●第4章 春を告げるラッパ
陸が転属になった第35普通科連隊は名古屋市守山区にある守山駐屯地に駐屯する第10師団隷下の普通科連隊だ。第10師団は別名金鯱師団と呼ばれ東海・北陸6県の防衛警備、災害派遣を任務としており、師団司令部を守山駐屯地に置いている。
自衛隊の特別勤務の中で、「当直」と言うものがある。「営内における規律の維持」「火災予防」「盗難予防」を主たる任務とし、平たく言うと「点呼報告をする宿直当番」だ。当直には各部隊ごとに置かれる「部隊当直」と駐屯地内の部隊当直を取りまとめる「駐屯地当直」があり、月曜日から木曜日と、木曜日から月曜日の半週交代制で下番した当日は休日となる。
駐屯地当直は当直指令、当直陸曹、当直伝令の3名で構成されるのだが、駐屯地当直伝令、略して「駐伝」だけはラッパ手が就くという決まりがある。駐屯地内の時報は旧軍からの伝統で、信号ラッパで行う。「起床」から始まり「食事」や国旗掲揚時に演奏する「君が代」、「消灯」など時間ごとに演奏する曲が決められており、駐屯地当直室の時計に合わせてラッパ手が駐屯地放送のマイクに向けて生演奏をすることになっている。

35連隊に転属になって1か月程経ったころ、陸は守山駐屯地に来て初めて駐屯地当直の任務に就いた。
全国の自衛隊の中で最も練度が高いと言われている32連隊ラッパ隊のエースで助教(部内のインストラクター)をしていた陸にとって、ラッパ吹奏はお手の物だった。ただ、守山駐屯地に来てからはまだ1か月しかたっておらず、新天地でのラッパ演奏は初めてだった。百戦錬磨の陸にも少しの緊張があった。

駐屯地当直指令室の時計が08:29:30になり、駐屯地放送が流れる。
「本日のラッパ手は第35普通科連隊 武村士長です。」
アナウンスから15秒ほど間がある。
緊張の瞬間。
唇を少し湿らせて、マウスピースになじませる。
直立不動でラッパを構え、少し暖かい息を入れて管を温め、カウントダウンを待つ
08:29:57・58・59・
08:30:00 パッパッパッパラパーン!
信号ラッパによる「気を付け」が鳴ると、駐屯地中の自衛隊員が『気を付け』をして師団司令部の国旗掲揚塔の方角に正対をする。
続けて信号ラッパの「君が代」が厳かに流れ、ゆっくりと日の丸の旗が国旗掲揚塔に昇っていく。
てっぺんまで登りつき、はためく日の丸。
信号ラッパで「休め」「課業開始」が流れ、自衛隊員の一日の勤務が始まる。
自衛隊のラッパ手は、3か月間のラッパ教育でインスタントに錬成された隊員が多く、緊張で音が出なくなったり、音が裏返って、思わずズッコケてしまうような吹奏をする者もいる中、元吹奏楽部の陸の演奏は別格だった。
駐屯地中が陸のラッパに聴き惚れた。
美しい音色に『今日は録音?』と錯覚する者もいた。

