ゆらぎ

第七章 
 
「ねえ、あさぎ。人間とアンドロイドは永遠を誓えると思う?」
 見覚えのない白い部屋の中、ゆらぎは壁一面に空を描きながら私に問うてきた。
 こんな場所の記憶はない。こんなことを問われた覚えもない。それでも、その質問がゆらぎのものであることは不思議と確信を持てた。
 ゆらぎに会えたのなら、伝えたいことは山ほどあったはずなのに、不思議とこの部屋の中では何の焦燥感も覚えない。ゆらぎが目の前にいることを、当然のように思っている私がいた。
「それは、無理じゃないかな。人間は死んでしまうし、アンドロイドに心はないから」
 我ながら、相変わらず面白みのない答えだと思う。気の利いた答えを返す才能は、母のお腹の中でゆらぎが根こそぎ持っていってしまったようだ。
「アンドロイドに、心があったら?」
 ゆらぎの持つ筆が、大胆に線を描いていく。青緑のようなその色は、おそらく浅葱色だ。空に近い色とは思えないのに、ところどころに白い雲が描かれているせいか、自然とそれを大空の絵だと捉えている。
「そうだな……それでも厳しいかもしれないね。やっぱり、人間は死んでしまうから」
「その理論でいくと、人間同士でも永遠の愛は誓えないね? 景くんは悲しむだろうなあ」
 揶揄うように、ゆらぎは横目で私を見て笑った。まるで私と景の間に何があったか知っているような口ぶりだ。
「そういうゆらぎは? どう思うの?」
 彼女はいつもこの手の質問をしてくるけれど、私に意見を求めるばかりで自分の考えを明かしてくれたことはあまりない。けれど、この白い部屋の中で名から包み隠さずに答えてくれるような気がしていた。
「どう思うも何も、私は誓ったよ」
「え?」
 ゆらぎは筆を置いて、どこか不適な笑みを浮かべてこちらに向き直った。
「私は、ツルギと永遠を誓ったの」
 ぐらり、と地面が揺れる。たちまち、浅葱色の空もゆらぎの姿も遠ざかっていった。
 私は揺れる地面に転がりながら、小さくなっていくゆらぎに手を伸ばすことしかできない。現実と同じように、夢の中でも別れは残酷なくらいに突然だった。

 ◇

「……ゆらぎ」
 かたかたと、あたりが揺れている。ゆらぎの名を呼ぶ自分の声にはっとして目が覚めた。電車に乗り込んだところまでは覚えているが、いつのまにか眠ってしまっていたらしい。しかも、隣に座るツルギに寄りかかるようなかたちで。
「起きた? 海が見えてきたよ」
 私に肩を貸していたツルギは私が寄りかかっていることを気にするふうでもなく、窓の外へ視線を移した。天気に恵まれたおかげで、深い青色に輝く海が見える。陽の光に目を眇めながら、ツルギに預けていた頭を上げた。
「本当だ。綺麗だね」
 白い部屋の夢を見ていたせいか、海の青がいっそう鮮やかに見える。
「ツルギ……今ね、ゆらぎの夢を見ていたよ」
 ツルギは窓越しに海を眺めながら、静かに唇を歪めた。
「人間は羨ましいな。夢の中で、亡くなった人に会えるなんて」
 アンドロイドに睡眠は必要ない。彼が夢を見る日は一生来ないのだろう。
 私が彼にできることがあるとすれば、ゆらぎに夢で会うたびに、それを教えてあげることくらいだろうか。
「次の駅だ。降りる支度はいい?」
 ツルギは普段と何も変わらない微笑みで、私を見た。今までと決定的に違うのは、私の名もゆらぎの名も呼ばないところだ。
「うん。……楽しみだな、海」
 私もまた、無理にゆらぎらしく振る舞おうとは思えなかった。ツルギの前で素の自分を曝け出すことになるなんて、思ってもみなかったことだ。
 膝に乗せた鞄の中で、端末がわずかに振動した。手にとって確認してみれば、ロック画面にメッセージが表示されている。景からだ。今日は無断で高校を休んだから、きっと心配して連絡してくれたのだろう。
 だが、今は返す気にはなれなかった。私は今、ツルギとともに今までで最大の逃避行に出掛けているのだから。
 すぐに端末を鞄の中にしまって、降りる支度をする。隣でツルギが静かに首を傾げた。
「返さなくてよかったの?」
「うん。……今は、ツルギといるからね」
 駅名をアナウンスするAIの声と同時に、扉が開いていく。じりじりと照りつくような日差しの中に足を踏み出せば、潮風の匂いがした。

 ◇

 夏休みにはまだ早い平日の昼間であるせいか、浜辺の人影はまばらだった。白い砂浜と深い青のコントラストが目に眩しい。銀色に光る水面を見つめながら、大きく深呼吸をした。
 ツルギと共に、波打ち際を目指して歩く。泳ぐつもりはないので、水着は持っていなかった。
 サンダルに入り込む細かな砂がくすぐったい。温かくて、夏の上を歩いているような心地だ。
「去年の夏に、ここに来たんだ。去年の今頃は気温が低い日が続いていて、海辺には僕らしかいなかった」
 波打ち際で立ち止まって、ツルギはぽつりと溢すように教えてくれた。その目はやはり、遠くの海を眺めている。
「ゆらぎは白いワンピースを着ていた。髪はいつもみたいにポニーテールにして、ワンピースと同じ素材でできたりぼんを僕が結ったんだ。服も髪も髪飾りも、ゆらゆら揺れて綺麗だった」
 思い出を語ったときと同じ調子で、彼はごくわずかに微笑みながら告げた。口調自体は淡々としているのに、彼がゆらぎと過ごした一瞬一瞬をどれだけかけがえなく思っていたか痛いほど伝わってくる。
