涯を過ごした。
戦争孤児となった巌は父を知らずに育った。
『ててなし』と同級生に馬鹿にされた幼少期。
「わしの親父は御国の為に死んだんだ!うちは誉れの家じゃ!」
と馬鹿にした同級生を追いかけまわし、捕まえてはぶん殴った。
子供というのはスリルを楽しむ。
捕まったら殴られるスリル。
巌少年の周りではそんな残酷で野蛮な鬼ごっこが流行った。
いつも鬼は巌。
いつしか「いわ鬼」というあだ名がつけられていた。
敗戦後の日本は貧しかった。娯楽に溢れている現代とは違い、当時の遊びといえば体一つでできる事。野山を駆け回り、池や川で泳いだり、小動物を捕まえたり。野性的で動物的なモノばかり。
「いわ鬼ごっこ」が流行るのも無理はない。
自分を馬鹿にしたやつを捕まえてはぶん殴るという蛮行を繰り返しているうちに、荒くれ者の「いわ鬼」の人間の基礎が出来上がっていった。
学年が上がるにつれ「いわ鬼ごっこ」は飽きられ、巌のことを「ててなし」と罵る者はいなくなったが、気に入らない奴は拳で分からせるという気質はこの頃に染みついたものだった。
学校に行けば「誰か」との喧嘩に明け暮れる毎日。
担任の先生も巌には手を焼いていて、頻繁に梅のもとを訪れていた。
「相手変わって、主変わらず。巌には困ったものです。」
そのたびに
「巌にはよく言って聞かせますんで。すんませんでした。」と謝罪していた梅だった。
改善する様子のない巌を更生させるため、担任の勧めで梅は巌を町の道場に通わせるようにした。
有り余るエネルギーと鬱憤を解消し精神修養するには「武道」が良いのでは?という思惑で。
父親のいない寂しさとコンプレックスで、巌少年は荒れていた。コンプレックスを隠すように、巌の振る舞いは粗暴で、少しでも自分を強く見せようと常に虚勢を張っていた。
大人になっても巌の粗暴さは変わらず、周りを威圧する癖は直らなかった。
そんな巌も人の子で、我が子は可愛かった。父親にとって娘は特別に可愛い存在で、巌は梨乃を甘やかして育てた。梨乃が欲しがるものは何でも与えた。
とはいえ、巌も妻の志津もフルタイムで働いていたため、巌の母・梅が幼い梨乃の面倒を見ていた。
梅にとっても梨乃は目に入れても痛くないくらい可愛い孫で、梨乃も梅によく懐いていた。
梨乃には4つ上の兄・一久がいた。ゆくゆくは自分の店を持つことを夢見て、修行の為に上京していた。
高校を卒業した梨乃は美容に興味を持ち、美のスペシャリスト・エステティシャンになることを目指して上京することになった。当初、可愛い娘が自分の手元を離れて暮らすのは反対だった巌だが、東京には長男で料理人の一久がいた事が安心材料となり、巌は渋々、梨乃の上京を了承した。
梨乃からの報告で、東京で知り合った自衛官の陸と付き合いだしたことを聞いていた巌は
『自衛官なんて、戦争に連れていかれるかもしれないじゃないか?』
戦争孤児の巌にとっては自衛隊=軍隊。
国の為に命を捧げ、未亡人になって悲しむ梨乃の姿を想像し、二人の交際を快く思っていなかった。
まだ湾岸戦争の記憶が冷めやらない中、不安定な国際情勢が巌の不安をあおる。
巌は、娘の梨乃と、母の梅を重ねていた。
元々自衛官との交際に反対だった巌に、名古屋に転勤になる陸に付いて行きたいという梨乃の相談は秒で却下された。頑固な巌の決断は揺らぐことはなかった。
巌の許可が出ないまま、陸は名古屋市内にある守山駐屯地に転属になり、梨乃は曙橋のアパートで独り暮らしをしながらエステサロンに勤務する生活に戻った。
梨乃の父、巌は父親を知らない。巌が生まれた直後にガダルカナル島で戦死した。
