■第三部 沈黙の夏
●第1章 未熟な魂
両親は私が小学校を卒業する前に離婚し、2歳上の兄と私は母に引き取られ、母子3人で暮らすようになった。十三年間の結婚生活に終止符を打ち、別居することになった当時、兄は多感な中2男子。
『厨二病』『中二病』と言う言葉もあるくらい、思春期真っ只中の兄は、やり場のない感情が制御できず、悪友と夜遅くまで遊び歩いていた。盛り場に行けば喧嘩に明け暮れる毎日。しょっちゅう補導され、警察からかかってきた電話に謝罪している母を見るのが日常茶飯事だった。
初めのころは何事かと少しビクついていた母も、あまりの頻度に慣れてしまい、いい加減に飽き飽きしていた。馬鹿な兄のせいで、母が恥ずかしい思いをしているのがかわいそうだった。私はそんな兄のことを軽蔑していて、ひとつ屋根の下で暮らすのは苦痛だった。
まだ小6だった私は、唐突なことで正常な思考ができる状態ではなかった。母からの証言しか聞いていなかったこともあり、こんなことになったのも全部父のせいと思い込んでいた。私は、いつしか父だけでなく、男性そのものを忌み嫌うようになっていた。
私の気持ちとは裏腹に、小さい頃は私に対して意地悪だった兄が、父に諫められてからは急に意地悪をしなくなった。父と別居するようになってからは更に優しくなり、両親の離婚が成立したころには、私だけでなく私の友達に対してまで優しくなり「いい兄」を演じるようになっていた。しかし、そんな兄の変貌の動機が、下心に満ちた醜悪な欲望によるものだったということに気が付くのに、そんなに時間はかからなかった。
家出同然で別居したとは言っても私たち兄妹はまだ中学生。あまり環境が変わるのはよくないだろうという母の配慮で、同じ学区内のアパートに引っ越した。通学が少し遠くなったのと、部屋が狭くなったこと以外は生活に大きな変化はなかった。
中学校に通うようになったころ、通学路で偶然父に鉢合わせし「元気か?」と声をかけられたことがあった。あまりにも突然のことで、思考停止した私は何と答えていいのか判らず、黙りこくってしまった。結果として父をガン無視してしまった私。無言で立ち去ることしかできず、とても父の顔を見ることはできなかった。
父はどんな表情をしていたのだろうか・・・?
テンパってしまった私は少しの罪悪感と、少しの嫌悪感を感じながらその場から急ぎ足で立ち去った。
父とはそれっきり会っていない。もう顔も忘れた。
離婚すると養育費を払わない父親が多い中、父は毎月決まった日に入金してくれていた。私と兄の誕生月にはプラス10,000円入れてくれていたそうだ。
父と離れて暮らすことになっても、普段からあまり家に居なかった父なので、日常に影響はなかった。ただ、親戚が集まったり、父兄が絡む行事、イベント事になると、父がいなくなったことを実感する。
両親の別居、離婚のおかげで、男に頼らなくても独りで生きていける強い女性になろうという意識が芽生え、中学生になった私は勉強に打ち込んだ。父は学校の成績について、とやかく言う人間ではなかったが
「勉強なんて、やったか、やらなかったかの違いだけ。やれば誰でもできるんだよ。」
と言っていたのを思い出す。また、こうも言っていた・・・
「教科書を読んでから授業を受けてみな。先生は教科書に書いてあることしか言わないから」
そんな雑談の中での父のアドバイスを、父と離れて暮らすようになってから実践するようになる。
