●第6章 初詣
日本でも明治時代初期までは事実上の一夫多妻制が認められていたが、明治31年(1898年)の民法改正で一夫一妻制が法的に明文化された。
現行法では
「結婚」とは、法律的に夫婦となることで、婚姻届を提出し、戸籍上の夫婦となることを指す。
これにより、法的な権利や義務が発生し、社会的に認められた夫婦関係となる。単なる恋愛関係とは異なり、共同生活や扶助義務、相続などの権利義務が生じる。
配偶者のある者が重ねて婚姻をした場合、重婚罪として刑法第184条で、2年以下の懲役刑に処せられる。ただし、内縁関係は、法律上の婚姻関係がないため、重婚罪の対象とはならない。
?夫婦には、互いに協力して助け合いながら生活しなければならないという協力義務と扶助義務があるため、それを維持するために、夫婦関係の平穏、つまり「不貞行為」をせずに添いとげるという約束が欠かせない。
「不倫」は刑法上の罰則はなく犯罪には当たらないが、民事上の「不法行為」にあたり、被害者に生じた損害を賠償しなければならない。不倫の場合、被害者とは配偶者のことになる。
陸は考えていた。
法律的に夫婦になることの意味を。
子供ができたとはいえ、巌の許しがないと梨乃と結婚をするのも叶わない。
そこを逆手に取れば、流美と一緒に居ながら、梨乃と生まれてくる子供の面倒を見ることも事実上は可能。あくまでも流美の了解が前提だが。
いずれにしても、巌がステージに上がらないことには試合は始まらない。
一旦梨乃の実家を訪ねたことで、誠意は示した。
不誠実なのはドタキャンの巌。
「アドバンテージはこちらにある」と陸は踏んでいた。
名古屋に戻った陸と流美は、年明けに伊勢神宮に初詣に行った。
手を繋いで参道を歩く二人の後ろを、初詣ツアーの客がツアコンの後に連なっている。
「伊勢の神宮は御祭神が天照大神様です。女性の神様ですから夫婦や恋人同士でお参りすると神様が嫉妬して二人の仲がうまくいかなくなる。という事も昔から言われております・・・。」
・・・おいおい、カップルの後ろでなんてガイドするんだよ!
内心嫌な気分になる二人。
「嫌な話するガイドだね?」
「気にしてないし、気にすることないよ。」
つないだ手をほどき、陸の腕に絡みつく流美。
喜ぶ陸。喜びついでに、リクペディアが炸裂する。
「昔、外宮と内宮の間に古市ていう遊郭があって、全国的に有名な大歓楽街だったんだよ。
夫婦やカップルで来てるのに男性一人で遊郭に行くというのはあまり考えられないから、そんな噂を流して男性が一人で参拝する理由を創っただけなんだ。男性一人で、お伊勢参りに来て、お金を落としていってくれた方が遊郭にとっては都合がいいでしょ?」
「アハハハ、流石、陸!伊達に観光ガイドのバイトしてないね!」
「してねーよ!」
小ネタはちょうどいい暇つぶしになる。
実際、女人禁制の山岳地帯ではよく聞く話だが、皇祖神であり、太陽になぞらえるほど広く高い徳を持った女神様である天照大神は「古事記」「日本書紀」を読み込んでみても、男女仲に嫉妬するという性格は見あたらない。
砂利の敷き詰められた参道を進み、やっとのことで正宮の皇大神宮に辿り着いた。
伊勢神宮には賽銭箱はない。木製の柵の内側に向かって賽銭を投げ二人は手を合わせた。
・・・この人と出逢わせてくれてありがとうございます・・・
・・・ずっと一緒に居られますように・・・
社務所の近くで温かい甘酒を飲み、おみくじを引く陸。
「よっしゃ大吉!」
ガッツポーズをする。
「すごいじゃん!見せて見せて!」
食い入るようにおみくじを覗き込む流美。
顔が近い。
第九番【運勢・大吉】
願事 叶い難い様ですが半より案外安く叶う
待人 音信あり 早く来る
失物 出ず 遅ければなし
旅行 計画を十分に立てよ
商売 利あり 売るによし
学問 安心して勤勉せよ
相場 売れ 待てば損
争事 勝つ 気長く思え
恋愛 愛情を捧げよ
転居 よきところ安心せよ
出産 安し 後を気をつけよ
病気 重くない癒る
縁談 他人の言動にまどわされるな
無言でおみくじを目で追う二人。
「流美さんは引かないの?」
「あ、私はいいの、そういうの信じないから・・・」
本当は怖かった・・・
女の勘は鋭い。嫌な予感がしていた。
流美の予感は的中する。
陸の携帯に梨乃からメッセージが届いた。
《この間はゴメン。もう一度来られる?お父さん今度は会うって言ってくれた。》
流美は胸騒ぎがした。
3月の18・19が土日で21が春分の日だった為、20の月曜日を代休消化にして4連休にした。
前回は流美と一緒だったこともあり、新宿に顔を出していなかったこともあり、今回は久しぶりに歌舞伎町で飲んでから群馬に行くことにしていた。
週末はいつも通り流美と過ごし、日曜の新幹線で東京に行き、その夜Barパスポートのかつての指定席に陸は座った。
「りっくん、久しぶりだね。元気だった?」
「とりあえず生で乾杯しようか、浜ちゃんも何か飲んで」
バーテンダーの浜田は
「ありがとう。じゃあ一杯いただくね」と言って、キンキンに冷えた生ビールを注いだグラスを2つ持ってきた。1つ目のグラスを陸の前のコースターに置き、自分のグラスを少し下げ、縁を陸のグラスに軽く当てて乾杯をした。
「りっくん、おかえりー!」
一気に飲み干す二人。
「あーうまい!今日みたいな日は冷えた生に限るね!2杯目はどうする?」
「懐かしいな、1年前と何も変わってない」
「ハーパー水割りで」
「仁のボトルあるよ?」
「いや、流石に悪いだろ!」
「どうせこの後来るから大丈夫だよ!」適当なことを言う浜田。
棚から「I・Wハーパーゴールドメダル」を取ると、
「これ見てよ!ヤバいでしょ?」
と赤ちゃんのスタイの様にネックにぶら下がってるボトルキープタグを見せた。
新しいボトルを入れるたびに1つタグが付く。10枚貯めるとハウスボトル1本サービスか5000円の支払いとして使えるという昔ながらのシステムだった。
去年、陸の送別会の3次会の時に13枚目をぶら下げて、弟のように可愛がっていた同じ営内班の後輩の仁と長谷に