江戸時代の松田家は代々「名主」と呼ばれる家系で、領主への貢納(年貢・公事・夫役)の責務を担っていた。先祖をたどれば鎌倉時代から続く所謂「名門」で、武士よりも経済的に裕福で、広い屋敷に住み、広大な農地を保有していた。しかし代々の当主が必ずしも有能とはいかず、土地を売って借金の返済に充てるということもあった。時代を追うごとに広大だった農地は減少し、今では500坪ほどを残すのみとなっていた。群馬の田舎とはいえ一般家庭と比べれば、やや裕福な家といえる。
昭和16(1941)年 山本五十六司令長官率いる連合艦隊の真珠湾攻撃により大東亜戦争の火蓋が切って落とされる。翌年の6月ミッドウェー海戦で空母4隻を失う大敗北を喫した日本軍は、ソロモン諸島の制空権を確保する為、南方の島ガダルカナル島に前進航空基地の建設を始めようとしていた。
昭和17(1942)年7月5日、海軍軍人だった松田茂は南方の洋上にいた。
「いよいよ明日から上陸作戦ですね」
「しばらく忙しくなるから、今のうちに家族に手紙でも書いておけよ!」
二つ年上の上官・藤田に言われ、茂は昨年の秋にお見合いで結婚したばかりの妻・梅に宛てて手紙をしたためた。戦地の兵士たちは、家族に手紙を書くことで、自身の状況を伝え、家族の安否を気遣った。手紙は、軍事郵便として送られ、検閲を経て家族の元に届けられる。
『梅へ
体調はどうですか。飯は食べれてますか。お腹の子の為にくれぐれも無理はしないで下さい。自分は元気です。しばらくは帰れませんが、きっと任務を終えて無事に帰るから、それまで家のことは頼みます。明日早いのでもう寝ます。梅も早く休むように。昭和十七年七月五日 松田茂』
松田たちの設営隊は上陸して約1か月後の8月5日に初期工事を完了したが、翌々日、突如としてアメリカ軍による艦砲支援射撃が始まり、アメリカ第一海兵師団が上陸作戦を敢行する。そしてそこから6か月にわたる熾烈な消耗戦・ガダルカナル島の戦いが始まる。
大本営は苦戦する先遣隊を援護し、飛行場を奪還するために陸軍による上陸作戦を数度試みるが、戦力的に優位な敵軍に阻まれ、弾薬・食料の補給線が崩壊する。戦局は更に深刻なものとなり。最終的に20,000名を超える戦没者を出すこととなる。うち戦死したのは5,000名前後。
戦死者の3倍の15,000名程が飢餓と病気により亡くなっている。
多くの餓死者を出したガダルカナル島は後に「餓島」と表記されることもある。
ジリ貧という段階は越え、食料は、とうに尽きている。泥水をすくって沸かし、その辺に生えている野草を入れて飢えをしのぐ。降り続く長雨が体力を奪い、弱った体に追い打ちをかける。
凄惨な飢餓地獄が松田たち日本兵を襲っていた。
いたるところに死体が連なり、撃たれて死ぬことは、もう怖くなくなっていた。
食うことばかり考えていた。
「松田・・俺はもうダメかもしれん・・」
一週間ほど前、敵の銃弾を横腹に受けた藤田の傷口からは膿が出ていた。
「何か口に入れられるもの探してきますから、待ってて下さい。」
と言って立ち上がろうとする松田の腕をつかんで制止した藤田は
「松田、腹減ったよな・・・」
「だから、何か口に入れ・・」
松田の言葉を遮り
「俺が死んだら・・お前が、俺の肉を食ってくれ・・・」
と懇願する藤田。
「頼む・・お前が生きて帰って、俺の家族に伝えてくれ・・・『愛している』・・と」
「藤田さん、そんなこと言わないで下さい!『必ず一緒に帰る』って決めたじゃないですか!」
「そのつもりだったが・・どうやら迎えが来ちまった・・・みたい・・だ」
「藤・田・さん?・・しっかり・し・・ふ・・ふじ・・た・さん・・」
震える声は、兄のように慕っていた男の名前すらまともに呼べなかった。
むせび泣く松田の腕の中で藤田は静かに息を引き取った。
藤田を失った松田は立ち上がり、本能的に泣き叫んでいた
あーーーーーーーーーーーーー!!!