 波打ち際に白いワンピース姿で佇むゆらぎを想像してみると、私まで自然と頬が緩んだ。靡くポニーテールを押さえながら、半身でこちらを振り返って「早くおいでよ!」と笑う彼女がありありと目に浮かぶ。夏の眩いほどの陽の光がよく似合う、ひまわりみたいな人だった。
「そんなにすてきな格好をしていても、ゆらぎのことだから海に飛び込んだりしたんじゃない?」
 絵でも描いている最中ならともかく、彼女がおとなしく海を眺めて帰るはずがない。ツルギはくすりと笑って、小さく息をついた。
「さすが、よくわかっているね。ゆらぎは水着にも着替えずに膝まで海に浸かって、まだ寒いって笑っていたよ」
 いかにもゆらぎがやりそうなことだ。私もつられるようにふ、と笑ってしまった。
「ツルギの苦労が伺えるね」
「そうだね。……楽しい苦労だった」
 夏の海辺にふさわしくない憂いの滲んだ声だった。私の寂しさに共鳴するような彼の声がどうにも切なくて、誤魔化すようにサンダルを脱いで波打ち際に足を浸した。
 心地よい冷たさの海水が、足の甲を撫でる。小さな波が押し寄せるたび、足の周りの砂が削れていく感覚がくすぐったかった。
 おろした髪が、潮風に舞い上がる。あの空の中に、この青い海の中に、ゆらぎは溶け込んでいるのだろうか。
 何となく吸い寄せられるように海の中へ一歩を踏み出したところで、ふいに背後から腕を掴まれた。
「ツルギ?」
 ゆっくりと振り返り目が合うと、彼はひどく寂しそうな顔をした。私の後ろ姿に、ゆらぎを重ねていたのだろうか。
「……あまり奥へ行かないで」
「ツルギも足だけでも入ったらいいのに」
「いや、やめておくよ。防水仕様だけど、長くは浸かれないんだ」
 初めは彼をただのアンドロイド扱いしていたのは私だというのに、彼が自身を「防水仕様」なんて無機質な言葉で形容することに違和感を覚えてならなかった。私と同じ寂しさを抱えている彼は、私と同じ存在ではないのだ。
「じゃあ、行かないよ。ツルギの手の届かないところには行かない」
 ツルギの手に引き寄せられるようにして、波打ち際から足を出す。濡れた爪先に、暖かな砂がまとわりついた。
 ゆらぎの身代わりにすらなれなかった私の言葉で彼が安らぐはずもないとわかっていたが、すこしでも彼を安心させてあげたい。せめて私だけは、彼の手の届く範囲にいよう。
「……きみは、やさしいひとだね」
 私の意図が伝わったのかどうか定かではないが、彼はいちどだけ軽く私を抱きしめた。側からみればまるで恋人同士のように見えるかもしれないが、これはそんな熱っぽい感情から起こされた行動ではない。親が子にするような、慈しむようなふれあいだった。そしてそれを、不快ではないと思う私がいる。
 ……ゆらぎの恋人なら、私のことは妹同然に思っているのかな。
 そこまで考えているのだとしたら、彼はやはりもうただのアンドロイドとは呼べないだろう。いつか私が彼をアンドロイド呼ばわりしたときに、ゆらぎが怒ったのも頷ける。
「次はどこへいく? ゆらぎと来たのは、海だけじゃないんでしょう」
「そうだね。どうしても行きたい場所があるんだ」
 ツルギは私から手を離すと、風に乱された私の髪を軽く整えてくれた。
「でもまずは、近くのカフェでお昼でも食べようか」
 砂浜のそばにはいくつかの白い建物があった。あそこがおそらくカフェや飲食店なのだろう。
 ツルギの案内で、さっそく私たちはカフェへ向かった。正直お腹は空いていなかったが、ツルギの手前食べないという選択は受け入れられなさそうだ。
 壁一面に大きな窓が設置された白い建物の中に入り、窓際の席に案内される。障害物がいっさいない状態で海を見渡せる、見晴らしのよい場所だ。
「前に来たときもこの席だった。ゆらぎはスケッチブックを取り出して、食事が来ても夢中で絵を描いていたよ」
 ツルギは目を細めて私を見ていた。まさに、私が座っているこの席に彼女が座っていたということなのだろう。
「迷惑なお客さんになっていないといいんだけど。……ゆらぎらしいな」
 思わず、椅子の座面をそっと撫でた。一年前の彼女の温もりが残っているはずもないとわかっているのに、彼女の気配の名残を見つけたくて仕方がなかった。
 テーブルの端に立てかけられたメニュー表を手に取って、ぱらぱらと頁をめくる。今どき物理的にメニュー表を置いているなんて珍しい。思えば、入店したときからAIの声を聞いていない気がする。店内も木材でできた家具や貝殻の飾りなどがあしらわれている温かみのある作りだから、敢えて電子的な存在を表に出さないコンセプトなのかもしれない。近ごろではこういった観光地でしかお目にかかれない店だった。
 リネンの服と黒いエプロンを纏った女性店員に、レモンクリームの乗ったパンケーキを注文する。全部食べ切れる自信はないが、いちばん美味しそうだ。
「ランチメニューの特典でミネストローネかかぼちゃの冷製スープをお選びいただけますが、どちらになさいますか?」
 ゆらぎなら、間違いなくミネストローネを選んでいただろう。一瞬、言葉に詰まってしまった。
「かぼちゃの冷製スープでお願いします」
 一瞬の間を奪うようにして、ツルギが代わりに返事をしてくれた。女性店員はにこやかに注文を繰り返し、メニュー表を回収して立ち去っていく。
 ……そういえば、ツルギはわかっていたんだよね。
 私がトマトを食べられないことを、彼は知っていたはずだ。私がゆらぎの家に遊びに行った際には、わざわざお昼のナポリタンをカルボナーラに変更する気配りを見せてくれていたのだから。