前日に教科書を読んでから学校に行くと、皮肉にも父の言った通り、先生は教科書に書いてあることしか言わないことに気が付いた。
予習が習慣となり、私の成績はみるみる上がった。
結果に結び付くとさらに勉強が面白くなり、相乗効果でますます成績が上がった。
トップクラスの成績は父の教えの賜物かもしれない。
だからと言って、父のことを好きになれるわけではないが・・・。
中3になった兄は相変わらず素行が悪く、いわゆる不良だったが、中学生という生き物は何故か男女問わず不良に憧れる節があり、誰にも媚びない姿勢がかっこよく映ったりもする。学校の内外から一目置かれる不良の兄を持つ私は、友達からうらやましがられ、兄を紹介してくれとせがまれることも度々あった。
兄は兄でそんな後輩女子にいい顔がしたかった。学校に持って来てはいけない飴をいつも隠し持っていて、こっそりパスをして人気取りをしていた。馬鹿な同級生は「キャー?」という黄色い声を上げて、兄の投げたカリンのど飴を奪い合う。「先輩!私もくださーい!」と催促する姿は、エサを待つ雛の様。
そんな同級生を蔑む私をよそに、兄は「真理と仲良くしてあげてネ!」と軽く手を振って得意げにその場を去って行った。
兄のファンだという同級生から
「松田先輩かっこいいよね~。真理がうらやましいよ!」と言われることもあったが、兄の裏の顔を知っている私は「やめといたほうがいいよ」と忠告するのが常。
盲目の同級生はまともに取り合わず、「そんなこと言わないで、今度真理の家に遊びに行ってもいい?」と、まったくひるむ様子がない。私はそんな同級生に対して一々回答はせず、適当にあしらい、まともに相手にはすることなかった。
同級生の亜紀には二歳上の姉・奈津がいた。兄と奈津は同級生。私を含めた4人は幼馴染で、ずっと近所に住んでいたから父親同士も自治会の絡みで親交があり、家族ぐるみで仲良くしていた。小さい頃は4人で一緒にお風呂に入ったり、一緒にお昼寝したこともある。奈津も亜紀も美人のお母さんに似て、きれいな顔立ち。まだあどけなさは残っているものの、将来有望な、かわいらしい姉妹だった。
私はどちらかというと父に似てしまったため、私もお母さんに似たかったな・・・と少し羨んだ。
「真理ちゃんはお父さん似なんだね」と言われることがコンプレックスになっていたことも、私が父を嫌う材料の一つになっていた気もする。
兄の初恋の相手は奈津だと思う。ずっと奈津のことが気になっていた兄は、なんとか奈津の前でイイトコを見せようと頑張っていたが、いつも裏目に出ていた。
小学校の低学年のころ、近所にセミを捕まえに行こう!ということになった私たちは、虫網と虫かごをもって公園に出かけた。
鳴き声を頼りにセミを探す4人。
「あ、いたよ!」真っ先にセミを見つけて木の上の方を指さす亜紀。
「よし!オレとナツにまかせろ!」とまるで隊長気どりの兄。
「マリとアキはチビだから、ここでじっとしてて!」と言うと
忍び足でセミのいる木に近寄り、思い切り虫網を振り上げた。
ジジジッ!と兄の虫網を躱すセミ。
カウンター気味にセミのおしっこをかけられ、尻もちを搗(つ)く兄。
「つべた!」
「アハハハ!きたなーい!」大笑いする奈津。
「ヒカルクンだめじゃーん!」亜紀にまでいじられる兄。
口をとんがらせて、むくれる兄の顔は滑稽だった。
「ひょっとこみたーい」と私が言うと、さらに口をとんがらせて変顔をする兄。