「好きな時に使っていいから・・・」と言って引き継いだボトル。
律儀な仁と長谷はボトルキープタグを頑なに使わなかった。
「あいつら『武村士長が来た時にしか使いません!』と言って使わないんだよ。」
タグの【SANPAN】の文字を懐かしく眺める陸。
第3営内班・・・サンパン・・・
「泣かせるじゃねーか、バカどもが!」と言って電話をする陸の表情は少し嬉しそう
「おう、仁、久しぶり!元気か?」
「武村士長!お久しぶりです!どうしたんですか?」
懐かしい声
「ああ、ちょっと野暮用で・・今新宿なんだけど来れるか?」
「すみません。明日まで長谷と当直です。明日下番なんで、明日なら行けますよ。」
「そっか、じゃあ明日にするか。用事済ませたらまた来るよ。明日また連絡する。お疲れ!」
電話を切ると目の前にアイスセットとバーボンの水割りが置かれていた。
浜田と談笑しながら1/3程残っていたボトルを空けた陸。
ニューボトルを追加し33枚目の【SANPAN】をボトルネックに掛け、封を開けずに会計をした。
地下鉄を乗り継ぎ、浅草に行きカプセルホテルに泊まった。
東武鉄道の特急りょうもう号で群馬の館林に行くルートを取るために。
浅草から館林まで直通65分。朝ゆっくりできるからだ。
3月20日の朝、カプセルホテルを出た陸は、余裕をもって東武線の浅草駅に行き北口のコンビニでサンドイッチと飲み物を買った。券売機でりょうもう号のチケットを買い列車に乗り込んだが、なにやらダイヤが乱れているらしい。
少し遅れて出発したりょうもう号は11時過ぎに館林に到着予定。
陸から連絡のあった梨乃は志津の運転で館林駅に迎えにいく車の後部座席にいた。
その日は朝からどのチャンネルの報道も地下鉄駅構内で発生したテロの速報一色。
初めは情報が混乱していて、爆発物を使用した未曽有の「ゲリラ事件」として報じられていた。
都内上空は何基もヘリコプターが飛び回り、異様な緊張感に包まれていた。
当日の朝、昼前には着くと聞いていた梨乃は都内を抜けてくる陸を心配しながら駅に向かっていた。
名古屋で朝からニュースを見ていた流美も都内に居る陸を心配するあまり、独りで行かせたことを後悔していた。・・・一緒に行けばよかった・・・お願い、無事でいて!
りょうもう号が館林に到着する少し前、警視庁は記者会見で
「サリンを使った犯行の可能性が高い」と発表した。
世界で初めて化学兵器を使用した同時多発の無差別テロ。
日比谷線が2、千代田線が1、丸ノ内線が2と、計5つの電車で凶行に及び
死者14名、負傷者6,300名を出した戦後最大のテロは、
後に「地下鉄サリン事件」と呼ばれる。
当直を下番した仁から陸に電話が入る。
「武村士長、最悪です。非常呼集掛かっちゃいました。」
「何があった?」
「テロです。毒ガステロ。先発隊はもう出てます。」
「そうか、じゃあ新宿はお預けだ。気を付けてな!」
「今、都内は危ないから来ない方がいいですよ!」
「分かった。ありがとう!」
電話を切るなり、陸は流美に電話した。
「もしもし、陸!無事なの?」
「はい、問題ないです。毒ガステロらしいと、32連隊の後輩から聞いたけど、
もうすぐ無事に館林に着くから心配しないで・・・」
「よかった・・・」
ほっとした流美の頬を涙が伝った。
電車が駅に到着して、改札を抜けると駅のロータリーで赤いPassoが待っていた。
「助手席乗ってください」
「すみません、お義母さん」
市街地から少し離れればもう田舎。田園を抜けて2度目の梨乃の実家。
日本武道館でやった空手の試合より緊張していた。
玄関の引き違い戸が前回よりも重く感じる。
「陸さ、何度もすんませんな。さ、お上がりくだせ。」
梅が出迎えてくれた。
「これ、つまらないものですが・・・」
「いつも、すんません。」
手土産を仏さまに上げに行ったあと、玄関横の和室に行くよう促される。
年季のはいった大きなテーブルを3人で囲み、志津が巌を呼びに行った。
「・・・ごめんね、何度も。」
「まあ、仕方ないよ」
襖が開き、短い白髪、白い口髭を蓄えたガタイのいい初老の男が現れた。
男の後から志津が入ってきて襖を閉める。
威圧感のある男。空気が重い。
「今お茶入れますから、つまんでください」
と、せんべいの入った菓子器をテーブルの真ん中に置くと、志津はお茶を淹れ始めた。
「初めまして。武村陸です。」
「うむ。松田巌です。」
「・・・」
「・・・」
「で、どう考えてるんだ?」巌が口を開く。
「どうとは?」
「遊びに来たわけじゃねえだろ?」
「ちょっと、お父さんそんな言い方、、、」志津が諫めようとすると
「てめえは黙ってろ!」
「巌!お客さんの前だ!」梅が諫める。
「・・・」
「・・・」
「梨乃の腹に子供がいる事は聞いてるな?」
「はい。」
「どうすんだ?」
「子は宝と思ってます。逆にお義父さんはどう考えてるんですか?」
「んぐ!質問してんのはこっちなんだよ!」
「お父さん!」梨乃が制する。
「お前は黙ってろ!」
「梨乃が産んでくれるなら産んでもらいたいです。」
「まだ結婚もしてねえじゃねえか!人んちの娘、傷物にしやがって!」
「傷物って何ですか?」
「んぐ!ああ言えばこう言う!喧嘩売ってんのかお前!」
「ちょっと、お父さんそんな言い方、、、」志津が諫めようとすると
「巌!お前は何もかもぶち壊すつもりか?」梅が怒る。
「この間も陸さが来てくれたのに勝手に出かけやがって!この馬鹿垂れが!」
「この間は、親父と藤田さんの命日だったって・・・」
「言い訳はいいから、ちゃんと話し合え!」
「ふん!」腕組みをして目をつむる巌。
「・・・」
「・・・」
「わしの条件は2つだ。
自衛隊を辞める。北関東に住む。
そしたら梨乃をやる。」
「・・・分かりました。今直ぐにとはいきませんが、そう出来るようにします。」
「うむ。」
「じゃあ、そういう事で、お昼にしましょうか」
志津がまとめる。
一件落着と思われた面談だったが、夕方巌が陸を呼びに来て、飲みに誘った。
男だけ、サシで話がしたいという事だった。
二人だけで出かける巌と陸。
