■プロローグ
鳴いているセミは、まだ恋を始められていない。恋でも、愛でもない。それは、ただ恋の最初の形。鳴き声を聞くたび、胸の奥がざわつき、湿った感情がかき乱される。触れたい、欲しい、繋がりたい。性欲は一番原始的な恋の感情であり、恋愛とはその本能に文化的な意味を纏わせたものに過ぎない。人は手の届きやすいものから求める。夏の音は、それを隠そうともしない。真夏の陽炎のように揺らめき、封じ込めたはずの汚らわしい記憶を呼び覚ます。

「死」というものは誰にでも訪れる。セミであれ人間であれ、抗えない宿命だ。ある日突然、空から落ちてくることもあれば、じわじわと忍び寄り、気づけば背後に立っていることもある。鳴こうが泣くまいが、そんなことに関係なく。

私はセミが嫌いだ。見た目も、鳴き声も、質感も、成虫も抜け殻も、記憶すらも──すべて不快でしかない。あの夏、庭先に満ちる蝉時雨の中で、兄の背中が遠ざかっていった。何かを振り払うように歩き去った姿を、私はただ呆然と見送るしかなかった。呼び止める声は喉の奥で震え、言葉にはならなかった。残されたのは鳴き声と、胸を締めつける後悔だけ。セミの声を聞けば、今もあの日がよみがえる。皮膚の裏側から鳥肌が這い上がり、この世からいなくなればいいと心の底から願う。けれど、その声は毎夏必ず戻ってくる。否応なく、忘れたい過去まで連れ添って──。

それは呪いにも似ていた。耳を塞いでも、窓を閉めても、セミの声は土の底から湧き上がるように私を追いかけてくる。逃げ場はない。あの日を境に時間が止まったまま、私は大人になってしまった。セミの命は短いというのに、私の中でだけ永遠に鳴き続けている。