「いやーすごいね!ラッパの演奏は何度も聞いてるけど、武村士長のはホントに素晴らしいね!」と駐屯地当直指令も大変驚いた様子で、陸の演奏を絶賛した。
駐屯地当直伝令はラッパ吹奏以外は雑用係だったので、駐屯地当直指令室の傍にある給湯室に湯呑を洗いに行ったりすることがよくあった。そこで陸が出会ったのが師団司令部付隊に勤務する町田だった。
陸が給湯室で急須と湯呑を洗っていると
「お疲れ様です!」と
凛としていて透き通った声。
女性隊員が入ってきた。
振り返り「押忍」と応える陸。
制服の襟に3等陸曹の階級章、胸には『10Z 町田』と刻印された名札。
『10Z・・町田・・3曹・・』瞬時に記憶する陸。
直属ではないが階級の上では上官にあたる。
ショートヘアーで整った目鼻立ち。スリムなようでいて程よく膨らんだ胸。スカート越しにも分かる形のいい下半身。凛としたオーラを纏った町田3曹に陸は一瞬見惚れた。
そして、何よりも「声」がいい。体の芯に浸みる・・・。
・・・完璧すぎる・・・女神様?・・・
女性隊員は左腕に紺地に赤線1本の駐屯地当直伝令の腕章を見ると
「今朝ラッパ吹いてたのあなた?」と尋ねた。
「あ、はい・・」
やや緊張気味に答える
「すごい上手だったね!」
思いがけず褒められ、照れる陸。耳が真っ赤に染まっていくのが分かる。
「アハ・・もしかして照れてるの? 可愛い!」
初対面だというのに、気さくに陸をからかう町田。
「もしかして吹奏楽部?」
「はい!」
「パートは?」
「ペット、やってました・・・」
「ホントに!?私ユーホ吹いてたの。」
 吹奏楽部の人間はトランペットを「ペット」トロンボーンを「ボーン」
 ユーホニアムを「ユーホ」といった感じで省略して呼ぶ傾向がある。
これが通じるのは吹奏楽部=ブラバンの証。
「町田3曹も吹奏楽やってたんですか?」
「そうだよ、、、ってなんで私の名前知ってるの?」
血が逆流して顔が紅潮する陸。
「あ、名札見れば分かるか?ハハハ」と自分で納得して笑う町田の声は、陸の意識を遠くに飛ばしてしまいそうな心地よい響きを持っていた。
・・・せっかくだから、何か話さなきゃ、何か・・・
何とかして町田3曹との会話を続けたいと思い、焦って集中力を欠いていた陸は、洗い終わって横に置いていた湯呑を手ではじいてしまった。
あっ!!
スローモーションで落ちる湯呑。
パリーン!床に砕け散る破片。
「大丈夫?」
同時にしゃがんで湯呑を拾おうとする二人。
触れる指と指・・ぶつかる視線。
「あ、大丈夫です!」
思わず目をそらし、視線を下げる陸。
片膝でしゃがんだ町田の白い太ももが視界に飛び込む。
ドキン!!
陸は慌てて横を向き視線をそらしたせいで、手元が狂い破片で指を切ってしまった。
「痛っ!」
「ちょっと、大丈夫?」
「だ、大丈夫です・・」と言って人差し指を咥える陸に
「血が出てるでしょ?ちょっと待ってて」と言って
師団司令部の事務室の方に走って行った。
すぐに戻って来た町田に
「指見せて!」と言われ
「もう止まったから大丈夫です。」と言って人差し指を見せると、指紋をなぞるように血が滲み出ていた。
「何言ってるの、まだ血出てんじゃん。ほら手かして」
町田に応急処置をしてもらっている間陸は、彼女のキューティクルの整った、流れるような美しい髪に見とれていた。町田の髪からは、ほのかにシトラス系の爽やかな香りが漂っていた。
思いっきり鼻から息を吸いたい衝動を抑え、町田にばれないように鼻からそっと息を吸い込んだ。
脳が痺れた。目がうつろぐ・・・。
・・・このまま時間が止まればいいのに・・・
マキロンで手際よく消毒し、陸の指に絆創膏を巻き終わると
「はい!終わったよ。」と言って紙くずをごみ箱に捨てる。
無情にも時間は動き出した。
「すみません。ありがとうございました。」
「いいよ、お礼なんか。今度おいしいご飯ご馳走してネ。」
小悪魔的な笑みで、冗談を言い、陸の心を鷲掴みにする町田だった。
「あ、喜んでご馳走します!・・・今度行きましょう、ご飯!ありがとうございました。」
と頭を下げた。当直室に戻る陸の頭の中には
『惚れてまうやろ!』
という心の叫びが、山彦の様に何度もこだましていた。
『町田3曹・・・下の名前何て言うんだろう?』

