■第一部:遠雷の記憶
●第1章 蝉時雨に誘われて
1989年、元号が「昭和」から「平成」に新しく代わり、日本の経済・社会は将来への期待に膨らんでいた。あらゆる資産の高騰が続いたことで、右肩上がりの経済に乗り遅れまいと、民衆はあらゆる消費に群がった。経済成長という実態が伴わないまま好景気が持続し過熱していた。
のちに「バブル経済」と呼ばれた時代。
膨れすぎた株価水準を調整する政策を打ち出したことで、投機熱に急ブレーキがかかり1991年頃にバブルは崩壊した。その後の日本経済は衰退の一途をたどり「失われた30年」と呼ばれるようになる。
同じころ中東では、イラク軍によるクウェート侵攻に対し、国連が多国籍軍を派兵した湾岸戦争が勃発していた。日本の自衛隊も派遣が議論され、戦争に行かされるかもしれない?という不安感から、自衛隊の入隊志願者が極端に減少する事態が起きていた。
そんな中、自ら入隊を志願した武村陸は地元では変わり者のレッテルを貼られていた。そのことをまるで気にもせず、千葉県船橋市の習志野駐屯地で新隊員教育を終えた陸は、東京都新宿区に駐屯する、市ヶ谷第32普通科連隊に配属され首都防衛の任務に就いていた。

眠らない街・新宿歌舞伎町はバブル崩壊後もそれなりの盛況を保っており、週末ともなると帰りのタクシーが拾えなくなるほど賑わっていた。市ヶ谷の自衛隊員が酒を飲みに行く場所と言えば歌舞伎町が定番だった。
新宿駅東口から新宿アルタの左横を通り抜けて少し歩くと靖国通りに突き当たる。
靖国通りの左向こうにはネオンできらめく「歌舞伎町一番街アーチ」が見える。アーチをくぐると雑居ビルが立ち並び、少し進んだ左側の雑居ビルの4階に「Barパスポート」はあった。
エレベーターを使って上に昇り、扉が開けばそこはもうお店の中。目の前にL字のバーカウンターがあり、ハイチェアーが6つ並んでいる。店の右奥にはカラオケ用の小さなステージが用意されていた。ミニステージを囲むようにテーブル席が3つ、所狭しと並んでいる。詰めて座っても20人そこそこしか入れないこじんまりとした店だったが、逆にそれが隠れ家的な魅力を出し、一見さんよりも常連で成り立っている店だった。
その日もセミがうるさく鳴いていて、冷えた生ビールを一息に飲みたくなるような暑い日だった。
陸は決まってカウンターの一番左の席に座り、バーテンダーとたわいもない会話をしながらボトルキープしてあるI・Wハーパーの水割りを飲むのがいつものスタイル。飲み始めにはバーテンダーに1杯奢るのが流儀だと先輩から教わっていた陸は、
「一杯目は生かな!浜ちゃんも何か飲んで!」と声をかけると
茶髪の長髪を後ろで束ねたバーテンダーの浜田は
「ありがとう。じゃあ一杯いただくね」と言って、キンキンに冷えた生ビールを注いだグラスを2つ持ってきた。1つ目のグラスを陸の前のコースターに置き、自分のグラスを少し下げ、縁を陸のグラスに軽く当てて乾杯をした。「おつかれー!」
一気に飲み干す二人。
「あーうまい!今日みたいな日は冷えた生に限るね!2杯目はどうする?」
「ボトル出して」と陸が言うと
浜田は、ボトルキープしてある「I・Wハーパーゴールドメダル」とアイスセット、グラスを持ってきて、慣れた手つきでバーボンの水割りを作ってくれた。
ハーパーのボトルネックにはボトルキープタグが3枚ぶら下がっていた。
陸がいつも通り浜田と談笑しながら飲んでいるとエレベーターの扉があいた。
「いらっしゃいませ!あ、優ちゃん、梨乃ちゃん、指定席空いてるよ。」