 ツルギはどこか気まずそうに視線を伏せ、ぽつりと呟いた。
「きみには本当に悪いことをした。食べられないとわかっているものを、夕食に出すなんて。本当にごめん」
 そうまでしてでも、ゆらぎと同じ姿をしている私が、ゆらぎの好物を食べている光景を眺めたかったということなのだろう。とても責める気にはなれなかった。
「いいの。食べると決めたのは私なんだから」
 あの現実逃避の日々は、彼に押し付けられたものではない。私も同意して、彼とふたりで作り上げた時間なのだ。
 私の言葉に、ツルギは弱々しく微笑んだ。
「こんなに優しい本当のきみを、どうしてぼくは踏み躙ることができたんだろう。……ゆらぎには、ひどく叱られるだろうな」
 私だって、いちどは私として生きる人生よりも、ゆらぎのふりをしてツルギと現実逃避に溺れる日々を選ぼうとしたのだ。罪があるとするならば、重さは彼と同じはずだった。
「いつかゆらぎに会えたら、ふたりで怒られようね」
 慰めのような儚い約束だとわかっていた。それでもいつかふたりでゆらぎに叱られて、その後でまた三人で仲直りする姿を想像するだけで、ほんの少しだけ、前へ進む力が湧いてくるような気がする。
 やがてパンケーキとスープが、目の前に置かれた。ゆらぎは絶対に選ばないであろうかぼちゃの冷製スープは、ほんのりと甘くて優しい味がした。

 ◇
 
 食事を終え、カフェの外に出て深呼吸をする。とてもおいしかったが、思ったよりもクリームの量が多くてすこしだけ胸焼けしていた。甘いものは得意なほうだが、それでも限界はある。クレープくらいがちょうどいいらしい。
「大丈夫? こればかりは手伝えなくてなんだか申し訳なかったな」
 隣でツルギがくすりと笑う。女性店員は取り分けるためのお皿を置いていってくれたが、当然ツルギは食べていない。
「確かに、ふたりで食べたらちょうどいいくらいだったかもね」
 景とふたりだったら、むしろすこし物足りないくらいで、おやつの時間に別の店でアイスくらいは食べられたかもしれない。自然と彼とともに海辺を散歩する光景を思い描いていることがなんだか気恥ずかしくて、思わず想像を振り払うように首を横に振った。
「じゃあ、ツルギの行きたいところに行こう。案内してくれる?」
 ツルギの前に一歩躍り出て、彼を振り返る。潮風が、彼の灰色の髪をさらさらと揺らしていた。
「わかった。ついてきて」
 ツルギは、再び波打ち際を目指して歩き始めた。私も、彼の半歩後ろについていく。
 ゆらぎとは手を繋いで歩いたのだろうか。ふたりきりのときに、彼らがどんな調子で会話をするのかわからないが、きっとゆらぎははしゃいで、ツルギはそれを眩しそうに眺めているのだろう。想像するだけでも、それは幸せな恋人たちの姿だった。
 波の音に耳を澄ませながら、暖かな砂の上を歩く。陽の光を受けて銀色に輝く海も、澄み渡る空も、すこし前の私なら受け入れられなかっただろう。ゆらぎがいない世界に残されたものを、きれいだなんて思いたくなかった。
 けれど、今の私は信じられないほど穏やかな気持ちで砂浜を歩いている。悔しいが、ゆらぎのふりをした現実逃避のあの日々が、生々しく開いていた心の傷にすこしずつ蓋をしていたのだと思い知らされた。一生治らなくていい、残しておきたい傷だったのに、生きて時間を重ねている限り、心の痛みでさえも変わらないでいることはできないらしい。
 幼いころに亡くなった父を恋しくは思っても、亡くなった翌日のように泣きながら起きることがもうなくなったように、ゆらぎのこともいつか、少しずつ少しずつ意識の隅に追いやられていって、毎日のように思い出すことはなくなるのかもしれない。生きている以上仕方がないと思っていても、それはやっぱり、寂しくてならなかった。
 ツルギは、どうなのだろう。彼女が与えた心は、私と同じように、時を重ねるごとにすこしずつ、悲しみに蓋をしてなじませてくれるのだろうか。あるいは夢を見ることも忘れることもない彼は、ゆらぎが失った悲しみを、まるで昨日のことのように生々しい傷のままで抱えているのだろうか。
 後者だとしたら、苦しいことだ。ゆらぎはある意味、この上なく残酷なことをしたと言えるだろう。彼に心を与えた以上、すくなくともこんなに早く彼の前からいなくなってはいけなかったのに。
 私では救えなかった。彼の後ろ姿を見ていると、もやもやとした不安が立ち込める。
 最後にして最大のこの現実逃避を終えたら、彼はどうするつもりなのだろうか。
「ここだよ」
 海辺をしばらく歩いた先で、ツルギは不意に立ち止まった。目の前には、高校の体育館ほどの大きな白い建物がある。扉や階段は銀と白で統一されていて、シンプルながらもどこか神聖な雰囲気だった。
「来て」
 ツルギに導かれるがまま、扉の先に足を踏み入れる。中は、広いホールのようになっていた。
「わあ……」
 思わず声が漏れてしまうほど、美しい光景だった。
 入り口の目の前には、広い広間が広がっていた。温もりのある木の長椅子が数列並べられており、広間の中心とその周囲に水路が張り巡らされている。おそらく海と連続しているのだろう。広いホールの奥には、真っ白な階段が続いていた。天に向かうように真っ直ぐに伸びたその先には、小さな祭壇がある。さらにその奥には壁がなく、海をそのまま臨めるようになっていた。
「すごい……ここは、教会なの?」