「アハハハ!」
女子3人に笑いものにされ
「このー!」と言って、何故か奈津だけを追いかけまわす兄。
「まてー!」
「ヤッダヨー!アハハハハ!」
公園に響く子供のはしゃぎ声は、セミの鳴き声をかき消していた。
まだ幼い頃の兄はいじわるで、よく私のことをいじめていた。
兄にいじめられて泣いている私に、母は毎回諭すように言っていた。
「お兄ちゃんは真理のことが大好きすぎるんだね。でもそれをうまく伝えられないから、ついつい苛めちゃうんだよ。悪気はないんだろうからゆるしてあげな。」
はじめのうちは母の言葉を真に受けて、お兄ちゃんは私のこと大好きすぎるんだ・・・と思い込むようにして我慢していたが、だんだん辛くなってきた。ある時、父に涙ながらに言いつけたことがあった。
父は兄を捕まえると両足首を持って逆さに吊るし、2階の窓から突き出した。
「まだ妹をいじめるか?」
兄は恐怖に引きつりながら号泣し、何度も謝り、許しを請う。
「真理をいじめるやつは死刑だ!」
「ちょっとやりすぎだよ!」と割って入る母の声で我に返った父は、ようやく兄を引き戻した。
ほぼ虐待ともいえる折檻。
激しく怯えて号泣している様子に、さすがの父もやりすぎたと思ったのか、父は大きな両手で兄の頬を包み込んで言った
「男がいつまでもメソメソ泣いてるんじゃない!たった二人の兄妹なのに兄貴が妹を守れなくてどうする!お前が真理を守るんだ!今度いじめたら許さないからな!」
そう言ってシャックリが止まらなくなった兄を見下ろすと、下の階に降りていった。
それ以来、兄が私をいじめることはなくなった。
両親の性格の違いが色濃く現れた出来事だった。
幼稚園・小学校といつも一緒にいすぎてなのか、奈津は兄のことを従兄くらいに思っていて、異性としてはほとんど意識していない様子だった。
兄は同級生だった奈津がちっとも自分のことに興味を持つ素振りがないことにショックを受けながらも、何とか気を引こうとちょっかいを出すことがしばしばあったが、可哀そうなことに、まるで相手にされていなかった。
その代わりというわけではないが、妹の亜紀は、光が奈津にばっかりちょっかいを出しているのに嫉妬していた。
・・・なんで光君はお姉ちゃんばっかりで私にかまってくれないの?・・・
いつしか、光が奈津にかまえばかまうほど、亜紀は光のことが気になるという構図が生まれていた。私はまだ、そのことに対して何の関心もなかった。
そんな兄と奈津ちゃんも小学校を卒業し、中学校に通うようになった。
4人で遊ぶことはなくなり接点が減ったことで、二人の関係がどうなっていたかは分からなかった。ただ、時々彼女たちの家に兄が遊びに来ていたということは、亜紀からの情報で聞いていた。
小学校最後の夏休み。その日もまたいつものように、セミの声が音のない午後を埋めていた。
私は亜紀に忘れ物を届けに来ただけだった。
麦茶の入った水筒。亜紀が朝のラジオ体操の後、置き忘れていたやつだ。
ポストの上にあるピンポンを押そうとした瞬間、南側の庭の方から笑い声が聞こえた。
兄の声と・・奈津の声だった。
二人は庭のウッドデッキに並んで腰かけていて、奈津はどこか落ち着かないように身を揺らしていた。
斜め後ろからだったから表情は見えなかったが、兄の耳が赤くなっているのが分かった。
「・・・なあ、なんでそんなに笑うんだよー?」
「だって光、真顔でそんなこと言うんだもん・・」