梨乃は不安で眠れなかった。
深夜に帰宅した巌と陸。
志津もまだ起きていて、陸を梨乃の部屋に案内した。
二人分の布団が敷いてあり、梨乃もまだ起きていた。
「どうだった?」
「飲まされて。喰わされた。」
「え?」
男は酒が飲めなきゃだめだ!と日本酒を何杯も注がれ、つまみにはあんまりお目にかかれない所謂ゲテモノばかりを食べさせられた。ゲテモノ料理は高級食材を扱う割に、需要が多くない為、都内の専門店でもない限り一般のお店ではなかなか見かけることは少ない。田舎の居酒屋では尚のことだ。
巌が旧知の店のオーナーに無理に依頼して、この日の為に取り寄せさせたものだった。
「いわ鬼」の頼みを断れない店のオーナーは必死になって食材を集めたようだ。
雀の丸焼きから始まり、蛇やカエル、セミ、コオロギ、山椒魚、ワニの手まで、、、臆すること平らげる陸を巌は気に入った。
巌の「テスト」だったのだ。
何でも食べられる奴の方が生き残れる。巌の哲学だった。
翌朝、巌は用意してあった婚姻届けにサインするよう陸と梨乃に指示をした。
子供のこともあるから、籍ぐらいさっさと入れておけ!と言う事だった。
婚姻届けの保証人欄には筆で豪快に「松田巌」と書いてあり、実印が押されていた。
断る理由の無くなった陸はサインするしかなかった。
・・・流美・・・ごめん・・・
成り行きとはいえ、強引に入籍させられることになった陸の肩は重かった。
「新しい住所が決まったら教えろよ。こっちで記入して出しとくから。
印鑑は実印と銀行印セットのやつを新しく作ってプレゼントしてやる。
それで押しとくから心配するな。」
・・・もう印鑑の意味がない・・・
こうして、陸と梨乃は翌月、書類上の婚姻関係を結ぶことになる。
巌は満足していた。陸が自分の手の平に乗った様に見えたことで。
・・・陸、ごめん・・・
なし崩し的に入籍を進めた梨乃は、誰にも言えない秘密を心の奥にしまい込み鍵をかけた。
●第7章 真実の愛の理
名古屋に戻った陸は先ず流美の部屋に行き、彼女を抱きしめた。
陸の無事に安堵した流美はホッとしたのもつかの間、事の顛末を聞いて狼狽した。
「何でそうなるの!」
「ごめん、結局向こうのペースに乗せられて・・・」
「・・・」
「でも、俺は流美さんと離れられない・・離れたくない・・・」
「分かった。明日から仕事なんだから、今日はもう休みましょう」
久しぶりに会った遠距離恋愛中のカップルの様に、二人は愛し合った。
何度もお互いの名前を呼びながら。
翌週、二人は不動産屋に行き、取り急ぎ2DKのアパートを探した。
繁忙期ですぐに見つかるか不安だったが、運よく偶然キャンセルになったばかりの適当な物件を紹介され、その日のうちに内見をした。
若い二人がこれから一緒に住むものだと誤解した不動産屋は
「これから一緒に住まれるんですか?いいですねー!」と無神経にきいた。
「まあ、そんなもんです」
テンションの低い二人を怪訝そうな目で見た。
・・・なにやら「訳あり」っぽいから余計なことを言うのはやめよう・・・
陸にとっては隠れ蓑程度にしか思っていない物件探し。
最低限の条件さえ整っていれば、どこでもよかった。
なし崩し的な入籍の為の新居は名鉄瀬戸線・矢田駅徒歩7分の2階の部屋に決まった。
おしゃれな外観で比較的新しい部屋に引っ越すのは、普通であればワクワクするものなのだろうが、本籍がまだ実家だった陸にとっては新たな本籍取得のための一手でしかなかった。
この部屋を選んだ1番の理由は流美の部屋との距離感。徒歩でも9分、自転車を使えば3分で流美に会いに行ける。そして何より、高層階の流美の部屋から新居の窓が見える。当然陸の部屋から流美の部屋も見えるという事だった。
近過ぎず遠すぎず、絶妙な距離感。そういった意味では奇跡の物件だったのかもしれない。
新しい住所を群馬の梨乃に伝え、梨乃から報告を受けた巌がその住所を婚姻届けに記載し、次の日簡易書留で名古屋の守山区役所に郵送した。
法的には梨乃と夫婦になった陸だったが、出産を控えた梨乃がまだ越してこないため、遠距離継続中だった。ゴールデンウイークを利用して営外者(駐屯地外に居住する自衛官)となった陸は、以前より頻繁に流美の部屋へ行くようになり、事実上は流美との関係の方がよっぽど自然な夫婦っぽかった。
入籍から4か月後、梨乃は実家のある群馬の産婦人科で長男を出産することになる。
出産予定日からずれることなく産気づいた梨乃は、母の志津の付き添いで通っていた産婦人科へ向かった。
夏季休暇の前で、休みづらいタイミングではあったが、初めての子供と言うことで休暇を許可された陸は、新幹線で群馬へ向かう。
・・・名前どうしよう・・・
流美との疑似新婚生活にうつつを抜かし、新しく生まれてくる子供の名前を考えるのを先延ばしにしていた陸は
「顔見てから決めよう」と開き直った。
館林駅に着いた陸を巌が軽トラックで迎えに来てくれた。
「元気にしとったか?」
「はい、おかげさまで・・・」
「名前はもう決めたのか?」
「いえ、候補はあるんですが、顔を見て決めようかと・・・」
「そうか、名前と言うのは生まれてきた子供に、親が一番初めにやる贈り物だ」
「はい」
「いい名前にしてやれよ!」
「もちろんです・・・」
国道354号を西に向かった右側にレディースクリニックがあり、巌はだだっ広い駐車場に適当に止めると
「まだ生まれてはないと思うから、とりあえず見に行くか!」と言って2階ロビーへ上がった。
難産だった。
破水してから24時間以上経っていたが、一度来たはずの陣痛が収まってしまい、母体の体力だけを奪っていた。帝王切開という選択肢もあったが、腹にメスを入れたくない梨乃はそれを拒否した。
結局陣痛促進剤を打ち、人工的に起こした陣痛を手伝う様に吸引分娩で何とか出産した。
新生児仮死状態で生まれてきた新生児は、黄疸とチアノーゼが出ており、鳴き声がしない。
医師と看護師の懸命の措置で、息を吹き返した新生児は念のため、総合病院に移送された。
「お父さん、お母さん、念のための転院で、あくまで検査入院なので心配しないで下さい!
