●第5章 川辺の午後
夏休みになると、母の実家近くの川に母の兄夫婦や従兄たちと川遊びに行くのが恒例になっている。
セミの声がうるさく鳴り響いている。
今年はそこに父の姿はない。
その代わりに、初めて見る父子の姿があった。
どうやら母が呼んだらしい。

「紹介するね、同じ職場の金内さん」
「金内です。あと、息子の崇です。光君は中3だっけ?崇の2つ下だね?」
愛想よく振舞う金内に、兄は手のひらを上に向けて肩をすくめた。
高2の崇は兄の生意気な態度が鼻についたらしく
「お前中3なの?年下のくせに生意気だな!」とつっかかった。
「で?」
和やかだった場が一瞬で凍り付いた。
金内はとっさに、崇の頭をはたいて、
「こら!こんなとこで年下の子に喧嘩売るんじゃないよ!」
と崇を諫めた。
「光君ごめんね・・・。」
愛想笑いをする金内に対し、兄は
「で?お前に光君とか呼ばれたくないんだけど」
まったく媚びる様子のない兄にイラっとする気持ちを隠す金内。怒りをこらえながら
「まあ、そんなにカリカリしないで仲良くしようよ」と大人な対応をしてみたものの、心中は穏やかではなかった。
・・・生意気なクソガキだな・・・
昨日の雨とは打って変わり天気が良かったので、母の兄、従兄の二人、金内父子そして兄の光は6人でミニ野球をすることになった。兄以外は全員野球経験者で、従兄の二人と崇は現役の高校球児。
パワーバランスをとるために、大人二人と兄チームVS高校球児3人チームに分かれて対戦することになった。
人数が少ないので三角ベース方式で遊ぶことに。
三角ベースとは、狭い場所や人数が少ない時にでも遊べるように、と工夫された野球のルールで、基本的なルールは野球と同じ。本来ならピッチャーの後ろにある「セカンドベース」がなく2塁の次はホームベースになる。1塁、2塁、ホームベースを結んだ形が三角形になるので三角ベースと呼ぶらしい。
三角ベースはボールさえあれば、バットもグローブも必要なく、やわらかいボールさえあればみんなで遊べるので、レクリエーションにはぴったりだ。ピッチャーは下手投げで投げて、バッターは素手で打ち返す。守備が手薄なため、ベース上に居ないランナーはボールをぶつけられることでアウトになる。

先攻は大人+光のチーム。
1番バッターは光君でいいよ!と大人たちは光に先頭打者を譲った。
高校球児チームのピッチャーはじゃんけんで崇になった。
三角ベースのピッチャーは下手投げの山ボールの為、野球未経験の光でも簡単に打ち返すことができ、一塁に進塁した。
「光~!ナイスバッティング!」
ギャラリーの声援に対し、光は相変わらずのツンデレぶり。
ピッチャーの崇は思わず舌打ち。
2番バッターは金内父。
下手投げで山ボールを投げる崇。
軽く打ち返す金内父。打球はピッチャーゴロ。
ニヤリとする崇。キャッチした瞬間に殺気を帯びた目線は2塁に向かう光をロックオン。野球部ではサードを守っていて、肩には自信のある崇は迷うことなく光の腰辺りに剛速球をぶつけた。
「アウト!」得意げな崇。
三角ベースのルール上問題はない。だがゴムボールとはいえ、球速と当たり所によってはかなり痛い。思いっきりボールを当てられた痛みと悔しさが光の表情をゆがませる。
「光~、大丈夫~?」
母が心配そうに遠くから声をかけたが、光は軽く手を挙げて問題なさそうな素振り。
アウトになった光は2塁側のベンチに戻り、左手でTシャツの裾をまくり上げると腰のあたりにくっきりとついたボール大の赤い跡が、痛々しく熱を帯びていた。
・・・あいつ、やっぱり殺す!
3番バッターの一久がファーストゴロでアウトになると、再度光に打順が回ってきた。
不敵な笑みを浮かべるピッチャーの崇。
闘争心むき出しの光。
下手投げで山ボールを投げる崇。
ブン!光の腕が空を切る。
第2球、ブン!
またしても空を切る光の腕。
「力みすぎなんだよ素人ちゃん」
半笑いで光を挑発する崇。
第3球、ブン!かろうじて光の手がかすったボールはピッチャーゴロに。
仕方なく1塁に走る光。
悪意を込めた剛速球が再び光を襲う。
バチン!
「アウト~!チェンジ!」
勝ち誇る崇。
「てめーこの野郎!」
頭に血が上った光は崇に殴りかかろうとするが、躱されて逆に、カウンター気味に殴り倒されてしまった。
地面に転がる光。
中学では敵なしの光も、所詮はまだ子供。
現役バリバリの体育会系高校生にはまるで歯が立たない。
悠々と光を見下ろす崇。
「やめろ!」
「ちょっとやめなさい!」
慌てて駆け寄った金内父と母が二人の間に割って入る。