「いや、まじめに・・・可愛いよ・・奈津・・」
それは、妹の私には向けられたことのないトーンだった。兄は私にそんな声は出したことがなかった。
奈津は揺らしていた体を兄の方に寄せ、兄の肩に顔をもたれかけた。
兄は動かなかった。ただ、そのままの姿勢で空を見上げていた。
・・・私は水筒を握りしめたまま動けなくなっていた。
「・・奈津、、、俺さ、お前といる時が一番落ち着く。」
セミの鳴き声が一層激しくなった時、庭の隅で水筒が落ちた音がした。
驚いてこちらを振り返る二人。
動揺する私。
「あ!これ・・亜紀の忘れ物です・・ここに置いてきます・・」
私は逃げるようにその場を離れた。
私は飴が嫌いだ。
飴を舐める、あのねっとりとした音が、あの夏の日の不快な記憶を引きずり出す。
私は見てしまった。誰にも言えない体育倉庫の・・・。
兄の浮気性は父に似たのかもしれない。
或いは雄という生き物はみんなそうなのかもしれない。
いずれにしても、私にとって父も兄も獣には変わりない。
武闘派だった父に怯え、根性なしに見えた兄が変わったのは私たち母子が家出をした後に思える。
『もうどうにでもなれ!』という開き直りからか、何も怖いものがなくなったかのようだった。兄は不良仲間と喧嘩に明け暮れ、幾度となく修羅場をくぐってきたようだ。何度も警察に補導され、取調室で怖い刑事さんに調書を取られていた。そんなことを繰り返すうちに、肝が据わり、少々のことで動じなくなっていた。中学校では最上級生となり校内では誰にも媚びることはなく、兄に歯向かう者はいなくなっていた。
そんな兄をかっこいいと言う盲目な後輩女子たち。
どこがいいんだろう、あんな人の。
私は偶然見てしまった。
亜紀が体育倉庫に入って行くのを。
何でこんな時間に体育倉庫に行くんだろう?と不思議に思った私は何となく亜紀の後を追うように、体育倉庫の入口にそっと近寄った。すると、中から「亜紀、こっちこっち!」という聞きなれた声。
何で?お兄ちゃん?
私は直感的に息をひそめた。
忘れ物の水筒を届けに行った時の記憶がフラッシュバックする。
鼓動が早くなり、心臓がバクバクと音を立て、口から出てしまいそうになるのを両手で口を押さえて我慢していると、
「亜紀は可愛いね・・・」とやはり兄の声
のど飴いる?と言って、ペリッと袋を開ける音
「光君って昔からカリンのど飴好きだよね?」
2つ上の不良の先輩を「光君」と呼べるのは、幼馴染の亜紀の特権。
親指と人差し指でつまんだのど飴を亜紀の口に運ぶ光。
とがらせた唇で飴を受け取る亜紀。
もらったのど飴を舐めながら亜紀が上目遣いで光を見つめると
「やっぱり返して」と少しおどける光
「いいよ・・・」甘い声で答える亜紀
尖らせた唇に飴が戻る。
・・・急に話し声が聞こえなくなった。
中の様子が気になりすぎて、思わず体育倉庫の中を覗き見ると、
兄と亜紀は抱きしめあってキスをしていた。
のど飴は二人の口の間を何度も行ったり来たりしていた。
二人は私が覗いていることに気づく様子もなく、夢中で唇を重ねていた。
まだキスの味を知らない私には刺激が強すぎて、血が逆流して顔から火を噴きそうになった。
それ以上その場所に居られなくなり、慌てて体育倉庫から走り去った。
「ん? 今、なんか音した?・・・ま、いっか。」
体育倉庫の情事を隠すようにセミの声が鳴り響いていた。
お兄ちゃんまさか、姉妹で二股!?最っ低!変態!獣!