吸引分娩しましたので、頭が少し伸びてますが、そのうち戻りますから、こちらも心配いりませんからね・・・」
医師の説明はあったが、梨乃は心配で涙が止まらなかった。
・・・私のせいで、罰が当たったんだ・・・
梨乃は名前を考える余裕すらなかった。
「りっくん、名前どうしよう?」
「【光・ひかる】なんてどう?一隅を照らすような光になって欲しいという願いを込めて」
「いいね、光」
「じゃあ決まり!名古屋に戻ったら出生届けだしとくよ。」
・・・流美・・・LUMI・・・光・・・
陸にしか解けない暗号、「LUMI」・・・ラテン語で「光」
愛する人を連想する名前を付けた方が、子供の事を愛せそうな気がしていた。
梨乃は光を出産後3か月は群馬に居たが、12月に入って母子は名古屋に引っ越した。
孫可愛さに、巌の追及が厳しくなる。
「いつ自衛隊止めて、北関東に来るんだ?」
巌はことあるたびに陸を追求した。
15ケ月名古屋で二重生活を送った陸は3任期満了に合わせて自衛隊を退職し、東部方面隊に転属希望を出した流美は時を同じくして関東に移住する。
特別職国家公務員という身分を捨てた陸は「衣食住」にかかわる仕事に着けば喰いっぱぐれないだろう・・・と考え、住宅関係の仕事を選んだ。マンションデベロッパーで営業としてマンションを販売する仕事だ。「圧倒的ブラック」というのが大げさではない業界だった。
新卒入社の社員の半数は3か月も持たない。陸は新隊員教育隊を思い出し、重ねていた。
陸は経験から知っていた。物事を成し遂げるのは「力」ではなく、必ずやり遂げるという「決心」だということを。
中途入社ながら、上司に認められた陸は順調に出世する。
埼玉県の蓮田市で再び二重生活を始めた流美のお腹には新しい生命が宿っていた。
東京都の世田谷区と目黒区にまたがる三宿地区。三宿駐屯地の敷地内にある自衛隊中央病院は陸海空の自衛官だけでなく、一般の患者も受診することが出来る。総合病院並みの診療科を具えた自衛隊中央病院は自衛官にとっては安心できる馴染みの病院で通称「中病」と呼ばれる。もちろん産婦人科もあり、ここで出産する自衛官やその家族も少なくない。
臨月に入った流美はヒグラシの鳴き声の響く中、陸の付き添いで定期検診に来ていた。
まだ残暑が厳しく、流美の額の汗をぬぐう陸
「大丈夫、無理しないでね。もう一人の身体じゃないんだから・・・」
月並みのセリフを言う。
1年程前、自宅に流美を連れて行き、名古屋に梨乃が来る前から交際していることを自らカミングアウトした陸。厳密には遠距離中の梨乃と破局した直後から流美と交際を始め、そのあとに梨乃の妊娠が発覚したことで、半強制で入籍することになった「成り行き」を理解してもらい、流美との交際を公式に了承してもらうためだ。不法行為も当事者の了解があれば問題にはならないはず。
常識的に見れば、常軌を逸しているように思えるが、「常識」というのは「その人の偏見の収集品」でしかない。了承しなければ「離婚」も厭わないという陸の覚悟を感じた梨乃は、後ろめたさも手伝って、「ちゃんと家に帰ってきてくれる」という条件付きで、渋々了承してくれた。
陸の流美に対する精一杯の誠意だった。
流美は流美で、離婚になった際の慰謝料と養育費を支払う覚悟を持っていた。
流美にとって初めての出産。
愛する陸との間にできた宝物。
真実の愛の結晶。愛の理。
結婚なんていう書類上の儀式など自然界には存在しない。
陸は変わらず愛してくれている。
二人は幸せだった。
そんな、ささやかな幸せを「突然の死」が分かつ。
破水した流美は緊急入院。
体調がすぐれなかったこともあり、疲れていきむのが難しくなってしまった流美。
赤ちゃんを速やかに娩出するために鉗子分娩が行われた。
分娩後の腟壁裂傷による大量出血が原因で流美は帰らぬ人となる。
あまりにもあっけない。命とはこうも儚いものなのか?
