ゆらぎ

第六章

 祝砲とともに、学祭が幕を開けた。
 ステージ発表、模擬店、各部活の発表と三日間の日程は休む間もなくさまざまなイベントで目白押しだ。どれだけ欲張っても、すべてを見て回ることはできないだろう。
 学祭の参加者は全校生徒の他に、その親類、友人、今年の職業適性検査で「医師」の判断を受けた来年入学してくるはずの少年少女たちとさまざまだ。
 私たちのクラスはステージ発表まで、ぎりぎりまで稽古を続け、小道具の不具合があれば直す必要があるくらいで、比較的自由な時間が多かった。どのグループも、交代で学内を見回っているようだ。
 小道具班のリーダーは気を利かせて景と同じ時間に私の自由時間を取らせようとしたが、全力で断った。
 今、景に捕まったら、きっと私とツルギの関係を明らかにせねばならなくなるだろう。景をうまく誤魔化せるほど、私は演技上手ではなかった。
 私には回りたい場所も、落ち合いたい友人もいないため、他の人の代わりになるべく小道具の修正や雑用を引き受けることにした。みんなには感謝されたが、逃げるための言い訳に使っていることがむしろ申し訳ないくらいだ。
「け、い! あそびにきたよー!」
 見覚えのある愛らしい少女が教室に飛び込んできたのは、一般公開が始まった学祭二日目のことだ。本来ステージ発表のクラスの教室には、学生以外の立ち入りは許されていないのだが、その子はどうやら景の居場所を嗅ぎつけてやってきたらしい。
「……ひな、来てたなんて知らなかった」
 景に飛びつく勢いだった少女の肩を押さえ、景が目を丸くする。
 肩を掴まれた少女は、柔らかな栗色の髪を揺らしてにこりと明るい笑みを見せた。
「サプライズ! ふふ、学祭だって言うから思わず来てみたけど、発表は明日なんだね。王子さまは景がやるんでしょ!」
「違う、俺は裏方だ」
 ……雪森ひな。
 忘れるはずもない。いつか美術館で出会い、ゆらぎのスケッチブックにも描かれていたゆらぎの親友だ。ゆらぎと同様に芸術科に通っているはずだが、景とつながりがあるなんて知らなかった。
 クラスメイトたちは、にわかに飛び込んできた美少女に釘付けになっているようだった。よく耳をすませば、ひそひそと噂話が聞こえてくる。
「あれって……雪森ひな? モデルの?」
「本物初めて見た! ほっそいなあ、かわいい」
 景の腕にしがみつくようにしてにこにこと笑う雪森さんは、確かに可愛らしかった。噂話をしていた女子だけでなく、景の友人である男子学生たちも彼の周りに群がる。
「星川、雪森ひなと知り合いなのか?」
「まさか、彼女じゃないよな……!?」
 皆の注目を一心に浴びて、景はうんざりしているようだった。
 彼は本来、注目されるのが苦手なのだ。その性質に反して、人目を集めてしまうようだけれども。
「違う……ひなはいとこだ」
「いとこ……?」
 それは、私も初めて聞いた。そもそも雪森さんがモデルであることも今知ったところだ。ゆらぎはそんなこと口にしていなかったし、私はほとんど芸能情報を仕入れないせいで雪森さんと出会ったことがあるにもかかわらず彼女の仕事にも気づけなかった。
「初めまして! 景のいとこの雪森ひなです!」
 眩しいばかりの笑みを浮かべて、ひらひらと手を振る。こうしてみれば、景とわずかに目鼻立ちが似ている気がした。
 クラスメイトたちが、雪森さんのもとへ押し寄せる。私も彼女と会ったことがなければ近付いてみたいと思ったかもしれないが、どうしても無理だ。今顔を合わせれば、いつかの話の続きをされるに決まっている。
 しかも、景のいとこだ。私の存在に気づかれれば、余計にツルギの話題は避けられないだろう。
 雪森さんは私がゆらぎの恋人であるツルギを奪ったのだと思い込んでいるし、景も景でツルギが私をゆらぎ呼ばわりしていることに気づいている。ふたりが話題を共有してしまったら、ますます責められるのは目に見えていた。私はまだ、あの愛しい現実逃避を手放したくない。
 学祭に向けてクラスで作ったパーカーのフードを、そっとかぶる。大道具の影に隠れて作業をするふりをして、なんとか雪森さんの目に留まらないようにした。機会があれば、教室を出て行きたいところだ。