それ以来私は、兄の顔をまともに見られなくなり、亜紀とも気まずくなった。
亜紀は兄と奈津ちゃんのことは気付いているだろうに・・・。
それとも、もう別れた後?いや付き合っていたのかも不確かだった。
どちらにしても、兄が姉妹双方に手を出していることに変わりはない。
そんな折、さらにショックなカミングアウトがあった。
そこまで仲良しとは言えない同級生の波留が、急に馴れ馴れしく話しかけてきた。
「ねえねえ真理!あんた将来、私の事『お姉さん』って呼ぶ日が来るかもよー?」と自慢げに言うことには、
「松田先輩に思いきって告ったら『付き合ってあげてもいいよ・・・』だってー」
同じようなことを言ってくる同級生が、3か月のうちに3人もいた。
・・・いったい何又かける気なんだろう?・・・
兄の節操のなさと、遊ばれてるのに気付かない馬鹿な同級生。どちらも私にとっては軽蔑の対象にしかならなかった。
●第1章 未熟な魂
両親は私が小学校を卒業する前に離婚し、2歳上の兄と私は母に引き取られ、母子3人で暮らすようになった。十三年間の結婚生活に終止符を打ち、別居することになった当時、兄は多感な中2男子。
『厨二病』『中二病』と言う言葉もあるくらい、思春期真っ只中の兄は、やり場のない感情が制御できず、悪友と夜遅くまで遊び歩いていた。盛り場に行けば喧嘩に明け暮れる毎日。しょっちゅう補導され、警察からかかってきた電話に謝罪している母を見るのが日常茶飯事だった。
初めのころは何事かと少しビクついていた母も、あまりの頻度に慣れてしまい、いい加減に飽き飽きしていた。馬鹿な兄のせいで、母が恥ずかしい思いをしているのがかわいそうだった。私はそんな兄のことを軽蔑していて、ひとつ屋根の下で暮らすのは苦痛だった。
まだ小6だった私は、唐突なことで正常な思考ができる状態ではなかった。母からの証言しか聞いていなかったこともあり、こんなことになったのも全部父のせいと思い込んでいた。私は、いつしか父だけでなく、男性そのものを忌み嫌うようになっていた。
私の気持ちとは裏腹に、小さい頃は私に対して意地悪だった兄が、父に諫められてからは急に意地悪をしなくなった。父と別居するようになってからは更に優しくなり、両親の離婚が成立したころには、私だけでなく私の友達に対してまで優しくなり「いい兄」を演じるようになっていた。しかし、そんな兄の変貌の動機が、下心に満ちた醜悪な欲望によるものだったということに気が付くのに、そんなに時間はかからなかった。
家出同然で別居したとは言っても私たち兄妹はまだ中学生。あまり環境が変わるのはよくないだろうという母の配慮で、同じ学区内のアパートに引っ越した。通学が少し遠くなったのと、部屋が狭くなったこと以外は生活に大きな変化はなかった。
中学校に通うようになったころ、通学路で偶然父に鉢合わせし「元気か?」と声をかけられたことがあった。あまりにも突然のことで、思考停止した私は何と答えていいのか判らず、黙りこくってしまった。結果として父をガン無視してしまった私。無言で立ち去ることしかできず、とても父の顔を見ることはできなかった。
父はどんな表情をしていたのだろうか・・・?
テンパってしまった私は少しの罪悪感と、少しの嫌悪感を感じながらその場から急ぎ足で立ち去った。
父とはそれっきり会っていない。もう顔も忘れた。
離婚すると養育費を払わない父親が多い中、父は毎月決まった日に入金してくれていた。私と兄の誕生月にはプラス10,000円入れてくれていたそうだ。
父と離れて暮らすことになっても、普段からあまり家に居なかった父なので、日常に影響はなかった。ただ、親戚が集まったり、父兄が絡む行事、イベント事になると、父がいなくなったことを実感する。
両親の別居、離婚のおかげで、男に頼らなくても独りで生きていける強い女性になろうという意識が芽生え、中学生になった私は勉強に打ち込んだ。父は学校の成績について、とやかく言う人間ではなかったが