陸は泣いた。声がかれても泣き続けた。
流美が命と引き換えに残してくれた「真実の愛の理」
実の父である陸は、病院から引き取った真理を自宅に連れて帰り、自分の子として育てることを梨乃に了承してもらう。
長男の光はまだ2歳になったばかりで物心がついていないのも幸いした。
梨乃にとっては、流美が亡くなったことで、陸を完全に返してもらえるというメリットの方が大きかった。本当はもう一人子供が欲しいところだった梨乃にとって思いがけない拾い物だった。
自分の腹を痛めることなく、可愛らしい赤ちゃんが手に入ったと本気で思っていた。
母性とはすごいものだ。
泣きながら懇願した陸の理解を超えている。
日本でも明治時代初期までは事実上の一夫多妻制が認められていたが、明治31年(1898年)の民法改正で一夫一妻制が法的に明文化された。
現行法では
「結婚」とは、法律的に夫婦となることで、婚姻届を提出し、戸籍上の夫婦となることを指す。
これにより、法的な権利や義務が発生し、社会的に認められた夫婦関係となる。単なる恋愛関係とは異なり、共同生活や扶助義務、相続などの権利義務が生じる。
配偶者のある者が重ねて婚姻をした場合、重婚罪として刑法第184条で、2年以下の懲役刑に処せられる。ただし、内縁関係は、法律上の婚姻関係がないため、重婚罪の対象とはならない。
?夫婦には、互いに協力して助け合いながら生活しなければならないという協力義務と扶助義務があるため、それを維持するために、夫婦関係の平穏、つまり「不貞行為」をせずに添いとげるという約束が欠かせない。
「不倫」は刑法上の罰則はなく犯罪には当たらないが、民事上の「不法行為」にあたり、被害者に生じた損害を賠償しなければならない。不倫の場合、被害者とは配偶者のことになる。
陸は考えていた。
法律的に夫婦になることの意味を。
子供ができたとはいえ、巌の許しがないと梨乃と結婚をするのも叶わない。
そこを逆手に取れば、流美と一緒に居ながら、梨乃と生まれてくる子供の面倒を見ることも事実上は可能。あくまでも流美の了解が前提だが。
いずれにしても、巌がステージに上がらないことには試合は始まらない。
一旦梨乃の実家を訪ねたことで、誠意は示した。
不誠実なのはドタキャンの巌。
「アドバンテージはこちらにある」と陸は踏んでいた。
名古屋に戻った陸と流美は、年明けに伊勢神宮に初詣に行った。
手を繋いで参道を歩く二人の後ろを、初詣ツアーの客がツアコンの後に連なっている。
「伊勢の神宮は御祭神が天照大神様です。女性の神様ですから夫婦や恋人同士でお参りすると神様が嫉妬して二人の仲がうまくいかなくなる。という事も昔から言われております・・・。」
・・・おいおい、カップルの後ろでなんてガイドするんだよ!
内心嫌な気分になる二人。
「嫌な話するガイドだね?」
「気にしてないし、気にすることないよ。」
つないだ手をほどき、陸の腕に絡みつく流美。
喜ぶ陸。喜びついでに、リクペディアが炸裂する。
「昔、外宮と内宮の間に古市ていう遊郭があって、全国的に有名な大歓楽街だったんだよ。
夫婦やカップルで来てるのに男性一人で遊郭に行くというのはあまり考えられないから、そんな噂を流して男性が一人で参拝する理由を創っただけなんだ。男性一人で、お伊勢参りに来て、お金を落としていってくれた方が遊郭にとっては都合がいいでしょ?」
「アハハハ、流石、陸!伊達に観光ガイドのバイトしてないね!」
「してねーよ!」
小ネタはちょうどいい暇つぶしになる。
実際、女人禁制の山岳地帯ではよく聞く話だが、皇祖神であり、太陽になぞらえるほど広く高い徳を持った女神様である天照大神は「古事記」「日本書紀」を読み込んでみても、男女仲に嫉妬するという性格は見あたらない。
砂利の敷き詰められた参道を進み、やっとのことで正宮の皇大神宮に辿り着いた。
伊勢神宮には賽銭箱はない。木製の柵の内側に向かって賽銭を投げ二人は手を合わせた。
・・・この人と出逢わせてくれてありがとうございます・・・
・・・ずっと一緒に居られますように・・・
社務所の近くで温かい甘酒を飲み、おみくじを引く陸。
「よっしゃ大吉!」
ガッツポーズをする。
「すごいじゃん!見せて見せて!」
食い入るようにおみくじを覗き込む流美。
顔が近い。
第九番【運勢・大吉】
願事 叶い難い様ですが半より案外安く叶う
待人 音信あり 早く来る
失物 出ず 遅ければなし
旅行 計画を十分に立てよ
商売 利あり 売るによし
学問 安心して勤勉せよ
相場 売れ 待てば損
争事 勝つ 気長く思え
恋愛 愛情を捧げよ
転居 よきところ安心せよ
出産 安し 後を気をつけよ
病気 重くない癒る
縁談 他人の言動にまどわされるな
無言でおみくじを目で追う二人。
「流美さんは引かないの?」
「あ、私はいいの、そういうの信じないから・・・」
本当は怖かった・・・
女の勘は鋭い。嫌な予感がしていた。
流美の予感は的中する。
陸の携帯に梨乃からメッセージが届いた。
《この間はゴメン。もう一度来られる?お父さん今度は会うって言ってくれた。》
流美は胸騒ぎがした。
3月の18・19が土日で21が春分の日だった為、20の月曜日を代休消化にして4連休にした。
前回は流美と一緒だったこともあり、新宿に顔を出していなかったこともあり、今回は久しぶりに歌舞伎町で飲んでから群馬に行くことにしていた。
週末はいつも通り流美と過ごし、日曜の新幹線で東京に行き、その夜Barパスポートのかつての指定席に陸は座った。
「りっくん、久しぶりだね。元気だった?」
「とりあえず生で乾杯しようか、浜ちゃんも何か飲んで」
バーテンダーの浜田は
「ありがとう。じゃあ一杯いただくね」と言って、キンキンに冷えた生ビールを注いだグラスを2つ持ってきた。1つ目のグラスを陸の前のコースターに置き、自分のグラスを少し下げ、縁を陸のグラスに軽く当てて乾杯をした。
「りっくん、おかえりー!」
一気に飲み干す二人。
「あーうまい!今日みたいな日は冷えた生に限るね!2杯目はどうする?」
「懐かしいな、1年前と何も変わってない」
「ハーパー水割りで」
「仁のボトルあるよ?」
「いや、流石に悪いだろ!」
「どうせこの後来るから大丈夫だよ!」適当なことを言う浜田。
棚から「I・Wハーパーゴールドメダル」を取ると、