『パン!』・・松田の慟哭を乾いた銃声が静めた。
松田の首筋から赤い糸が線を引く。
糸が切れたマリオネットの様に膝から崩れ落ち、藤田の傍らに仰向けで倒れる。
松田の目に映ったのは、真っ青な空のキャンバスに浮かぶ真っ白な雲。
薄れゆく意識の中で群馬に残してきた妻・梅とまだ見ぬ我が子を想った。
「う・・・め・・」
生後3か月になる「巌」を負ぶって野良仕事をする梅のもとに軍から一通の封筒が届いた。
無言で中身を確認すると、畑にしゃがみこんだ。
見合いとはいえ、茂の男らしさと優しさに梅は惹かれていた。
溢れ出そうになる涙をこらえるように空を見上げ
「いわお、なくでねーぞ!おぬしの親父は立派な漢(おとこ)だった!」
気丈な梅は茂の忘れ形見「巌」に言い聞かすように言った。
「無言の帰還」は、名誉の戦死とたたえられ、戦死者を出した家には、「誉れの家」の標識が掲げられ、称賛された。
悲しむことは許されない。誉れの家らしく、ふるまうことが求められた。戦死を伝える死亡告知書『戦死公報』を手に、涙をこらえ、その死を受け入れるしかなかった。
戦局が思わしくない状況下、遺品が家族のもとに戻ることは稀だったが、幸運にも梅の許には在りし日の茂が写っている2枚の写真が遺品として届けられた。
一枚の写真には駆逐艦の甲板で「敬礼」をする2人の兵隊。笑顔はない。
もう一枚は同じ場所で兄弟の様に肩を組んで満面の笑みを浮かべる2人の兵隊。
『帝国軍人は白い歯を見せるな』という暗黙の軍律と、戦争という狂気の中に居ても、やはり二十歳そこそこの若者という心の表裏をよく現した二枚の写真は、出征前に茂から贈られたオルゴールと共に梅の生涯の宝物となる。
松田の家に嫁いだ梅は、茂への想いから再婚はせず、巌を立派に育てることで自身の責務を果たそうとした。鎌倉時代から続く松田の血脈を紡ぐのが梅自身の使命・命の使い方と考え、独身のまま生涯を過ごした。
戦争孤児となった巌は父を知らずに育った。
『ててなし』と同級生に馬鹿にされた幼少期。
「わしの親父は御国の為に死んだんだ!うちは誉れの家じゃ!」
と馬鹿にした同級生を追いかけまわし、捕まえてはぶん殴った。
子供というのはスリルを楽しむ。
捕まったら殴られるスリル。
巌少年の周りではそんな残酷で野蛮な鬼ごっこが流行った。
いつも鬼は巌。
いつしか「いわ鬼」というあだ名がつけられていた。
敗戦後の日本は貧しかった。娯楽に溢れている現代とは違い、当時の遊びといえば体一つでできる事。野山を駆け回り、池や川で泳いだり、小動物を捕まえたり。野性的で動物的なモノばかり。
「いわ鬼ごっこ」が流行るのも無理はない。
自分を馬鹿にしたやつを捕まえてはぶん殴るという蛮行を繰り返しているうちに、荒くれ者の「いわ鬼」の人間の基礎が出来上がっていった。
学年が上がるにつれ「いわ鬼ごっこ」は飽きられ、巌のことを「ててなし」と罵る者はいなくなったが、気に入らない奴は拳で分からせるという気質はこの頃に染みついたものだった。
学校に行けば「誰か」との喧嘩に明け暮れる毎日。
担任の先生も巌には手を焼いていて、頻繁に梅のもとを訪れていた。
「相手変わって、主変わらず。巌には困ったものです。」
そのたびに
「巌にはよく言って聞かせますんで。すんませんでした。」と謝罪していた梅だった。
改善する様子のない巌を更生させるため、担任の勧めで梅は巌を町の道場に通わせるようにした。
有り余るエネルギーと鬱憤を解消し精神修養するには「武道」が良いのでは?という思惑で。
父親のいない寂しさとコンプレックスで、巌少年は荒れていた。コンプレックスを隠すように、巌の振る舞いは粗暴で、少しでも自分を強く見せようと常に虚勢を張っていた。
大人になっても巌の粗暴さは変わらず、周りを威圧する癖は直らなかった。
そんな巌も人の子で、我が子は可愛かった。父親にとって娘は特別に可愛い存在で、巌は梨乃を甘やかして育てた。梨乃が欲しがるものは何でも与えた。
とはいえ、巌も妻の志津もフルタイムで働いていたため、巌の母・梅が幼い梨乃の面倒を見ていた。
梅にとっても梨乃は目に入れても痛くないくらい可愛い孫で、梨乃も梅によく懐いていた。
梨乃には4つ上の兄・一久がいた。ゆくゆくは自分の店を持つことを夢見て、修行の為に上京していた。
高校を卒業した梨乃は美容に興味を持ち、美のスペシャリスト・エステティシャンになることを目指して上京することになった。当初、可愛い娘が自分の手元を離れて暮らすのは反対だった巌だが、東京には長男で料理人の一久がいた事が安心材料となり、巌は渋々、梨乃の上京を了承した。
梨乃からの報告で、東京で知り合った自衛官の陸と付き合いだしたことを聞いていた巌は
『自衛官なんて、戦争に連れていかれるかもしれないじゃないか?』
戦争孤児の巌にとっては自衛隊=軍隊。
国の為に命を捧げ、未亡人になって悲しむ梨乃の姿を想像し、二人の交際を快く思っていなかった。
まだ湾岸戦争の記憶が冷めやらない中、不安定な国際情勢が巌の不安をあおる。
巌は、娘の梨乃と、母の梅を重ねていた。
元々自衛官との交際に反対だった巌に、名古屋に転勤になる陸に付いて行きたいという梨乃の相談は秒で却下された。頑固な巌の決断は揺らぐことはなかった。
巌の許可が出ないまま、陸は名古屋市内にある守山駐屯地に転属になり、梨乃は曙橋のアパートで独り暮らしをしながらエステサロンに勤務する生活に戻った。