 この海辺にこれほど美しい教会があるなんて、知らなかった。ぐるりとあたりを見渡して、感嘆の溜息をつく。
「昔はれっきとした教会で結婚式なんかも執り行われていたらしいんだけど、今は廃教会なんだ。でも、そうは思えないくらい綺麗だよね」
 確かにそう言われてみれば、壁や床に小さなひび割れが確認できる。それでも、人の手を離れたとは思えないほど綺麗な建物だった。
「よくこんなすてきな場所を知っていたね」
「ゆらぎが、背景の資料を集めているときにたまたま見つけたんだ」
 ツルギは階段の直前まで歩みを進め、静かに続けた。
「ここで、ぼくとゆらぎは永遠を誓ったんだよ」
 白い光の中で、彼は幸せそうに呟いた。どくり、と心臓が揺れ動く。
 今朝、電車の中で見た夢でも、ゆらぎはそう言っていた。幸せな話を教えてくれているというのに、なんだか胸騒ぎがする。
 この光の先に進めば、なんだか、ツルギのことまでも失ってしまいそうで。
「一緒に来て。きみにも、見てほしいんだ」
 ツルギは光の中から私に手を差し出した。どくどくと早まる脈が、その手を取ることを躊躇わせる。
「……いいのかな、ふたりの思い出の場所に、私が踏み入っても」
「きみなら、もちろん」
 ためらう私の手を、ツルギのほうから迎えに来た。彼の手に引かれるようにして、白い階段を登る。
 怖いほどの静寂の中に、私とツルギの足音だけが響いていた。本当に、現実ではない世界に迷い込んだような心地だ。
 階段はおよそ二階分くらいあるだろう。ゆっくりと上り切った先には、枯れた花が置かれた祭壇が待っていた。祭壇の奥の壁はてっきり初めから外と連続した作りになっているのかと思ったが、間近で見ると壁の辺りにガラス片が落ちていた。どうやらガラス張りの壁が崩れてこのように開放的な作りになっているらしい。
 やはり、不思議な魅力のある場所だ。美しいだけでなく、心を強く惹きつけられる独特の空気感がある。割れたガラスや枯れた花は翳りを思わせるものなのに、不思議と神聖な雰囲気が漂っていた。
 ツルギは祭壇の前に歩み寄ると、向かい合うように私を立たせた。吹き込んだ潮風に、二人の髪が靡く。
「ここで、こうやって向かい合って、永遠を誓ったんだよ。……本当に幸せだった。ぼくはただの機械なのに、ゆらぎは僕に心をくれただけでなく、愛まで与えてくれたんだ」
 泣き出しそうな表情で、彼は語った。見ているだけで、こちらまでずきりと胸を抉られるようだ。
「あのときのゆらぎは、本当に可愛かったな……。珍しく照れて、頬を赤くして……愛おしいってこういうことなんだって、ゆらぎが教えてくれたんだ」
 涙を流していないだけで、彼は泣いているのだろうと思った。眩い白い光の中で、ツルギはぐしゃりと前髪を握りつぶすようにして顔を覆う。
「ゆらぎはぼくのすべてだった。ゆらぎが、ぼくの世界そのものだった。……それなのに、ぼくはゆらぎを守れなかったんだ」
 生々しくぶつけられる後悔と悲哀を前に、かける言葉が見つからない。
 私も同じだ。ゆらぎに教えてもらった感情がいくつもあった。ゆらぎがいなければ見られなかった景色が、たくさんあった。
 私にとってもゆらぎはすべての中心にいたけれど、ツルギの想いには敵わない部分がきっとある。彼が言った通り、ゆらぎは彼の世界そのもので、彼の心の創造主で仕えるべき主人で恋人だったのだから。
「ゆらぎがいなくなって、きみが迎えに来てくれるまでの一週間、ゆらぎが死んだあの場所で何千回も何万回も計算したよ。どうすれば、ゆらぎを生かしておけただろうって。ぼくのすべてを使えば、ゆらぎを助けられる方法があったはずだって」
 山のように積まれた花束の前で、呆然と立ち尽くしていた彼の姿が蘇る。朝も昼も夜も、雨が降っても、彼はきっとあの場を動かなかったのだろう。
「けれど、だめだった。ぼくがあの車が暴走していることに気づくタイミングが遅すぎた。そこからゆらぎと車の間にうまく飛び出すことができたところで、ゆらぎはおそらく命を落としていた。……それでも、庇うまもなくゆらぎを死なせてしまった今のぼくよりはずっとましだけれど」
 いくら高性能のAIが搭載されていると言っても、ツルギはあくまでも家庭用のアンドロイドだ。護衛用や軍事用ならまた話は違うのだろうが、機動性はおそらく人間とそう変わりない。どれだけすばやく判断ができたところで、ゆらぎを完璧に庇うことは無理だったはずだ。
「残酷だな……あの車が暴走した時点で、ゆらぎの死は確定していただなんて。こんなに一瞬で、大切なものが失われてしまうなんて」
「ツルギ……」
 かける言葉が見つからない。私だって同じ種類の痛みを感じているはずなのに、彼の嘆きはつい昨日ゆらぎを失ったばかりかのように生々しかった。
 やはり、忘却の機能がないぶん、彼の心の傷は癒されないのだ。その状態で今日まで理性的に行動していたこと自体が、奇跡だと思えた。この慟哭を押し込めて、彼はずっと静かに微笑んでいたのだ。
「そこからのぼくだって、最悪だった。初めからきみがきみだということくらいわかっていたのに、君にゆらぎのふりを押しつけるなんて……。嫌いな食べ物まで食べさせて、無理やり絵も描かせようとして……ゆらぎが誰より大切にしていたひとを、ぼくは踏み躙ったんだ。……許されることじゃない」
 最後のほうはほとんど掠れて、絞り出すような声だった。とてもじゃないが見ていられず、思わず彼が自らの顔を覆う手を引いて無理やり視線を合わせる。
