●第3章 歪んだ家族
日が沈みかけた頃、陸の携帯が鳴った。
画面には「松田巌」の文字。
受話ボタンを押す
「はい、武村です」
「松田ですけど。」と少ししゃがれたず太い声。
「陸、話がしたいんだけど、今日来れるか?」と唐突な申し出。
「まだ仕事残ってますし、明日も仕事があるんで今日はちょっと・・・」
「そうか、すまん。じゃあ。」
あっさり電話を切る巌。
・・・なんだよ、クソジジイ。突然しゃしゃり出て来やがって。
少し不愉快な気分になった陸だったが、おそらく困り果てた梨乃が両親に相談した結果だろうと、さして気にもせず、PCに向かい残業を続けた。
切りのいいところで仕事を切り上げた陸は、定番の食卓になっていた「松屋」で、いつものカツカレーを注文した。先にフォークで上に載っているカツを食べ終わると、スプーンに持ち替え、ライスでルーをふき取るようにして、カレーライスを平らげた。さながらライス軍によるカレー国掃討作戦のように。

時計の針は明日になっていた。
陸は自宅のすぐ目の前にある月極駐車場に車を停めると、携帯電話と車のキーと家の鍵が付いたキーケースだけ持って家に帰った。
ディンプルキーを差し込みガチャガチャと鍵を回す。
ドアを開けようとしたが、ガツっと引っかかる。
・・変だな・・
もう一度鍵を差し込み、ガチャっと回すとドアは空いた。
元から鍵は開いていた。

玄関には見慣れない革靴とパンプス。
『クソジジイだ』と直感した陸は
まだ明かりがついているリビングのドアを開けた。
「ただいま・・・」
「ああ、お帰り。まあ座れよ。」としゃがれたず太い声。
義理の息子の家でも我が物顔で振舞う巌は、大きな態度で陸を威圧する。
『この家を購入する時、確かに200万円程援助してくれたかもしれないけど、ここあんたの家じゃないぞ』という陸の心の声を、しゃがれたず太い声が遮る。
「こんなに遅くまで仕事してるんだな?大丈夫かお前の会社?」と話を始めた義父に
「こんなに遅い時間に何の用ですか?」と皮肉たっぷりに切り返す陸。
眉間にしわが寄り、目を見開き、眉を吊り上げた茂は、すぐに平静を装い
「ん~まあ、梨乃から聞いたんだが、離婚するのか?」と核心を突く。
少し息をのんで
「そのつもりです。梨乃からどこまで聞いているか知りませんが。」
「・・・どういうことか分かるように話せよ!」と言う茂に対し、
『どうやら娘の不始末を謝罪しに来たわけではなさそうだな・・・』と察した陸は
「お義父さんと話すことはありません。どうせ気に入らなければ声を荒げて威圧して、
 恫喝して言うことを聞かせるのがいつものやり方ですからね?」
と忖度せずに強めの言葉をぶつける。
堂々と意見する陸に少しひるんだ巌は釘を刺された形となり、荒くなる鼻息をこらえるように
「話してくれれば聞くから、話してくれないか・・・」と平静を装った。
再び息をのみこんだ陸は、ゆっくり話し始めた。
「ついこの前、梨乃が不倫していたのを知ったんですが、一度は許して示談しました。10年前に私も不倫をしていて、真理のこともあるし。梨乃はそのことを不問にしてくれてたんで。今回はそのことに対する贖罪と言うか、これでお相子というつもりで赦しました。
今でもあの時のことは申し訳ないと思っているので・・・。
でも、もうしないって約束してくれたのに・・・
舌の根も乾かないうちにまたそいつと会っていました。
さすがに、もう無理なんだな・・・って思い、別れることにしました。」

