聲なき夏  届かぬ想いが響くとき

●第3章 姫事と秘め事
寝たり覚めたり、なんとなくダラダラと過ごしていたら辺りはいつの間にか薄暗くなっていた。ようやく二日酔いから回復してきた陸は急にお腹が空いてきて、無性に肉が食べたくなった。
近所に部隊の先輩とよく一緒に行くウエスタン風のステーキ屋があるのを思い出し、梨乃と二人で夕飯を食べに行くことにした。曙橋から抜弁天方面に坂を上っていくと、通り沿いの左側に、西部劇に出てきそうな木製の小屋を意識したしつらえの店構えが目を引く。木製の扉を開けて中に入ると店員に案内された奥の席で二人は向かい合って座った。二人はそれぞれ看板メニューのテキサスステーキとキッドステーキを注文した。ほどなく焼きたてのビーフステーキとライス、小鉢のサラダそしてスチールのマグカップに注がれたアメリカンコーヒ―が載ったトレーが運ばれてきた。決して高級な肉ではないが、下味の塩コショウだけでも十分満足できるワイルドなステーキ。陸はこの無骨な感じの男飯が好きで、月に2回ほど食べに来ていた。もちろん女性と来るのは初めてだった。
「こんな店で大丈夫だった?」
気遣う陸に
「うん、全然大丈夫。ウエスタンな感じでいい雰囲気だね!」
さりげなく忖度した回答をする梨乃。
ステーキを平らげて満腹になった二人。
梨乃がトイレに行っている間に会計を済ませた陸は店の出口付近で梨乃を待った。梨乃が戻ってくると、木製の扉を開けて、二人は手をつないで再び梨乃のアパートに向かって歩き出した。
昨日からの累計だとかなり睡眠欲は満たされていて、ステーキを食べたことで食欲も満たされていた二人は、夜が更けていくにつれ、残る欲求に抗うことはできなかった。
最後の欲求も満たされた二人はいつしか眠りについていた。
もうセミは鳴いていない。
次の日の朝、公務員の陸は連休で休みだったが、シフト勤務の梨乃は仕事だったため、陸にRのイニシャルのキーホルダーが付いた合鍵を渡し
「戸締りだけしてくれれば大丈夫だから」と言い残し、家を出て勤務先のエステサロンに向かった。
陸はのんびりさせてもらったお礼のつもりで、勝手にキッチンを片付けて、次は何か作れるといいな・・・という思いで部屋を出ると、ドアの鍵を閉めて、合鍵をドアポストの中に落とした。

梨乃は仕事を終えて部屋に帰ると、陸に渡したはずの合鍵がドアポストに入っていたことにショックを受けた。昨日の夜、姫事が行われたマットレスの上に陸の姿はない。
・・・また行きずりの恋で終わっちゃうのかな?・・・
なぜ陸に合鍵を返されてしまったのか謎だった。独り部屋にいる寂しさに耐え兼ね、先輩の優子に連絡を取り、Barパスポートで待ち合わせをした。
一足先に店についた優子は、カウンターの右端の席でバージニアスリムライトを吹かしながら、梨乃の到着を待っていた。ちょうど二本目を吸い終わったタイミングでエレベーターの扉が空き、梨乃が入ってきた。
「梨乃ちゃん、いらっしゃい。優ちゃん来てるよ」とバーテンダーの浜田が言い終わるのを聞く前に、梨乃は優子の待つカウンター席に向かっていた。
「優先生すみません。呼び出しちゃって」
梨乃は昨夜の姫事にまつわる一部始終を優子に話し、渡したはずの合鍵が戻されていたことなど、隠すことなく話した。どちらかというと「都合のいい女」になり下がりやすい梨乃は、事あるたびに姉のように慕う優子に相談し、アドバイスを求めていた。何でもかんでも話してしまっていたため、梨乃は優子に対して秘め事はなかった。
梨乃の疑問は「なぜ合鍵は戻されてしまったのか?」ということ。
優子の見解は「成り行きで合鍵を預けた状況だったから、りっくんに対して『一緒に住もうよ!』という梨乃の想いは届いていないのでは?」というもの。
答え合わせをするチャンスは意外にも早くやってきた。
パチンコに負けた陸が後輩の仁と二人でエレベーターから降りてきたのだ。
陸はすぐに優子と梨乃がいる事に気付くと、いつものカウンター席が空いてなかったので、これ幸いと梨乃の隣に座った。後輩の仁はトイレに行った。
昨日の秘め事のせいか、少しよそよそしくなる二人。
「昨日はありがとう・・・あ、今朝か?」
「こちらこそ・・・」
「・・・」
後輩の仁はトイレから戻ってくると、
「どうしたんすか?」と空気を読まずに聞いた。
煮え切らない二人をみた優子は立ち上がると、
「りっくん、ちょっといい」と言って、右手の人差し指を上に向けて、クイクイとすると、エレベーターの奥にある非常階段に陸を誘った。