「これ見てよ!ヤバいでしょ?」
と赤ちゃんのスタイの様にネックにぶら下がってるボトルキープタグを見せた。
新しいボトルを入れるたびに1つタグが付く。10枚貯めるとハウスボトル1本サービスか5000円の支払いとして使えるという昔ながらのシステムだった。
去年、陸の送別会の3次会の時に13枚目をぶら下げて、弟のように可愛がっていた同じ営内班の後輩の仁と長谷に
「好きな時に使っていいから・・・」と言って引き継いだボトル。
律儀な仁と長谷はボトルキープタグを頑なに使わなかった。
「あいつら『武村士長が来た時にしか使いません!』と言って使わないんだよ。」
タグの【SANPAN】の文字を懐かしく眺める陸。
第3営内班・・・サンパン・・・
「泣かせるじゃねーか、バカどもが!」と言って電話をする陸の表情は少し嬉しそう
「おう、仁、久しぶり!元気か?」
「武村士長!お久しぶりです!どうしたんですか?」
懐かしい声
「ああ、ちょっと野暮用で・・今新宿なんだけど来れるか?」
「すみません。明日まで長谷と当直です。明日下番なんで、明日なら行けますよ。」
「そっか、じゃあ明日にするか。用事済ませたらまた来るよ。明日また連絡する。お疲れ!」
電話を切ると目の前にアイスセットとバーボンの水割りが置かれていた。
浜田と談笑しながら1/3程残っていたボトルを空けた陸。
ニューボトルを追加し33枚目の【SANPAN】をボトルネックに掛け、封を開けずに会計をした。
地下鉄を乗り継ぎ、浅草に行きカプセルホテルに泊まった。
東武鉄道の特急りょうもう号で群馬の館林に行くルートを取るために。
浅草から館林まで直通65分。朝ゆっくりできるからだ。
3月20日の朝、カプセルホテルを出た陸は、余裕をもって東武線の浅草駅に行き北口のコンビニでサンドイッチと飲み物を買った。券売機でりょうもう号のチケットを買い列車に乗り込んだが、なにやらダイヤが乱れているらしい。
少し遅れて出発したりょうもう号は11時過ぎに館林に到着予定。
陸から連絡のあった梨乃は志津の運転で館林駅に迎えにいく車の後部座席にいた。
その日は朝からどのチャンネルの報道も地下鉄駅構内で発生したテロの速報一色。
初めは情報が混乱していて、爆発物を使用した未曽有の「ゲリラ事件」として報じられていた。
都内上空は何基もヘリコプターが飛び回り、異様な緊張感に包まれていた。
当日の朝、昼前には着くと聞いていた梨乃は都内を抜けてくる陸を心配しながら駅に向かっていた。
名古屋で朝からニュースを見ていた流美も都内に居る陸を心配するあまり、独りで行かせたことを後悔していた。・・・一緒に行けばよかった・・・お願い、無事でいて!
りょうもう号が館林に到着する少し前、警視庁は記者会見で
「サリンを使った犯行の可能性が高い」と発表した。
世界で初めて化学兵器を使用した同時多発の無差別テロ。
日比谷線が2、千代田線が1、丸ノ内線が2と、計5つの電車で凶行に及び
死者14名、負傷者6,300名を出した戦後最大のテロは、
後に「地下鉄サリン事件」と呼ばれる。
当直を下番した仁から陸に電話が入る。
「武村士長、最悪です。非常呼集掛かっちゃいました。」
「何があった?」
「テロです。毒ガステロ。先発隊はもう出てます。」
「そうか、じゃあ新宿はお預けだ。気を付けてな!」
「今、都内は危ないから来ない方がいいですよ!」
「分かった。ありがとう!」
電話を切るなり、陸は流美に電話した。
「もしもし、陸!無事なの?」
「はい、問題ないです。毒ガステロらしいと、32連隊の後輩から聞いたけど、
もうすぐ無事に館林に着くから心配しないで・・・」
「よかった・・・」
ほっとした流美の頬を涙が伝った。
電車が駅に到着して、改札を抜けると駅のロータリーで赤いPassoが待っていた。
「助手席乗ってください」
「すみません、お義母さん」
市街地から少し離れればもう田舎。田園を抜けて2度目の梨乃の実家。
日本武道館でやった空手の試合より緊張していた。
玄関の引き違い戸が前回よりも重く感じる。
「陸さ、何度もすんませんな。さ、お上がりくだせ。」
梅が出迎えてくれた。
「これ、つまらないものですが・・・」
「いつも、すんません。」
手土産を仏さまに上げに行ったあと、玄関横の和室に行くよう促される。
年季のはいった大きなテーブルを3人で囲み、志津が巌を呼びに行った。
「・・・ごめんね、何度も。」
「まあ、仕方ないよ」
襖が開き、短い白髪、白い口髭を蓄えたガタイのいい初老の男が現れた。
男の後から志津が入ってきて襖を閉める。
威圧感のある男。空気が重い。
「今お茶入れますから、つまんでください」
と、せんべいの入った菓子器をテーブルの真ん中に置くと、志津はお茶を淹れ始めた。
「初めまして。武村陸です。」
「うむ。松田巌です。」
「・・・」
「・・・」
「で、どう考えてるんだ?」巌が口を開く。
「どうとは?」
「遊びに来たわけじゃねえだろ?」
「ちょっと、お父さんそんな言い方、、、」志津が諫めようとすると
「てめえは黙ってろ!」
「巌!お客さんの前だ!」梅が諫める。
「・・・」
「・・・」
「梨乃の腹に子供がいる事は聞いてるな?」
「はい。」
「どうすんだ?」
「子は宝と思ってます。逆にお義父さんはどう考えてるんですか?」
「んぐ!質問してんのはこっちなんだよ!」
「お父さん!」梨乃が制する。
「お前は黙ってろ!」
「梨乃が産んでくれるなら産んでもらいたいです。」
「まだ結婚もしてねえじゃねえか!人んちの娘、傷物にしやがって!」
「傷物って何ですか?」
「んぐ!ああ言えばこう言う!喧嘩売ってんのかお前!」
「ちょっと、お父さんそんな言い方、、、」志津が諫めようとすると
「巌!お前は何もかもぶち壊すつもりか?」梅が怒る。
「この間も陸さが来てくれたのに勝手に出かけやがって!この馬鹿垂れが!」
「この間は、親父と藤田さんの命日だったって・・・」
「言い訳はいいから、ちゃんと話し合え!」
「ふん!」腕組みをして目をつむる巌。
「・・・」
「・・・」
「わしの条件は2つだ。
自衛隊を辞める。北関東に住む。
そしたら梨乃をやる。」
「・・・分かりました。今直ぐにとはいきませんが、そう出来るようにします。」
「うむ。」
「じゃあ、そういう事で、お昼にしましょうか」