「ツルギ、さっきも言ったけれど私に関して罪悪感を抱かないで。利用したのは私も同じだよ。それに……ゆらぎのふりをしていたあの日々がなければ、私はきっと立ち直れなかった」
 ひょっとすると、いつか一瞬よぎった「悪い選択肢」をとっていたかもしれない。とっくに薄れた左手首の切り傷が、ちくりと疼くような気がした。
 ツルギは、深く翳りきった瞳で私を見ていた。深淵を覗いたような心地になって、自分の意思に反して肩がびくりと跳ねる。
「どうだろう……きみには家族がいるし、星川景もいる。ぼくがいなくてもきみは、いつか立ち直れたはずだよ」
「それは……」
 否定は、できなかった。母も景も私が塞ぎ込んでいたら、絶対に放っておかなかっただろう。母は実家に私を連れ帰っただろうし、景も自分の家に呼び寄せてでも私を見守ったであろうことは想像に難くない。
「ぼくにはきみだけだったよ。ゆらぎを失ったあとの支えは、きみだけだった。きみが今日までぼくの心を生かしてくれたんだよ」
「今日まで、って……」
 ツルギはずるずるとその場に崩れ落ちると、床に膝をついてポケットから何かを取り出した。
 それは、この間私が食器棚から見つけて謝って手を切ってしまった、果物ナイフだった。幼いゆらぎの手で施された、可愛らしい彫刻があるから間違いない。
 胸騒ぎの原因は、これだったようだ。物騒なものを差し出されて、平静を保てるはずがない。心臓が、かつてないほどの速さで暴れ出していく。
「あさぎさん――」
 ゆらぎの死後、彼が私の名を呼ぶのは初めてだった。続く言葉がそれほど彼にとって重要なものなのだと思い知る。
 彼は木製の鞘を引き抜くと、自らの手のひらの上にそっと銀色のナイフを乗せた。
「――どうか、きみの手でぼくの心を終わらせてくれませんか」
 彼は震える声で、縋るように懇願した。一瞬ふたりの間を支配した沈黙の中に、遠くの波の音が溶け込んでくる。
「あなたの、心を……?」
「ゆらぎが作ったものだから、抵抗があるかもしれないけれど……きみにしか頼めないんだ。簡単だよ、この下に、星の形をした小さな機械が眠っている。これが、心の源だとゆらぎが言っていた」
 ツルギは胸を押さえながら、いつも通りを演じるかのように微笑んでみせた。
 星の形をした機械なら、私も知っている。いつか見た「何か」のレプリカは、やはりゆらぎが発明した心だったのだ。
 ゆらぎはきっと私との対話を通して、機械に心を植え付ける行為の重さに気づいたのだろう。それで公表はせず、ツルギだけに特別に与えることに決めたのだ。
 その判断は、ある意味正解だったのかもしれない。ゆらぎが心を与えたせいで、彼は今こんなに苦しんでいるのだから。
 ……でも、それだけじゃないはず。
 ゆらぎが彼に与えたのは、苦しみや寂しさだけではないはずだ。
「ツルギは、いいの? ゆらぎに感じた愛しさも、ゆらぎと一緒にいて楽しかった時間も手放そうとするなんて……そんなの、ゆらぎに対する冒涜だよ」
「そうかもしれない。でも耐えられないんだ。ゆらぎがいない寂しさを抱えて、ゆらぎを救えなかった罪悪感に絡め取られて日々を過ごすのは……。もう限界だ。死ぬことができないなら、せめて心を壊してほしい。ぼくの手では、どうしてもゆらぎの作品を壊せない」
 そんなのは私だって同じだ。だがツルギの心を壊したくないと願うのは、ゆらぎが作ったからじゃない。彼の心を壊すことは、彼を失うのと同義だ。私は、それがどうしてもいやだった。
「ひどいよ、ツルギ。今まで一緒に、寂しさをわかちあえていると思っていたのに。私を置いていくつもりなの」
 確かに私には母も景もいる。自分で気づいていないだけで支えてくれるひとはもっとたくさんいるのだろう。
 けれど私と同じ寂しさを、ゆらぎがいなくなった虚しさを、限りなく近い温度で噛み締めているのはツルギだと思っていた。お互いにとってゆらぎは、半身のような存在だったのだから。
「寂しさは、ぼくのような存在とわかちあうべきじゃない。誰の隣にいるのが正しいかくらい、きみはとっくにわかっているはずだ」
 花火の音と、雨の匂いが蘇る。減らず口ばかり叩く彼の影を、隣に感じたような気がした。
「これ以上ぼくと一緒にいても、ぼくはきみの幸福の妨げにしかならない。だから、ゆらぎがいちばん大切にしていたきみの手で、終わらせてほしいんだよ」
 これがきっと、嘘偽りのないツルギの願いなのだろう。彼はせめて心だけでもゆらぎのもとへ行きたいのだと、見えない涙を流して訴えているのだ。
 差し出されたナイフを、そっと手に取る。ツルギが、申し訳なさそうに微笑むのがわかった。
 このまま彼の願いを叶えてあげるのが、ひょっとするといちばんの優しさなのかもしれない。彼にもっとそばにいてほしいという私の思いを殺して、彼の心を壊してあげるのが、ゆらぎになれなかった私ができる最大限の慰めになるのかもしれない。
 彼と同じように床に膝をつき、そっと彼の胸に触れる。人間であればとくとくと脈打つその場所は、温かいだけで何も感じなかった。わずかに触れる振動は、彼の体内に埋め込まれた機械が動いている証拠なのだろう。
「わかった。……壊してあげる」
 ツルギは、申し訳なさそうな微笑みを深めて、長い瞬きをした。
「ありがとう、あさぎさん――」
「――でも、今日とは言っていない」
 手に持ったナイフを鞘に納め、鞄にしまう。父とゆらぎの形見でもある品だから、粗末には扱えない。
