「秋葉」

 そのとき。

 控えめの扉の叩く音と――憂夜の呼び掛けの声が聞こえた。
 その声音は柔らかだが、どこか物悲しくも感じる。ついに別離のときが来た……と、秋葉の全身が恐怖で強張った。

 でも本音は、彼の声が聞けるだけで飛び上がるくらいに嬉しくて。非情な矛盾が、ますます彼女の胸を締め付けた。

「……」

 秋葉は返事をしない。追い出されるのが怖かった。恣意的に止まらせていた時間が進むのが嫌でたまらなかった。
 憂夜は数拍だけ部屋の中を窺うように扉を見つめていたが、やがて静かに話をはじめた。

「これから少し出かけないか? 近くに金木犀(きんもくせい)小径(こみち)があるんだ。
 今がちょうど満開だから秋葉にも見てもらいたいんだが……」

「……」

 沈黙。秋葉からは返事がない。

「玄関で待ってる」

 それだけ言って、憂夜は踵を返した。

「……」

 秋葉はしばらく無言でぼうっと虚空を眺めていたが、

「行かなきゃ……」

 無意識のようにふらふらと立ち上がって支度をはじめた。

 これが、憂夜との最後の外出になるかもしれない。
 少しでも、彼の側にいたいと思った。