「勉強なんて、やったか、やらなかったかの違いだけ。やれば誰でもできるんだよ。」
と言っていたのを思い出す。また、こうも言っていた・・・
「教科書を読んでから授業を受けてみな。先生は教科書に書いてあることしか言わないから」
そんな雑談の中での父のアドバイスを、父と離れて暮らすようになってから実践するようになる。
前日に教科書を読んでから学校に行くと、皮肉にも父の言った通り、先生は教科書に書いてあることしか言わないことに気が付いた。
予習が習慣となり、私の成績はみるみる上がった。
結果に結び付くとさらに勉強が面白くなり、相乗効果でますます成績が上がった。
トップクラスの成績は父の教えの賜物かもしれない。
だからと言って、父のことを好きになれるわけではないが・・・。
中3になった兄は相変わらず素行が悪く、いわゆる不良だったが、中学生という生き物は何故か男女問わず不良に憧れる節があり、誰にも媚びない姿勢がかっこよく映ったりもする。学校の内外から一目置かれる不良の兄を持つ私は、友達からうらやましがられ、兄を紹介してくれとせがまれることも度々あった。
兄は兄でそんな後輩女子にいい顔がしたかった。学校に持って来てはいけない飴をいつも隠し持っていて、こっそりパスをして人気取りをしていた。馬鹿な同級生は「キャー?」という黄色い声を上げて、兄の投げたカリンのど飴を奪い合う。「先輩!私もくださーい!」と催促する姿は、エサを待つ雛の様。
そんな同級生を蔑む私をよそに、兄は「真理と仲良くしてあげてネ!」と軽く手を振って得意げにその場を去って行った。
兄のファンだという同級生から
「松田先輩かっこいいよね~。真理がうらやましいよ!」と言われることもあったが、兄の裏の顔を知っている私は「やめといたほうがいいよ」と忠告するのが常。
盲目の同級生はまともに取り合わず、「そんなこと言わないで、今度真理の家に遊びに行ってもいい?」と、まったくひるむ様子がない。私はそんな同級生に対して一々回答はせず、適当にあしらい、まともに相手にはすることなかった。
同級生の亜紀には二歳上の姉・奈津がいた。兄と奈津は同級生。私を含めた4人は幼馴染で、ずっと近所に住んでいたから父親同士も自治会の絡みで親交があり、家族ぐるみで仲良くしていた。小さい頃は4人で一緒にお風呂に入ったり、一緒にお昼寝したこともある。奈津も亜紀も美人のお母さんに似て、きれいな顔立ち。まだあどけなさは残っているものの、将来有望な、かわいらしい姉妹だった。
私はどちらかというと父に似てしまったため、私もお母さんに似たかったな・・・と少し羨んだ。
「真理ちゃんはお父さん似なんだね」と言われることがコンプレックスになっていたことも、私が父を嫌う材料の一つになっていた気もする。
兄の初恋の相手は奈津だと思う。ずっと奈津のことが気になっていた兄は、なんとか奈津の前でイイトコを見せようと頑張っていたが、いつも裏目に出ていた。
小学校の低学年のころ、近所にセミを捕まえに行こう!ということになった私たちは、虫網と虫かごをもって公園に出かけた。
鳴き声を頼りにセミを探す4人。
「あ、いたよ!」真っ先にセミを見つけて木の上の方を指さす亜紀。
「よし!オレとナツにまかせろ!」とまるで隊長気どりの兄。
「マリとアキはチビだから、ここでじっとしてて!」と言うと
忍び足でセミのいる木に近寄り、思い切り虫網を振り上げた。
ジジジッ!と兄の虫網を躱すセミ。
カウンター気味にセミのおしっこをかけられ、尻もちを搗(つ)く兄。
「つべた!」
「アハハハ!きたなーい!」大笑いする奈津。
「ヒカルクンだめじゃーん!」亜紀にまでいじられる兄。
口をとんがらせて、むくれる兄の顔は滑稽だった。
「ひょっとこみたーい」と私が言うと、さらに口をとんがらせて変顔をする兄。