「何を言って――」
 動揺をあらわにする彼の胸ぐらを、思わず掴む。咄嗟のことでバランスを保てなかったのか、そのまま彼を押し倒すようなかたちになった。
「ゆらぎの妹として、あなたをこんなところで終わらせられない。ゆらぎを守れなかったことを悔やんでいるのなら……ゆらぎの代わりに、私が幸せになる姿を見守ってよ。そうしたら、私が終わる日に、あなたの心も壊してあげる」
 ツルギは、目を見開いて私を見上げていた。私よりずいぶん大人びた振る舞いばかりする相手だと思っていたが、こうしてみると幼い子どものようだ。
「私たちは、一緒にゆらぎのところへいくの。ゆらぎが見られなかったもの、ゆらぎが知りたかったこと、それらを全部手土産にしてね。あなたは私が見落としていた幸せも含めて、一から十までゆらぎに伝えるの。それが、今日からのあなたの役目だよ」
 ツルギの顔が、くしゃりと歪む。憎悪すらのぞかせるような眼差しで、彼は私を睨んでいた。
「それまで、ゆらぎを失った寂しさを抱えて生きていけと……?」
「そうだよ、人間はそういうものだよ。最愛を失っても、半身を失っても、命が続く限り生きていかなければならないの。ひどく残酷なことだけれどね」
 でもそれは、寂しさとともに生きていく命に終わりがあると確信しているからこそ耐えられることでもあると思う。
 けれどツルギには、それがない。だからこれは、私が彼に与えられる唯一の希望だ。
「私が終わる日に、あなたがもし望むなら、一緒に連れて行ってあげる。それが、私からの贈り物だよ」
 ツルギは葛藤するようにしばらく私を見つめた後、再び泣き出しそうな顔で微笑んだ。
「ひどいことを言うひとだ。機械のぼくに、人間の真似事をして生きろと?」
「そうだよ、心を持っているのなら、私はあなたを人間として扱うよ」
 そっと手を引いて、床に背をつけた彼の体を起こす。彼の膝の上に座って向かい合うような形で、そっと彼の頭を撫でた。
「私と一緒に、生きていこう。同じ温度の寂しさを抱えた、家族として。……そうだな、ゆらぎと永遠を誓ったのなら、人間風に言えばツルギは私のお義兄さんだね」
 相手を兄と呼ぶのなら頭を撫でる行動はちぐはぐな気もするが、彼に必要なのはこういう慈愛のような気がしていた。彼はきっとまだ、ゆらぎからもらった恋人としての愛情しか知らないのだろうから。
 ツルギはおとなしく撫でられながら、やっぱり泣き出しそうな表情のまま、どこか冗談めかして笑った。
「きみがぼくの義妹か……ゆらぎが聞いたら嫉妬しそうだ」
 くすりと笑いながら、彼はそっと私を抱きしめた。まるで幼い子どもが眠る前にぬいぐるみにするような、そんな抱擁だった。
「わかった。もうすこし、頑張ってみるよ。きみが、導いてくれるのなら」
「ひとりにはしないよ。言ったでしょう、ツルギの手の届かないところへはいかないって」
 私もそっとツルギを抱きしめ返して、彼を見上げた。憂いを振りきれてはいない瞳だったが、先ほどのぞっとするような翳りはなくなっている。
「現実逃避は、これでおしまいだね。……今日からは、ツルギとあさぎとして仲良くしよう」
 名残惜しさがないと言えば嘘になるが、お互いにもう、ゆらぎの幻影に縋って生きるつもりはないのはわかりきっていた。
「ありがとう、あさぎ」
 敬称をつけるのをやめた呼び方が、彼が前を向いた証のような気がして嬉しかった。思わず頬を緩ませながら、彼の手を引いて立ち上がる。
 ……ゆらぎ、私はあなたが愛したこの人を導くよ。
 再会は、もう少しだけ待っていてほしい。ゆらぎだって、今この瞬間に私にツルギの心を壊されることは望んでいないはずだ。彼女は愛するひとには幸せになってほしいと正しく願える、清廉な人だったのだから。
「あさぎ」
 ツルギはふと、私の手を引いた。どうやら、祭壇奥の崩れた窓ガラスのほうへ導いているようだった。あたりには、割れたガラス片が散らばっている。
「ああ、サンダルだから危ないね」
 ツルギは私の足もとを確認するなり、ひょい、と私を抱き上げた。両腕で膝を抱えられるように抱き上げられ、すぐに彼の首の後ろに手を回してバランスを保つ。
「ここに何かあるの?」
「うん、きみに見せたかったものだ」
 そう言って、彼は壁の隅に残されたまだかろうじて割れていないガラスの前に立った。
 それは薄緑のステンドグラスだった。綺麗だが、いったいなぜ私に見せようと思ったのだろう。
「そのガラスから、空をのぞいてみて」
 ツルギに言われるがまま、そっとガラス越しに空を眺めてみる。眩いほどの夏の光が、色ガラスでわずかにくすんで、直視できる程度になっていた。
「あ……」
 それは、浅葱色の空だった。いつかゆらぎが描いていたけれど、結局場所を教えてくれなかった空の絵だ。
 ……あれは、ツルギと永遠を誓った後に描いた絵だったんだ。
「ゆらぎはこの空を見つけて喜んでいた。きみの色だって。……妬けてしまうくらいに、彼女はきみが好きだったよ。これからは、ゆらぎとの思い出の品をぜんぶ、きみにも見せてあげたい」
 ひとつ、心残りが減ったような気がして、気持ちが軽くなる。ゆらぎの絵を見返したくてたまらなくなった。
「ありがとう。崩れてしまう前に、見られてよかった」
 そっとガラスに指を這わせる。この状態では、次来たときに残っているかは怪しいだろう。
 ここでゆらぎがはしゃぐ姿を思い浮かべるだけで、自然と頬が緩んだ。
