「憂夜様」

「ん? どうした?」

 憂夜が秋葉の部屋を出て数歩進んだところで、不意に狐宵(こよい)が彼を呼び止めた。声を潜めての呼びかけに剣呑な空気を感じ取る。

「なにかあったのか?」

 主人は敢えて落ち着き払った様子で訊く。

「本当に秋葉様を花嫁にしてもよろしいのですか?」

「どういうことだ?」

 憂夜の顔が険しくなり、たちまち周囲の空気が彼の神力(しんりょく)で震えた。
 それでも狐宵は、主の剣幕に物怖じせずに話を続ける。

「私は……反対です。秋葉様からは一滴たりとも霊力を感じません。」

 狐宵は真剣な眼差しを主に向ける。そこには非難の感情が映っていた。

(こいつがこんな表情をするのはいつぶりかな……)

 狐宵も瑞雪(ずいせつ)も、基本的に憂夜の意向に逆らうことはない。
 だが主が誤った方向へ進もうとする際は、きっぱりと進言をしてくれる。

 秋葉との婚姻は間違った道なのだろうか。

 傍目にはそう映るのかもしれない。本来ならば神と人間の婚姻は、人間側に莫大な霊力が備わっているからこそ成立するのだ。
 現に今の彼女は、自分の神力で守ってやらないと神の世界(ここ)では生きられないだろう。

 ――だが。

「なぁ、狐宵。お前、海って見たことはあるか?」

「毎年、全員で下界へ海水浴に行くではありませんか」

「あーそうだっけ? シロも瑞雪も、海遊びが好きだからなぁ〜」

 憂夜はすっ惚けた顔をして肩を竦めた。狐宵は白けた顔を主に向ける。

「悪い、悪い。――で、海なんだがな、大波が来る前は一旦潮が引くんだよ。波が大きければ大きいほど、奥へと下がるもんだ」

「……秋葉様が、そうと?」

「あぁ」

 憂夜は深く頷く。そしてふっと柔らかく笑った。
 初めて見る主の愛情深い表情に、狐宵は驚きを隠せない。

「俺には、秋葉の奥底にまだ眠っている力を感じる。あいつはまだ腐っちゃいねぇ」

「……私にはなにも感じません」

「ま、俺も半信半疑だ。勘だけどな〜」

 憂夜はケラケラと笑ったあと、

「だがな、狐宵。婚姻は『条件』じゃねぇ。『魂』だ」

 トン、と己の胸を叩いた。