「アハハハ!」
女子3人に笑いものにされ
「このー!」と言って、何故か奈津だけを追いかけまわす兄。
「まてー!」
「ヤッダヨー!アハハハハ!」
公園に響く子供のはしゃぎ声は、セミの鳴き声をかき消していた。
まだ幼い頃の兄はいじわるで、よく私のことをいじめていた。
兄にいじめられて泣いている私に、母は毎回諭すように言っていた。
「お兄ちゃんは真理のことが大好きすぎるんだね。でもそれをうまく伝えられないから、ついつい苛めちゃうんだよ。悪気はないんだろうからゆるしてあげな。」
はじめのうちは母の言葉を真に受けて、お兄ちゃんは私のこと大好きすぎるんだ・・・と思い込むようにして我慢していたが、だんだん辛くなってきた。ある時、父に涙ながらに言いつけたことがあった。
父は兄を捕まえると両足首を持って逆さに吊るし、2階の窓から突き出した。
「まだ妹をいじめるか?」
兄は恐怖に引きつりながら号泣し、何度も謝り、許しを請う。
「真理をいじめるやつは死刑だ!」
「ちょっとやりすぎだよ!」と割って入る母の声で我に返った父は、ようやく兄を引き戻した。
ほぼ虐待ともいえる折檻。
激しく怯えて号泣している様子に、さすがの父もやりすぎたと思ったのか、父は大きな両手で兄の頬を包み込んで言った
「男がいつまでもメソメソ泣いてるんじゃない!たった二人の兄妹なのに兄貴が妹を守れなくてどうする!お前が真理を守るんだ!今度いじめたら許さないからな!」
そう言ってシャックリが止まらなくなった兄を見下ろすと、下の階に降りていった。
それ以来、兄が私をいじめることはなくなった。
両親の性格の違いが色濃く現れた出来事だった。
幼稚園・小学校といつも一緒にいすぎてなのか、奈津は兄のことを従兄くらいに思っていて、異性としてはほとんど意識していない様子だった。
兄は同級生だった奈津がちっとも自分のことに興味を持つ素振りがないことにショックを受けながらも、何とか気を引こうとちょっかいを出すことがしばしばあったが、可哀そうなことに、まるで相手にされていなかった。
その代わりというわけではないが、妹の亜紀は、光が奈津にばっかりちょっかいを出しているのに嫉妬していた。
・・・なんで光君はお姉ちゃんばっかりで私にかまってくれないの?・・・
いつしか、光が奈津にかまえばかまうほど、亜紀は光のことが気になるという構図が生まれていた。私はまだ、そのことに対して何の関心もなかった。
そんな兄と奈津ちゃんも小学校を卒業し、中学校に通うようになった。
4人で遊ぶことはなくなり接点が減ったことで、二人の関係がどうなっていたかは分からなかった。ただ、時々彼女たちの家に兄が遊びに来ていたということは、亜紀からの情報で聞いていた。
小学校最後の夏休み。その日もまたいつものように、セミの声が音のない午後を埋めていた。
私は亜紀に忘れ物を届けに来ただけだった。
麦茶の入った水筒。亜紀が朝のラジオ体操の後、置き忘れていたやつだ。
ポストの上にあるピンポンを押そうとした瞬間、南側の庭の方から笑い声が聞こえた。
兄の声と・・奈津の声だった。
二人は庭のウッドデッキに並んで腰かけていて、奈津はどこか落ち着かないように身を揺らしていた。
斜め後ろからだったから表情は見えなかったが、兄の耳が赤くなっているのが分かった。
「・・・なあ、なんでそんなに笑うんだよー?」
「だって光、真顔でそんなこと言うんだもん・・」
「いや、まじめに・・・可愛いよ・・奈津・・」
それは、妹の私には向けられたことのないトーンだった。兄は私にそんな声は出したことがなかった。
奈津は揺らしていた体を兄の方に寄せ、兄の肩に顔をもたれかけた。
兄は動かなかった。ただ、そのままの姿勢で空を見上げていた。
・・・私は水筒を握りしめたまま動けなくなっていた。
「・・奈津、、、俺さ、お前といる時が一番落ち着く。」