志津がまとめる。
一件落着と思われた面談だったが、夕方巌が陸を呼びに来て、飲みに誘った。
男だけ、サシで話がしたいという事だった。
二人だけで出かける巌と陸。
梨乃は不安で眠れなかった。
深夜に帰宅した巌と陸。
志津もまだ起きていて、陸を梨乃の部屋に案内した。
二人分の布団が敷いてあり、梨乃もまだ起きていた。
「どうだった?」
「飲まされて。喰わされた。」
「え?」
男は酒が飲めなきゃだめだ!と日本酒を何杯も注がれ、つまみにはあんまりお目にかかれない所謂ゲテモノばかりを食べさせられた。ゲテモノ料理は高級食材を扱う割に、需要が多くない為、都内の専門店でもない限り一般のお店ではなかなか見かけることは少ない。田舎の居酒屋では尚のことだ。
巌が旧知の店のオーナーに無理に依頼して、この日の為に取り寄せさせたものだった。
「いわ鬼」の頼みを断れない店のオーナーは必死になって食材を集めたようだ。
雀の丸焼きから始まり、蛇やカエル、セミ、コオロギ、山椒魚、ワニの手まで、、、臆すること平らげる陸を巌は気に入った。
巌の「テスト」だったのだ。
何でも食べられる奴の方が生き残れる。巌の哲学だった。
翌朝、巌は用意してあった婚姻届けにサインするよう陸と梨乃に指示をした。
子供のこともあるから、籍ぐらいさっさと入れておけ!と言う事だった。
婚姻届けの保証人欄には筆で豪快に「松田巌」と書いてあり、実印が押されていた。
断る理由の無くなった陸はサインするしかなかった。
・・・流美・・・ごめん・・・
成り行きとはいえ、強引に入籍させられることになった陸の肩は重かった。
「新しい住所が決まったら教えろよ。こっちで記入して出しとくから。
印鑑は実印と銀行印セットのやつを新しく作ってプレゼントしてやる。
それで押しとくから心配するな。」
・・・もう印鑑の意味がない・・・
こうして、陸と梨乃は翌月、書類上の婚姻関係を結ぶことになる。
巌は満足していた。陸が自分の手の平に乗った様に見えたことで。
・・・陸、ごめん・・・
なし崩し的に入籍を進めた梨乃は、誰にも言えない秘密を心の奥にしまい込み鍵をかけた。
●第7章 真実の愛の理
名古屋に戻った陸は先ず流美の部屋に行き、彼女を抱きしめた。
陸の無事に安堵した流美はホッとしたのもつかの間、事の顛末を聞いて狼狽した。
「何でそうなるの!」
「ごめん、結局向こうのペースに乗せられて・・・」
「・・・」
「でも、俺は流美さんと離れられない・・離れたくない・・・」
「分かった。明日から仕事なんだから、今日はもう休みましょう」
久しぶりに会った遠距離恋愛中のカップルの様に、二人は愛し合った。
何度もお互いの名前を呼びながら。
翌週、二人は不動産屋に行き、取り急ぎ2DKのアパートを探した。
繁忙期ですぐに見つかるか不安だったが、運よく偶然キャンセルになったばかりの適当な物件を紹介され、その日のうちに内見をした。
若い二人がこれから一緒に住むものだと誤解した不動産屋は
「これから一緒に住まれるんですか?いいですねー!」と無神経にきいた。
「まあ、そんなもんです」
テンションの低い二人を怪訝そうな目で見た。
・・・なにやら「訳あり」っぽいから余計なことを言うのはやめよう・・・
陸にとっては隠れ蓑程度にしか思っていない物件探し。
最低限の条件さえ整っていれば、どこでもよかった。
なし崩し的な入籍の為の新居は名鉄瀬戸線・矢田駅徒歩7分の2階の部屋に決まった。
おしゃれな外観で比較的新しい部屋に引っ越すのは、普通であればワクワクするものなのだろうが、本籍がまだ実家だった陸にとっては新たな本籍取得のための一手でしかなかった。
この部屋を選んだ1番の理由は流美の部屋との距離感。徒歩でも9分、自転車を使えば3分で流美に会いに行ける。そして何より、高層階の流美の部屋から新居の窓が見える。当然陸の部屋から流美の部屋も見えるという事だった。
近過ぎず遠すぎず、絶妙な距離感。そういった意味では奇跡の物件だったのかもしれない。
新しい住所を群馬の梨乃に伝え、梨乃から報告を受けた巌がその住所を婚姻届けに記載し、次の日簡易書留で名古屋の守山区役所に郵送した。
法的には梨乃と夫婦になった陸だったが、出産を控えた梨乃がまだ越してこないため、遠距離継続中だった。ゴールデンウイークを利用して営外者(駐屯地外に居住する自衛官)となった陸は、以前より頻繁に流美の部屋へ行くようになり、事実上は流美との関係の方がよっぽど自然な夫婦っぽかった。
入籍から4か月後、梨乃は実家のある群馬の産婦人科で長男を出産することになる。
出産予定日からずれることなく産気づいた梨乃は、母の志津の付き添いで通っていた産婦人科へ向かった。
夏季休暇の前で、休みづらいタイミングではあったが、初めての子供と言うことで休暇を許可された陸は、新幹線で群馬へ向かう。
・・・名前どうしよう・・・
流美との疑似新婚生活にうつつを抜かし、新しく生まれてくる子供の名前を考えるのを先延ばしにしていた陸は
「顔見てから決めよう」と開き直った。
館林駅に着いた陸を巌が軽トラックで迎えに来てくれた。
「元気にしとったか?」
「はい、おかげさまで・・・」
「名前はもう決めたのか?」
「いえ、候補はあるんですが、顔を見て決めようかと・・・」
「そうか、名前と言うのは生まれてきた子供に、親が一番初めにやる贈り物だ」
「はい」
「いい名前にしてやれよ!」
「もちろんです・・・」
国道354号を西に向かった右側にレディースクリニックがあり、巌はだだっ広い駐車場に適当に止めると
「まだ生まれてはないと思うから、とりあえず見に行くか!」と言って2階ロビーへ上がった。
難産だった。
破水してから24時間以上経っていたが、一度来たはずの陣痛が収まってしまい、母体の体力だけを奪っていた。帝王切開という選択肢もあったが、腹にメスを入れたくない梨乃はそれを拒否した。
結局陣痛促進剤を打ち、人工的に起こした陣痛を手伝う様に吸引分娩で何とか出産した。
新生児仮死状態で生まれてきた新生児は、黄疸とチアノーゼが出ており、鳴き声がしない。
医師と看護師の懸命の措置で、息を吹き返した新生児は念のため、総合病院に移送された。
「お父さん、お母さん、念のための転院で、あくまで検査入院なので心配しないで下さい!