梨乃は優子と同じ銘柄の細いメンソールの煙草を溜息で吸いながら、カナディアンクラブ12年の入ったロックグラスを傾けていた。
「CCの12年っすか?」
仁が梨乃に尋ねると、
「飲んでみる?」と言って、浜田に手サインでグラスを要求した。
梨乃は慣れた手つきで、ロックグラスに氷を入れ、ボトルのウイスキーを注いだ。マドラーで軽くステアをしてから
「どうぞ!」と仁の前に差し出した。
相方が席を外し、残された仁と梨乃はロックグラスで乾杯をした。

非常階段に陸を呼び出した優子は、じっと陸の目を見て
「で、あの後、梨乃とどうだったの?」と尋問を始めた。
この人は何て生々しい質問をするんだ!?と面食らった陸は少し顔を赤らめて、
「どういうことですか?」と質問を返した。
「セミじゃないんだからさ、したら終わりじゃないでしょ?」
「好きなの?好きじゃないの?」と核心を突く。
更に紅潮する陸。その反応に、脈ありなのを察すると、陸の手を取り、無理やりヒンヤリとした何かを握らせた。優子はしたり顔で非常階段からカウンターの方に戻っていった。
陸が握った左手をゆっくりと開くと、ドアポストに返したはずのRのキーホルダーが付いた合鍵が9時間振りに戻ってきていた。
「戸締り用」に渡されたと思っていた合鍵は「好きな時に来ていいよ」という意味だったのだ。
ブーメランのように戻って来たRのイニシャルをじっと見つめる陸。もう一度握りなおした左手をポケットに入れて、そっと開いた。
・・・俺にもようやく春が来た!・・・
思わず笑みがこぼれる陸。
深夜だというのに、どこかでセミが鳴くのが聞こえた。

急接近をして、同棲するようになった陸と梨乃だったが、蜜月は長く続かなかった。
暦の上ではもう春だが、まだ吐く息は白い。
終礼の後、上官から幹部室に呼ばれた陸。
異動の内示だった。ショックで頭の中が真っ白になる。
いつものコンビニで二人分の弁当を買って、アパートに帰る陸。
いつの間にか雨が降りはじめていた。
陸は傘をもっていなかったが、ビニ傘を買うことはせず、雨の中を濡れながら歩いて帰った。
アパートへの道のりがいつもより遠く感じられた。
雨が強くなる。止まない雨が陸の心に降り注いだ。
部屋に帰って、濡れた上着を脱衣所のハンガーにかけると、着ていたシャツは洗濯機に入れた。
上半身裸のまま、部屋の片隅に置いてあったキーボードの前に座り、梨乃が帰るまで、好きなロックバンドのバラードをひたすら弾いていた。心の中の雨音をかき消すように。
高校時代から、音楽をやっていた陸は、心が乱れた時は決まって楽器の演奏に没頭した。
気持ちを音に変えて表現することで、心を整えるのが陸流の精神統一であり、ストレス解消法だった。
・・・梨乃が帰ったら何て伝えよう?これからどうしよう?・・・
答えの見つからない問いを自分に向け、陸の指は鍵盤の上を走る。
BOSSのアンプスピーカーから流れる悲しく切ない旋律が部屋の中に響きわたっていた。

そんな夜に限って、梨乃の帰りは遅かった。

ガチャリン!と鍵の開く音。
「ただいまー。ごめんねー、勉強会が長引いて遅くなっちゃった。」
「お帰り、遅かったね・・・」
キーボードの電源をオフにして、テーブルの前に座る陸。
「もしかしてご飯まだ?」
テーブルの上のローソンの袋に気づいた梨乃。
「てかさー、何で裸なの?もう・・・気が早いよ・・」
「一緒に食べたくて待ってた。」と静かに答える陸。
「待たせちゃってごめんね。チンしてくる!」
陸の買ってきてくれた弁当をコンビニのジャラジャラ袋ごとキッチンに持って行き、電子レンジの中に二段重ねで置いて加熱した。
・・・チン!
「よし、食べよ、食べよ!」
梨乃は温まった弁当を再びテーブルに運んだ。
「てか、なんで裸なの?シャツくらい着なよ。風邪ひくよ!」
梨乃に言われ、陸は引き出しから無造作にTシャツを引っ張り出すと、それを着た。
陸のあごの下にTシャツのタグがぶら下がっているのを見て、吹き出す梨乃。
「Tシャツ裏返ってるよ!しかも前後ろ(笑)」
洗濯モノが裏返しなのに気が付かず適当にたたんでしまっていたのは梨乃の仕業。
話の長い店長の愚痴を言いながら弁当を食べるやや無神経な梨乃。
なんとなく箸の進みが遅い陸。
ようやくいつもと様子の違う陸に気づいた梨乃は
「りっくん、何かあった?」と陸の顔を覗き込む。
少しの沈黙のあと、
「・・転属・・・4月から守山だってさ」
「守山って?」
「35連隊、名古屋・・・。まあ地元近いから、そんなに困らないけど。」
少しの沈黙があり、
「うちも名古屋にお店あるから、一緒に行っていい?」と言った梨乃の言葉を聞いて、急に表情が明るくなった陸は
「いいに決まってんじゃん!」
と答えると、急に箸が進みだした。
Tシャツはまだ裏返しのままだった。しかも前後ろ。

陸の転勤がきっかけとなり、事態は想わぬ方向に向かうことになる。
二人はまだ運命の糸が捻じれ始めていたことに気付いてはいなかった。