セミの鳴き声が一層激しくなった時、庭の隅で水筒が落ちた音がした。
驚いてこちらを振り返る二人。
動揺する私。
「あ!これ・・亜紀の忘れ物です・・ここに置いてきます・・」
私は逃げるようにその場を離れた。
私は飴が嫌いだ。
飴を舐める、あのねっとりとした音が、あの夏の日の不快な記憶を引きずり出す。
私は見てしまった。誰にも言えない体育倉庫の・・・。
兄の浮気性は父に似たのかもしれない。
或いは雄という生き物はみんなそうなのかもしれない。
いずれにしても、私にとって父も兄も獣には変わりない。
武闘派だった父に怯え、根性なしに見えた兄が変わったのは私たち母子が家出をした後に思える。
『もうどうにでもなれ!』という開き直りからか、何も怖いものがなくなったかのようだった。兄は不良仲間と喧嘩に明け暮れ、幾度となく修羅場をくぐってきたようだ。何度も警察に補導され、取調室で怖い刑事さんに調書を取られていた。そんなことを繰り返すうちに、肝が据わり、少々のことで動じなくなっていた。中学校では最上級生となり校内では誰にも媚びることはなく、兄に歯向かう者はいなくなっていた。
そんな兄をかっこいいと言う盲目な後輩女子たち。
どこがいいんだろう、あんな人の。
私は偶然見てしまった。
亜紀が体育倉庫に入って行くのを。
何でこんな時間に体育倉庫に行くんだろう?と不思議に思った私は何となく亜紀の後を追うように、体育倉庫の入口にそっと近寄った。すると、中から「亜紀、こっちこっち!」という聞きなれた声。
何で?お兄ちゃん?
私は直感的に息をひそめた。
忘れ物の水筒を届けに行った時の記憶がフラッシュバックする。
鼓動が早くなり、心臓がバクバクと音を立て、口から出てしまいそうになるのを両手で口を押さえて我慢していると、
「亜紀は可愛いね・・・」とやはり兄の声
のど飴いる?と言って、ペリッと袋を開ける音
「光君って昔からカリンのど飴好きだよね?」
2つ上の不良の先輩を「光君」と呼べるのは、幼馴染の亜紀の特権。
親指と人差し指でつまんだのど飴を亜紀の口に運ぶ光。
とがらせた唇で飴を受け取る亜紀。
もらったのど飴を舐めながら亜紀が上目遣いで光を見つめると
「やっぱり返して」と少しおどける光
「いいよ・・・」甘い声で答える亜紀
尖らせた唇に飴が戻る。
・・・急に話し声が聞こえなくなった。
中の様子が気になりすぎて、思わず体育倉庫の中を覗き見ると、
兄と亜紀は抱きしめあってキスをしていた。
のど飴は二人の口の間を何度も行ったり来たりしていた。
二人は私が覗いていることに気づく様子もなく、夢中で唇を重ねていた。
まだキスの味を知らない私には刺激が強すぎて、血が逆流して顔から火を噴きそうになった。
それ以上その場所に居られなくなり、慌てて体育倉庫から走り去った。
「ん? 今、なんか音した?・・・ま、いっか。」
体育倉庫の情事を隠すようにセミの声が鳴り響いていた。
お兄ちゃんまさか、姉妹で二股!?最っ低!変態!獣!
それ以来私は、兄の顔をまともに見られなくなり、亜紀とも気まずくなった。
亜紀は兄と奈津ちゃんのことは気付いているだろうに・・・。
それとも、もう別れた後?いや付き合っていたのかも不確かだった。
どちらにしても、兄が姉妹双方に手を出していることに変わりはない。
そんな折、さらにショックなカミングアウトがあった。
そこまで仲良しとは言えない同級生の波留が、急に馴れ馴れしく話しかけてきた。
「ねえねえ真理!あんた将来、私の事『お姉さん』って呼ぶ日が来るかもよー?」と自慢げに言うことには、
「松田先輩に思いきって告ったら『付き合ってあげてもいいよ・・・』だってー」
同じようなことを言ってくる同級生が、3か月のうちに3人もいた。
・・・いったい何又かける気なんだろう?・・・
兄の節操のなさと、遊ばれてるのに気付かない馬鹿な同級生。どちらも私にとっては軽蔑の対象にしかならなかった。