「景! この子すっごくかわいい! 景の彼女?」
 雪森さんが、驚きの声をあげる。大道具の陰からちらりと確認すれば、雪森さんが相澤さんの手を取っているところだった。
「違う。この人は学祭の実行委員の相澤さんだ」
「ええー? こんなにかわいいのに、景とよくお似合いだよ!」
 雪森さんは相澤さんの手を引っ張って、景の隣に並ばせた。
 雪森さんの手の力が強かったのか、ふらりとバランスを崩した相澤さんの肩を、景がそっと支える。
「ひな、やめろ。明日が本番なんだ。役者に怪我させるな」
「ごめんごめん、でもほら、やっぱりすっごくお似合い!」
 雪森さんは景と相澤さんの並びを見て、興奮しているようだった。
 確かに、ふたりはとてもお似合いだ。クラスメイトたちも、それに同調するように口々に何か囁いている。
「確かに星川くんと相澤さん、結構いい感じじゃない?」
「お似合いなのは間違いないよね」
 相澤さんは、どこか気恥ずかしそうに景の隣で微笑んでいた。雪森さんにも応援され、嬉しいのだろう。期待するようなまなざしで、景を見上げている。
「ひな、いい加減にしろ。相澤の気持ちも考えずにそんなことを言うな」
「そうかなあ、嫌そうには見えないけど」
 雪森さんはいたずらっぽく微笑んで、ふたりを眺めていた。思ったよりも、奔放な性格なようだ。ゆらぎならばうまく付き合えるのかもしれないが、苦手な部類だった。
「あれ……景、そのキーホルダー……」
 景の足もとに置かれていた鞄をみて、雪森さんはしゃがみこむ。そうして、鞄にぶら下がったクローバーのキーホルダーをつついた。
「アマガタヒイロのやつだ! かわいいー! 景、好きだったっけ?」
 なんだか、嫌な予感がする。そのキーホルダーには気づいてほしくなかった。
「いや、貰い物だ。……あんまり触るな」
「貰い物? ふうん……」
 雪森さんが、ぐるりと教室内を見渡す。さすがは景の親族とでも言うべきか、勘の良さは彼に負けていないようだ。
 そのとき、ちょうどよく自由時間を楽しんできた小道具班のリーダーが教室に戻ってきた。雪森さんの存在には気づかないまま、私が番をしていた小道具の置き場までやってくる。
「橘さん、お疲れ! 橘さんも少し見て回ってきたら? 三年の模擬店のケーキがおいしかったよ」
「行きたい、ありがとう」
 今までなら遠慮するところだが、食い気味に了承してリーダーと入れ替わるようにして教室をあとにする。廊下に出てようやく、一息つけたような気がした。
 ……会いたくない人が増えちゃった。
 あの様子では、雪森さんは明日も顔を出すのだろう。景とも彼女ともふたりきりになりたくない。小道具の搬出の役割がなければ、迷いなく明日の欠席を決めるのに。
 ……仕方ない、あと一日だもん。
 自分に言い聞かせるようにして、人目を避けて廊下の隅を歩く。
 陰で息をすればするほど、家の中にさした西陽のなかで微笑むツルギが恋しくなった。
 早く、あの家に帰りたい。一日の目標がそれにすり替わってしまうほどに、ここから逃げ出したくて仕方がなかった。

 ◇
 
 どうにか景と雪森さんを避け続け、ついにステージ発表の日を迎えることができた。私たちの順番は昼過ぎで、その後は後夜祭に向けた準備と、後夜祭本番だ。今日も予定は詰まっていた。
 朝から最終確認に追われ、クラス全体が本番前独特の緊張感に包まれている。張り詰めるような空気だが、今の私にはありがたい。私にも、他の誰にも余計なことを考える余裕はなかった。
「この二週間の成果を出し切りましょう。絶対に素敵なステージにしようね!」
 本番五分前、クラス全員で円陣を組みながら、実行委員である相澤さんはよく通る声で呼びかけた。今はぼろぼろのワンピースを衣装として纏っているが、誰より輝いて見える。
 相澤さんの号令を最後に、各グループはすみやかに持ち場についた。私は小道具の製作班だが、搬出作業があるためステージ裏に待機だ。暗転のタイミングでスムーズに、間違えないように運び出さなければならない。
 裏方の総指揮は景が取っていた。練習でも、ほとんど間違えたことはない。彼に従っていれば完璧な劇になるはずだ。