 そうだ、ゆらぎが私たちに残して行ったものは寂しさだけではないはずだ。こうして思い出すだけで思わず微笑んでしまうくらいの愛しさを、彼女は刻みつけてくれた。
「帰ろうか」
 ツルギも同じような表情をしてひとしきりガラスを眺めた後、穏やかに切り出した。
「そうだね」
 ツルギは私を抱き上げたまま、ガラスが散乱する場所を歩いてくれた。ぱりぱりと、硬いものが割れる音がする。
「今まではゆらぎの好きなものばかり作っていたから、今夜はきみの好物を作りたいな。あさぎは何が好きなの?」
「トマトを使った料理以外は、だいたい何でも食べるんだけど、そうだなあ……」
 今までの様子を見ている限りツルギはどんな料理でも作れるようだから、せっかくなら自分ではまず作れないようなものをリクエストしたいところだ。
 彼に抱き上げられた状態で思い悩んでいると、ふと、入り口の扉が軋んだ音を立てて開くのがわかった。私たち以外の客人がやってきたのだ。
 入ってきたのは、小柄な少女のようだった。柔らかな茶色の髪をして、見慣れた制服を纏っている。ゆらぎの高校の制服だ。
 ゆらぎと同じ制服を纏った小柄な少女と聞いて、真っ先に思い浮かぶのはひとりしかいない。心がざわりと波打つのを感じ、思わずぎゅう、とツルギの服を掴んだ。
 向こうも何かに勘付いたのか、迷うことなく一直線に階段を登ってくる。階段の中程を過ぎたあたりには顔が見えて、相手が誰なのか確信を得た。
「ツルギ、おろしてくれる?」
 少女が階段を登り終えると同時に、私も床に足をつけた。彼女は明らかな敵意を滲ませて、わたしたちを眺めている。
 ……雪森ひな。
 ゆらぎの親友で、景の従妹で、高校で私とツルギの関係をわざわざクラスメイトに話した相手だ。ゆらぎのスケッチブックに描かれていたくらいなのだから、ゆらぎにとって大切な人であることは間違いないのだろうが、心穏やかに対峙できる相手ではなかった。
「よりにもよって今日この場所に来るなんて……あなたはどれだけ実の姉を愚弄するつもりなの? 橘あさぎ」
 雪森さんは、今にもつかみかかりそうな敵意を滲ませて私を睨みつけた。思わず萎縮してしまうほどの鋭い眼差しだ。
 今日、この日に何か特別な意味があったのだろうか。ゆらぎにまつわる記憶を辿るも、それらしいものは見当たらない。
「黙っててごめん。実はゆらぎとここにきたのが、ちょうど去年のこの日だったんだ」
 ツルギが、申し訳なさそうに教えてくれる。ゆらぎと永遠を誓ったのと同じ日に、彼は心を手放したかったのかもしれない。
「そうだったんだ……」
 雪森さんは、きっとゆらぎからツルギと恋人になった日のことを聞いていたのだろう。それでゆらぎを偲ぶ意味も込めて、ゆらぎにとって思い入れのある場所を訪ねたのだ。
「雪森さん、この通りあさぎは知らなかったんだ。あさぎを責めないでほしい」
 ツルギはそっと私の肩を引き寄せて庇ってくれた。だが、その行動が彼女の怒りに余計に火をつけたようだ。
「あなたも、なんなの。ゆらぎが死んだ途端に妹に乗り換えるなんて。同じ顔なら誰でもいいわけ?」
「誤解だよ。私とツルギはそんな関係じゃない。今日だって、ゆらぎを偲びにきたんだよ。雪森さん、あなたと同じで」
 ツルギの手から離れて、雪森さんに向かいあう。だが、彼女は私の言葉などまるで信じていないのか、唇を歪めて嘲笑に近い笑みを浮かべた。
「清廉そうな顔をして、あなたもやるわね。そう言って、景のことも誑かしたんでしょう」
「景とはちゃんと話をするよ。……それこそ、あなたに踏み入ってもらいたい領域じゃない」
 いくら景の従妹でも、私と景の関係を邪推して欲しくなかった。
 思わず睨むように雪森さんを見返せば、彼女ははっとしたように目を見開いた。
「すごい……怒った顔はゆらぎにそっくりなんだ……」
 そう言ってからくしゃりと、雪森さんは顔を歪ませた。憎悪にも似たやり場のない怒りと底なしに悲しみが入り混じった表情だ。
「ねえ……他にはどんな表情があるの? ゆらぎとそっくりな顔は、あといくつある?」
 ふらり、と雪森さんは私に近づき、無造作に私の両肩を掴んだ。爪が肌に食い込むほどの強い力で。
「っ……雪森さん?」
「ゆらぎの彼氏さんもずるいなあ……こういう顔があるから、妹さんのこと捕まえたんだ。いいな、独占しないでよ。私にも見せて? 全部見せてよ、ゆらぎとそっくりな顔」
 ゆらぎに対する友情を超えた執着を感じて、ぞわりとする。
 ゆらぎは、一体どれだけの人間の心を奪って生きていたのだろう。
「やめてくれ、あさぎが怖がってる」
 ツルギが間に入ろうとしてくれたが、雪森さんは手の力を緩めなかった。むしろ一層肌に爪を食い込ませて私との距離を詰める。
「ねえ、ゆらぎ、戻ってきてよ。ゆらぎがいないと、私は幸せな物語を書けないの。ゆらぎがいないと、みんな悲しい、救われない物語しか書けないの。ねえ、約束したでしょ。ふたりで世界一幸せな結末の絵本を作るって。ねえ……約束したのに……」
「雪森さん……」
 この人も、私やツルギと同じくらいの寂しさと虚しさを抱えているのだ。それも、おそらくは今日までひとりきりで耐えてきたのだろう。
 あの日、彼女と美術館で初めて会った日に、私がきちんとゆらぎの妹として対応して、雪森さんに誠実な対応をしていれば、何か変わっていただろうか。ゆらぎを失った悲しみをわかちあう仲間として彼女の話を聞いて、お互いに心をわずかにでも軽くすることができただろうか。