マチダ・・マツダ・・似た響きに、いまだ進展のない遠距離交際中の梨乃を連想する陸だったが、町田の鮮烈な印象に脳の7割は奪われていた。町田の凛とした透き通った声が頭の中で木霊する。
陸の痛恨のミスは町田の連絡先をきいていなかったこと。連絡手段がないということは、次にいつ会えるのか分からないということだった。陸はせっかく掴みかけたチャンスをモノにしたくて、次にいつ駐屯地当直伝令に上番するのか勤務表が待ち遠しかった。
第35普通科連隊は本部管理中隊以下、1から4のナンバー中隊、重迫撃砲中隊という6
個中隊で構成されていた。それぞれの中隊に複数のラッパ手がいるため、半週交代の駐屯地当直が回って来るのは、早くても通常ローテーションだと5週間以上先になる。
たまたま事務室に行った時、ベテランの福山2曹がたまたま翌月の勤務予定表を組んでいた。
福山は陸を見るなり
「あ!武村士長、この間のラッパ、でら評判よかったぞ!
 武藤の言ってた32ラッパ隊のエースってのは本物なんだな!」と持ち上げた。さらに
 「なんか、師団司令部から3課長(連隊本部の訓練担当課長)にお褒めの電話があったらしいぞ。おかげで中隊長もご機嫌だ!ホッホッホッホ!」と癖のある太い笑い声で話す福山。
35連隊の福山と32連隊ラッパ教官の西本2曹は実は陸教同期(陸曹教育隊=陸士長から陸曹になるための教育課程の同期)で静岡県にある富士学校で半年間、共に汗を流し切磋琢磨した仲だった。
陸の転属が決まった時に武藤は福山に電話していた。
「今度の異動で、うちのラッパ隊のエースがそっちに行くから、よろしく頼むな!
防衛庁長官(※現在は防衛省)が市ヶ谷駐屯地に来る時はいつも指名打者で送迎ラッパを吹いてた奴だから、なかなか使えるぞ!(※新たに組閣され防衛庁長官が変わると長官が制服組のトップである統合幕僚会議議長に面談する為、東部方面総監部のあった市ヶ谷駐屯地に視察がてら挨拶に来るという新長官恒例のイベントがあった)
ま、そっちに長官が行くことはないだろうけどな。奴が守山のラッパ隊を教えればそっちの練度が上がっちまうから、32連隊のラッパ隊の価値が少しだけ下がっちゃうな・・・」
と誇らしげに話していた。
陸教同期の武藤から事前情報を得ていた福山は、武村士長が転属してきた翌月、彼を駐屯地当直伝令に就けていた。
当の福山もこれほどの反響があるとは思っていなかった。
上級部隊から連隊本部が褒められるのは珍しく、また連隊本部から中隊長が褒められるのも稀だったため、ローテーションを崩してもう一度陸を連続登板させるべきかを少し迷っていた。
絶妙なタイミングで事務室に来た武村士長を見るなり、すこぶる評判が良かったことを伝え、気分を良くさせた後
「また来月あるけどやるか?駐伝?」
願ってもない提案に、陸は二つ返事だった。

陸も梨乃もまめな性格ではなかった。
始めのころは毎日のようにしていた電話も次第に減っていった。
「名古屋に行けるように、何とかお父さんを説得するから待ってて」と言ってから半年余りが過ぎ、東京から群馬に戻った梨乃も、まったく揺るがない巌の牙城を崩すことができず焦っていた。単身守山に来て営内のタコ部屋で8人暮らしを強いられている陸も、梨乃のあてにならない報告にうんざりしていた。
月に一度、新幹線で名古屋に来ていた梨乃。
名古屋の繁華街・栄にあるレストランでサラダバーを注文する二人。
「お父さん、ちっとも話聞いてくれない。」
「そっか・・・」
「・・・」
自然と空気が重くなる。
「おばあちゃんも一緒に説得してくれてるんだけど・・・」
「おばあちゃんの言う事だけは聞くんじゃなかったの?」
「今回はまるでダメ・・・最近は、『またその話か、ダメなものはダメだ!』と言って話も聞かずに逃げるように出かけちゃう」
「巌なだけにテコでも動かない・・ってわけか」