重苦しい沈黙がリビングを包む。
外は静かに雨が降り出していた。

沈黙を破ったのは巌だった。
「そうか・・・でも、わしは離婚は反対だ。死んだばあさんも悲しむ。」
そういう巌の脇で梨乃の母・志津は正座をしたまま沈黙を保っている。
「お義父さんの話は分かりましたが、これは二人の問題なんで、こちらで決めます」
と冷静に答える陸に
「人の話聞いてんのか!わしが反対だって言っとるんじゃ!!」と激高する巌。
思わず立ち上がってキレる巌に対し
「そういうトコですよ!」と座したまま下から睨み返す陸。
「何でも自分の思い通りになると思わないで下さい。」
対峙して動かない二人。
急に雨足が強くなり、鳴り響く雷轟。
「ちょっとお父さん、座って・・・」と物静かな志津が巌をたしなめる。
「お前は黙ってろ!」と頭ごなしに志津を怒鳴りつけると
わなわなと震える拳を握りしめて再び座る巌。
「どうしても離婚するっていうなら、この家を買うときに援助した200万、耳そろえて返してもらうから! そういう事まで考えてモノを言えよ!」
と理不尽なことを言い出した。
あきれた陸は
「この家を買うとき、うちの親からも500万円援助してもらってます。
 それはどう計算したらいいんですか?
 言いたいことがそれだけなら帰ってもらってもいいですか?」
 と巌を一蹴する。
白い口髭を吊り上げて犬歯をむき出しにする巌を
「もう遅いから今日はこの辺にしましょうよ・・・」と志津が締めくくる形となり梨乃の両親は群馬に帰って行った。
時計の長針と短針は1を少し過ぎたところで重なっていて、いつの間にか雨は止んでいた。

梨乃からしてみたら、10年前の陸の行動は社会通念上から見ても常軌を逸していた。
それを受け入れた自分もどうかしていると思っていたが、その裏には誰にも話せない秘密があったからに他ならない。
12年前、光は難産の影響もあり、新生児仮死で生まれてきた。幸いにして早期に回復し、事なきを得たが、出産直後の黄疸とチアノーゼを念のため検査する目的で総合病院に転院ICUに入れられた。母親の病室で一緒に眠ることもできなかった。
後遺症が残ることもあるというので、すぐに退院することも出来ず、小児科に継続して入院することになる。初乳は赤ちゃんにとって大切な栄養分が含まれているというので、梨乃は搾乳器で絞った母乳を、病院に届けなければならなかった。自分が産んだ赤ちゃんを抱くことも出来ず、母親にとって非常につらいことだった。
そんなこともあり、母子は産婦人科、小児科両方で色々検査してもらっていた。

「赤ちゃんの血液型はB型ですね。ママはO型だから、ご主人がB型なんですね。」
という看護師の言葉に、梨乃は顔面蒼白になり、脂汗が噴き出した。
やっぱり・・・陸はたしかA型・・・
「武村さん、大丈夫ですか?」慌てる看護師
「すみません、少し貧血かも・・・でも大丈夫です。」
将来的に、光に輸血が必要な事態になったら、大変なことになる・・・梨乃は怯えた。

光の出産から2年後、武村家に2人目の赤ちゃんがやってきた。
陸似の可愛らしい女の子。それが「真理」
難産だった光と違い、真理の出産に苦労はなかった。
それもそのはず、梨乃は真理を産んではいない。
陸が突然連れてきた。
「すまない、光の妹として一緒に育ててくれないか?」
涙を流しながら懇願する陸。
泣き出す赤ちゃん。
「ちょっと、貸して」
真理を抱っこしてあやす梨乃。流石は一児の母親と言うべきか
「おむつある?」
陸は慌てて、背中のリュックからおむつとおしりふきを取り出す。
おむつを替えてあげると赤ちゃんはすぐに泣き止み
すぐに愛くるしい笑顔を振りまいた。
「きゃっきゃ・きゃ」
「あらぁ、おりこうさんでちゅね~」
梨乃は母の顔になっていた。
母性とはすごいものだ。
自分が産んだ子供でなくても、赤ん坊を見ると母の顔になれる。
ミルクをあげて、げっぷをさせると、捨てずにとってあった、光の時のベビーベッドを押入れの奥から出してくると、そこに真理を寝かせた。
突然やってきた赤ちゃんを珍しそうに見る光。
「だーれ?」
「光の妹よ・・・まりちゃんっていうの。かわいがれる?」
「まりたん?かーいい・・」
「光はお利口ね!」
決死の覚悟で真理を連れてきた陸に対し、拍子抜けするほどすんなり受け入れてくれた「家族」に陸は感謝するしかなかった。
光はともかくとして、梨乃が何も言わずにすんなり受け入れてくれた理由が、自分に対する贖罪の意味が込められていたことを陸は知らなかった。

兄妹は本当の兄妹の様に育てられたが、実は血は繋がっていなかった。
そのことを知っていたのは梨乃だけだった。