 私がゆらぎのふりなんてしていたせいで、彼女の悲しみはどんどん膨らんでいったのだ。分かち合う機会は、何度もあったのに。
「雪森さん……今まで、仲間外れにしてごめん。話をしよう? ゆらぎのこと、もっと聞かせてよ。私とツルギと三人で、ゆらぎを偲ぼうよ」
「やだ! やだやだやだ! ゆらぎが死んだなんて嘘だもん……! 勝手に思い出の中のひとにしないでよ……!」
 子どものような駄々をこねて、彼女は叫んだ。大きな瞳には、涙が滲んでいる。
 ……ああ、同じだ。
 彼女は現実逃避に溺れていた数日前までの私と同じなのだ。彼女の錯乱を、とても他人事とは思えなかった。
 それはツルギも同じなのだろう。かける言葉は見つからないながらも、痛ましいものを見るように雪森さんを見守っていた。
「ねえ、そんな目で見ないでよ! ゆらぎみたいに、あのひまわりみたいな明るさで笑ってみせて? 私をひなって呼んでよ!」
 現実逃避に溺れていた私であれば、彼女の言葉にも応じただろうか。でも今の私はもうわかってしまった。私がゆらぎを演じることは、自分や相手の悲しみを拗らせて、現実を受け入れるべき瞬間を先延ばしにしているだけに過ぎないのだと。
 ここで私がゆらぎのように笑いかけることは、目の前の彼女の一時的な寂しさを救うことはできても、きっと本当の意味で寄り添うことにはならない。
「ごめん、雪森さん……それはできないよ」
 真っ直ぐに彼女を見つめて、できるだけ静かな声で告げた。ゆらぎとは、きっと似ても似つかない振る舞いだろう。雪森さんからしてみれば、拒絶されたように感じるかもしれない。
「ずるいよ……その男の前ではゆらぎのふりをしてあげたくせに、私の前ではしてくれないの?」
 ぽろぽろと涙を流しながら、彼女は私をすがるように見つめていた。対して仲良くない相手だとは言え、こんなふうに泣かれるとこちらもつらい。
「……私がゆらぎのふりをすることは、誰のためにもならないって気づいたの。もちろん、ここにいるツルギのためにも。……だから、ごめん」
 すっと、雪森さんの纏う雰囲気が冷え切ったような気がした。いつか景を突き放したときに見た、あの深い翳りにも似ている。
「そっか……あなたはもう、先に行っちゃったんだね。ゆらぎの彼氏さんと一緒に。私だけが、取り残されちゃったんだ」
 何かを悟ったような彼女の瞳は、暗く沈み切っていた。まるで月のない夜の海を見ているようだ。
「置いていかないよ。……私たちと一緒に話をしよう。ひとりには、しないから」
 肩を掴まれた状態のまま、そっと彼女に手を差し出す。その手を見て、雪森さんの瞳がわずかに揺らぐのがわかった。
 私の話に少しは心を開いてくれたのか、と思ったのも束の間、彼女は思い切り私の手を振り払った。
「いいよ、いらない。ゆらぎのいない未来に進もうとするあなたたちは、私には必要ない」
 突き放されるように手を振り払われたせいで、バランスを崩してしまった。足で踏ん張ろうとするも、慣れないサンダルのせいでうまくいかない。
 ぐらりと体が傾いていった先は、あの長く白い階段だった。
 ……え?
 浅葱色の空が遠ざかっていく。訳もわからぬまま、次の瞬間には殴られたような衝撃に襲われていた。
 視界が、ぐらぐらと揺らめく。あちこちを酷く打ち付けているのがわかった。息もつけないままに、衝撃に堪えることしかできない。
「っ……う」
 体が投げ出されるような感覚を最後に、ようやく衝撃が終わった。あの長い階段を、いちばん下まで転がり落ちたようだ。視界がぐらぐらとゆらめいているが、どうにか意識は保っている。
 手探りで床に手をついて、ゆっくりと状態を起こす。その際に、ふいに何か温かなものに触れた。
「え……?」
 そこには、細かな部品を撒き散らして横たわるツルギの姿があった。力無く体を床に投げ出しているというのに、その右手はしっかりと私の腕を掴んでいる。
 すぐに悟った。彼は、私を庇って一緒に転がり落ちたのだ。
「ツルギ!」
 私が意識を保っていられたのは、彼のおかげなのだろう。私の代わりに衝撃を受け続けた彼の体は、あちこちが破損していた。
「ツルギ……!」
 ああ、これが人の体だったらせめて、応急処置ができたのに。私は機械の体のことなどまるでわからない。震える手で思わず、あたりに散らばった部品をかき集めた。
「あさぎ……」
 ツルギは横たわったまま、力なく私の名前を呼んだ。思わず、彼の顔を覗き込む。
「ツルギ……! なんて無茶を……!」
 ツルギの手が、震えながら私の頬に伸びる。そうして、慈しむように撫でられた。
「よかった。今度は……間にあった」
 心底安堵したようにツルギは微笑んで、そのまま静かに目を閉じた。エラーを知らせるような聞き慣れない音が、ツルギの体から響いている。
「ツルギ……? ツルギ!」
 思わず彼の体を揺さぶるも、もう、彼は答えてくれなかった。
 ぽたり、と彼の頬に涙が落ちる。まるで彼が泣いているように見えた。
「ツルギ……! ツルギ!!」
 広い教会の中に、私の絶叫だけがこだましていた。神様とやらがいるのなら、あまりに残酷だ。前を向いて手を取り合って生きていこうとした相手を、こんなにもあっさり奪ってしまうなんて。
「ツルギ……置いていかないで」
 彼の体に縋って、泣きじゃくる。ツルギは白い光の中で横たわったまま、やっぱり答えてはくれなかった。