その時、光から跳ね返ったボールが風に流されて川の流れの方に行ってしまった。
「あ!ボールが流されちゃう!」真理が叫ぶと
次の瞬間、光が川沿いに走り、流れに向かって飛び込んだ。
川は昨日の雨のせいで、いつもより増水していたが、小さいころからスイミングを習っていて、県大会でも入賞するほど泳ぎが達者な光は、あっという間にボールに追いつき、流れの中からボールを回収すると、悠々と岸の方に泳ぎ着き、元の場所まで戻って来た。そして、そのボールを思いっきり崇の顔に向かて投げつけた。
しかし、ボールは崇の手にはじかれてまた川の方へ風で流される。
「お前がはじいたんだから自分で取って来いよ!」と崇に言い放つ光。さらに
「カナヅチ君は泳げないから、川に落ちたらボールなくなるぞ(笑)」と崇を挑発した。
年下に馬鹿にされた崇は
「なんだと!」と怒りをあらわにし、舌打ちをして風に流されるボールを追いかけに走った。
もう少しのところで、ボールに追いつけず、流れに落ちるボール。
「このくらいの流れなら誰だって・・・!」とうそぶく崇。

「ほら、急げよカナヅチ!」と光が言うと崇は川の流れ沿いに岸からボールを追いかけた。
近いところから飛び込んでキャッチできればなんとかなると目論んだ崇はボールより川下に走り、勢いよく川に飛び込んだ。
「カナヅチなのに泳げるのかよ?ハハハ!」

崇の思惑とは裏腹に崇とボールとの距離は縮まらないまま、同じ速度で下流の方に流されていった。
「馬鹿野郎!」
流されていく息子を見た金内は慌てて崇を陸から追いかけて、息子を助けるために途中から流れに飛び込んだ。
一瞬の出来事。
二人の姿はあっという間に見えなくなった。
溺れた人を救助しようと川に入り、命を落とす救助死が後を絶たないという記事を読んだことがある。流れや深さが急激に変化する川には危険な場所が多く、専門的な知識がないと救助するのは極めて難しい。1人が深みにはまると、一緒にいた人が次々に溺れる「後追い沈水」のリスクもある。まさにそんなニュースの光景が目の前でおこってしまったのだ。

人が溺れている危険な場所は、助けようとする人にとっても危険な場所に変わりはない。『何とか助けよう』と深さを確認せずに入水してしまうことでさらなる事故につながる。
雨で水かさが増し、流れが激しくなることで川底が深く削られるというものを「洗堀」といって、大きな岩の近くや落差がある場所で起きやすいという。水が引いた後に近づくと、普段は浅いはずの川底が深くなっており、その深みにはまって溺れる例が多いという。
専門家は、専門的な訓練を積んでいない普通の人は「決して飛び込まず、救助に行かない勇気を持つことも大事だ」と訴える。

大人たちが慌てて消防署に電話し、救助を要請したが、救急隊が到着したのは2人が見えなくなってから十五分以上経過した後で、サイレンの音がむなしく響き渡っていた。
捜索は夕方近くまで行われ、2人は下流の方で心肺停止の状態で発見された。
その後救急車で病院に運ばれたが、間もなく二人の死亡が確認された。
事情聴取と身元確認の為、私たち関係者は全員、警察から呼ばれ遺体と対面させられた。
水死体は見るものではない。損傷が酷く、傷だらけだった。
病院のエントランスからスロープを降りる途中、バリ!という音がして足の下に何とも言えない違和感を感じた。
そっと足を退ける。
蝉の死体を踏んずけていた。
飛び散る蝉の体液。
だいぶ前からあったのだろう、すでに小さなアリの大群が列をなしていた。
体中に鳥肌が立つのを感じた。
「いやー!!・・・」
私は悲鳴を上げ、母の腕にしがみついた。
初めて見た水死体、踏んずけた蝉の死体から飛び散る体液、群がるアリ
セミの鳴き声が頭の中で反響し、忌まわしい記憶を刻み付ける。
その日の悲鳴を最後に、私は声を失った。

兄に思いっきりビンタをして号泣する母。
「全く何てことをしてくれたの!」
「別に。勝手に溺れただけじゃん。」
全く悪びれない兄。兄の凍った様な冷たい瞳を今でも忘れることができません。
母は金内と息子の崇をみんなに紹介し、いずれ再婚できたらという希望を抱いていた様だ。
しかし、思いがけない諍いで、2人は命を落としてしまった。
この不幸な事故の後、兄は私たちの前から姿を消した。
兄が失踪した理由は分かりません。ただ、兄の机に置いてあったノートには
DEATH in Inner Money
という意味深な英文が殴り書きされていて、赤いペンで上から線が引かれていた。
完了されたタスクのように。
兄は何か感じていたのかもしれない。父と母それぞれの証言から、自分なりの答えを導き出し、何かしらのケジメを付けたのでは?とすら思えてくる。
私の憶測にすぎませんが。

私の失った声を取り戻そうと、母と祖父は、いくつも病院を渡り歩き、診察を受けさせてくれた。「PTSD・心的外傷後ストレス障害」と診断された。どの医者もストレスによる後天的なものだから、そのうち治ると思うんだけど・・・と言うだけで、結局私の声が戻ることはありませんでした。