吸引分娩しましたので、頭が少し伸びてますが、そのうち戻りますから、こちらも心配いりませんからね・・・」
医師の説明はあったが、梨乃は心配で涙が止まらなかった。
・・・私のせいで、罰が当たったんだ・・・
梨乃は名前を考える余裕すらなかった。
「りっくん、名前どうしよう?」
「【光・ひかる】なんてどう?一隅を照らすような光になって欲しいという願いを込めて」
「いいね、光」
「じゃあ決まり!名古屋に戻ったら出生届けだしとくよ。」
・・・流美・・・LUMI・・・光・・・
陸にしか解けない暗号、「LUMI」・・・ラテン語で「光」
愛する人を連想する名前を付けた方が、子供の事を愛せそうな気がしていた。
梨乃は光を出産後3か月は群馬に居たが、12月に入って母子は名古屋に引っ越した。
孫可愛さに、巌の追及が厳しくなる。
「いつ自衛隊止めて、北関東に来るんだ?」
巌はことあるたびに陸を追求した。
15ケ月名古屋で二重生活を送った陸は3任期満了に合わせて自衛隊を退職し、東部方面隊に転属希望を出した流美は時を同じくして関東に移住する。
特別職国家公務員という身分を捨てた陸は「衣食住」にかかわる仕事に着けば喰いっぱぐれないだろう・・・と考え、住宅関係の仕事を選んだ。マンションデベロッパーで営業としてマンションを販売する仕事だ。「圧倒的ブラック」というのが大げさではない業界だった。
新卒入社の社員の半数は3か月も持たない。陸は新隊員教育隊を思い出し、重ねていた。
陸は経験から知っていた。物事を成し遂げるのは「力」ではなく、必ずやり遂げるという「決心」だということを。
中途入社ながら、上司に認められた陸は順調に出世する。
埼玉県の蓮田市で再び二重生活を始めた流美のお腹には新しい生命が宿っていた。
東京都の世田谷区と目黒区にまたがる三宿地区。三宿駐屯地の敷地内にある自衛隊中央病院は陸海空の自衛官だけでなく、一般の患者も受診することが出来る。総合病院並みの診療科を具えた自衛隊中央病院は自衛官にとっては安心できる馴染みの病院で通称「中病」と呼ばれる。もちろん産婦人科もあり、ここで出産する自衛官やその家族も少なくない。
臨月に入った流美はヒグラシの鳴き声の響く中、陸の付き添いで定期検診に来ていた。
まだ残暑が厳しく、流美の額の汗をぬぐう陸
「大丈夫、無理しないでね。もう一人の身体じゃないんだから・・・」
月並みのセリフを言う。
1年程前、自宅に流美を連れて行き、名古屋に梨乃が来る前から交際していることを自らカミングアウトした陸。厳密には遠距離中の梨乃と破局した直後から流美と交際を始め、そのあとに梨乃の妊娠が発覚したことで、半強制で入籍することになった「成り行き」を理解してもらい、流美との交際を公式に了承してもらうためだ。不法行為も当事者の了解があれば問題にはならないはず。
常識的に見れば、常軌を逸しているように思えるが、「常識」というのは「その人の偏見の収集品」でしかない。了承しなければ「離婚」も厭わないという陸の覚悟を感じた梨乃は、後ろめたさも手伝って、「ちゃんと家に帰ってきてくれる」という条件付きで、渋々了承してくれた。
陸の流美に対する精一杯の誠意だった。
流美は流美で、離婚になった際の慰謝料と養育費を支払う覚悟を持っていた。
流美にとって初めての出産。
愛する陸との間にできた宝物。
真実の愛の結晶。愛の理。
結婚なんていう書類上の儀式など自然界には存在しない。
陸は変わらず愛してくれている。
二人は幸せだった。
そんな、ささやかな幸せを「突然の死」が分かつ。
破水した流美は緊急入院。
体調がすぐれなかったこともあり、疲れていきむのが難しくなってしまった流美。
赤ちゃんを速やかに娩出するために鉗子分娩が行われた。
分娩後の腟壁裂傷による大量出血が原因で流美は帰らぬ人となる。
あまりにもあっけない。命とはこうも儚いものなのか?
陸は泣いた。声がかれても泣き続けた。
流美が命と引き換えに残してくれた「真実の愛の理」
実の父である陸は、病院から引き取った真理を自宅に連れて帰り、自分の子として育てることを梨乃に了承してもらう。
長男の光はまだ2歳になったばかりで物心がついていないのも幸いした。
梨乃にとっては、流美が亡くなったことで、陸を完全に返してもらえるというメリットの方が大きかった。本当はもう一人子供が欲しいところだった梨乃にとって思いがけない拾い物だった。
自分の腹を痛めることなく、可愛らしい赤ちゃんが手に入ったと本気で思っていた。
母性とはすごいものだ。
泣きながら懇願した陸の理解を超えている。