シャネルのイアリングをして、ほのかに香水の香りをさせた女性二人はカウンター右奥の席に座った。二人はお店の常連で、大手エステサロンのエステティシャン。
少し小柄で細身の優子は梨乃の先輩で古い常連。一回り大きくて少し肉付きのいい梨乃も、仕事帰りに優子と何度か飲みに来ているうちに、いつの間にか馴染みになっていた。
「優先生、生でいい?」と優子の了解をとると
「浜ちゃん、冷えっ冷えの生2つちょうだい!浜ちゃんも何か飲んでいいよ」
先輩の優子を差し置いて梨乃が言う。
「おおきに。ほな一杯いただこか!」と言ったところを、
「何故にエセ関西弁?」と優子にツッコミをいれられ、
「エセ言うな、エセって!」と言って笑いを誘っていた。凍ったグラス3つに、生ビールを注ぎ終えた浜田は、グラスを二人の前のコースターに置き、乾杯をした。
「あれ?そう言えば、二人は『りっくん』のこと知ってるんだっけ?」
陸の方に目線を向けて二人に尋ねると、
「あー最近ちょいちょい見かけるよね」と優子が答える。
「席空いてるし、せっかくだから、一緒に飲んだら?」と促す浜田
促されるままに席を詰め、少し照れ臭そうに梨乃の隣に座った陸は
「改めて、陸上自衛隊だから『りっくん』よろしくネ!」と浜田に紹介された。
「ちょっと浜ちゃん偽情報流すなよ!俺の仲間全員『りっくん』になっちゃうじゃんか!
 名前が『陸』なんです!
 『りくくん』って言いにくいから、みんな『りっくん』て呼んでんの」
「アハハ!そうなんだ(笑)また浜に騙されるとこだった」と言う優子に
「マタ言うな、マタって!いつもエロイなあ優ちゃんは」と軽く下ネタを放り込む浜田。
「エロイのは浜ちゃんでしょ!もうサイテー!」と笑顔でつっこむ梨乃に
「俺は突っ込まれるより突っ込む方がいいんじゃい!」
暴走気味の浜田は顰蹙を買うことで爆笑を獲得していた。
「浜ちゃん、目の下に黒ゴマ付いてない?」といじる梨乃。
「あれ、ホンマや!何時ついたんやろ?・・・ってこれは泣きボクロじゃい!」というノリ突っ込みで返す下りは、定番になっていて、息の合った二人のネタだった。
浜田という高性能の潤滑油のお陰で、3人はあっという間に打ち解けていた。

常連同士が仲良くなり、サークルのような状態になれば、独りでも飲みに来やすい店になる。自然とリピート率が上がり、会話がはずめば滞在時間も長くなり、お酒もすすみ、売り上げも上がる。こういうお店の常套接客手段だ。
女性客の半数はバーテンダー目当てで店に通う傾向があるが、梨乃もその一人で、元は浜田目当ての客だった。バーテンダーというのはカウンターを挟んで接客をしているだけで、本質的にはホストと遜色のない人種だ。自分のファンを作り、リピートしてもらう「あこぎ」な商売だ。
そのためには様々な手段を使う。「あこぎ」の語源は三重県の「阿漕ヶ浦」に由来する。伊勢神宮の漁場で、禁漁区であるのに密猟が絶えなかったことから、「義理人情を無視して悪どい行為をすること」を「阿漕」と呼ぶようになった。一般論として、客に手を出すのは商売人のタブーとされるが、夜の世界では寧ろ「王道」なのかもしれない。梨乃もそのさりげなく狡猾な手練手管により篭絡されていた過去がある。
お店の目的はリピーターを量産して稼働率を上げること。オスはメスに群がる習性があるから、女性客を常連にすれば女性客目当てに男性客が群がる。様々なお客がそれぞれの職場の先輩・後輩や友達を連れて来てくれることで、店は賑わい、売り上げが安定することになる。