「じゃあ、今夜の初夜だが――」

 少しして、憂夜の妙にハキハキとした声が甘やかな時間をぶち壊す。突如、生々しい現実に引き戻されて、秋葉の脈がどきりと跳ねた。

「そ、そ、そうだったわね……」

 秋葉はつい逃げ腰になる。胸は圧迫されたように重くなって、息が詰まった。ぎょろぎょろと目が泳いで、乾いた唇が微かに震えだす。

(本当に今夜、夫婦の……するの!?)

 本音を言えば、まだ心の準備ができていない。だって、花嫁という言葉から何年も離れていたのだから、全然想像ができないのだ。

 憂夜はじっと秋葉を見つめる。黄昏みたいな不思議な色に、またもや引き込まれた。

「秋葉はさ……」

「はっ、はいっ!」

「俺のこと、まだ名前で呼んでいないな?」

「えっ……!? そ、そうだっけ……?」

 秋葉は首を傾げる。そう言われてみれば、そうかもしれない。
 憂夜の視線が彼女を射抜く。

「お前の夫なのに、名前で呼んでくれねぇの?」

 ちょっとだけ不貞腐れた様子が、不覚にも可愛らしいと思った。

「い、いや……。呼びたくないわけはなくて……。ちょっと、機会を逃したかんじ……?」

 しどろもどろにそう答えると、彼はずいっと顔を近付けた。

「ほら、呼んでみろよ。憂夜って」

「うっ……」

 思わず身体を少しだけ仰け反ってしまう。顔が近い。近過ぎる。ただでさえ見惚れるような顔立ちなのに、こんなに近距離に来るなんて。

 憂夜は彼女の動揺を楽しんでいるかのように、距離が開いた分また近寄ってきた。彼の吐息が彼女の顔にかかって、ますます胸が高鳴っていく。

「ゆ・う・や」

「ゆっ……」

 ぞわぞわする恥ずかしさに、秋葉はつい視線を落とした。

「ゆ…………憂……夜…………」

「よく出来ました」

 次の瞬間、彼は嬉しそうにニカッと笑って、愛おしそうに彼女の頭をぽんぽんと撫でた。

「よぅしっ、俺たちの初夜は完了だ」

「……はぁ?」

 素っ頓狂な秋葉の声。彼女の間抜け面に彼はくつくつと笑いながら、得意げに言う。

夫婦(めおと)になる第一歩は、互いの名を口にすることだな」

「はぁ……」

「それに、秋葉の気持ちはまだ準備ができていないようだ。俺は怖がる女を無理に手籠めにするような無粋な真似はしねぇよ」 

「あ……」

 どうやら、憂夜には秋葉の気持ちは全てお見通しだったようだ。嬉しさやら恥ずかしさやらで、ほんのり頬を紅色に染める。

「その……いいの?」

「……秋葉が初夜をしたいなら、やるか?」

「べっ……! 別に、私はっ……」

 真っ赤な頬の色が、更に濃くなった。

「はっはっは。秋葉はまだお子ちゃまだからな〜」

「私は子供なんかじゃないわ!」

 憂夜はおもむろに立ち上がって、

「おやすみ、秋葉」

 秋葉の頬に軽く口づけて部屋を出た。

「っ……」

 残されたのは、目を白黒している秋葉。
 触れた箇所から熱が広がって、身体中が火照っていく。
 それに比例して、怒りも。

「不意打ちすなーっ!!」

 扉越しに聞こえる妻の雄叫びに、憂夜は声を上げて笑った。

 これが、二人の初夜。
 新月の今日、ここから始まるのだ。