 ブザーと共に、臙脂色の幕が開いていく。ステージ奥の壁一面に配置されたスクリーンに、背景が映しだされた。ついに、開幕したのだ。
 舞台の中心で、相澤さんは幸の薄い不遇な少女を演じている。ただの学生にしては、きっと演技は上手いほうだろう。舞台袖からも、観客が相澤さんに釘付けになっているのがわかる。スポットライトを浴びて、彼女はきらきらと輝いていた。
 ……告白は、今日の夜にでもするのかな。
 確か彼女は景への告白を宣言していたはずだ。後夜祭の花火大会は、まさにぴったりだろう。浴衣姿の相澤さんと景が並び立つ光景を思い浮かべて、わずかに頬が緩んだ。景が、今よりもっと幸せになれたらいい。
 暗転したのを機に、急いで小道具を運び出す。薄暗がりの中でも間違いがないように、短い時間で確認をして、急いで舞台袖に戻った。
 何度もやったことなのに、薄く汗ばむほどに緊張している。だが、悪い気分ではなかった。
 舞台は、なんの問題もなく完璧に進んでいった。そうして最後に、王子役の柚原くんが相澤さんにガラスの靴を履かせて、劇は終幕を迎える。
 ……無事終わってよかった。
 舞台袖からほっとしたような心地で、ステージに並びお辞儀をする役者チームを見守る。割れんばかりの拍手が、私も自分のことのように嬉しかった。
 ふと、柚原くんに引っ張られるようにして、景も役者チームのみんなと共に並ばされ、礼をした。裏方代表の挨拶なのだろう。相澤さんと隣に並んだからか、会場がさらに盛り上がる。ふたりは他のクラスからも公認のカップル候補らしい。
 後ろ姿しか見えないから表情はわからないが、きっと照れたように笑っているだろう。そう思えば、私も嬉しいような気がした。
 だがその瞬間、役者チームたちの後ろで、樹木を模した大道具がぐらついているのが見えた。電子スクリーンに表示された背景のほかに大道具を使うことで、立体感をより演出したのだ。いつか、私が必死に緑色に塗ったベニヤ板が使われていた。
 声を出すまもなく、それは役者チームのほうへ倒れ込んでいく。会場から、悲鳴が上がった。役者チームもとっさに振り返り、表情を引き攣らせる。
 大道具は、運悪く相澤さんのほうへ倒れ込んでいた。みるみるうちに傾いていくそれを前に、相澤さんは驚いたように固まってしまい動けない。そんな相澤さんを、さっと大きな影がさらった。
 悲鳴と共に、大道具が倒れる。鈍い衝撃音に驚いて、思わず目をつぶってしまった。会場は大混乱だ。
 恐る恐る目を開けてみると、大道具のそばには、相澤さんを庇うように抱き抱えた景の姿があった。倒れ込んだ大道具は景の左肩に当たったのか、右手で肩を押さえている。初めて見るような苦悶の表情だった。
「景!」
 思わず駆け寄ろうとするも、庇うように抱き止められていた相澤さんのほうが早かった。
「星川くん!? 大丈夫!?」
 相澤さんが血相を変えて景の顔を覗き込む。景は痛みを堪えるようにわずかに息を吐いて、それからなんでもないように笑った。
「平気だ。脱臼しただけだと思う。……相澤は怪我ないか?」
 相澤さんを安心させるように微笑んでいるが、額には薄く汗が滲んでいた。
「私は平気だけれど……でも、星川くんが……!」
 取り乱す相澤さんを落ち着かせるように、他の役者たちが駆けつけてくる。柚原くんの手を借りて、景は立ち上がった。
 景の勇気を讃えてなのか、会場から静かに拍手が上がる。
「たいした人だね、星川くんは」
 隣で小道具班のリーダーが感心したように呟く。舞台袖に控えていた女子たちは、早速ひそひそと噂を始めていた。
「いまのは流石にちょっとかっこよかったね」
「身を挺して相澤さんを庇うなんて……星川くんもやっぱり相澤さんのこと……」
 そっと、舞台袖から去り、景の後ろ姿を追った。舞台から降りたころにはいくらか痛みに慣れてきたのか、柚原くんの手を借りずにひとりで歩いている。
 みんなはわかっていない。景は、相手が誰であっても助けたはずだ。もちろん相澤さんに気があって、傷つけたくないという思いもあったのかもしれないが、あの場にいたのが柚原くんでも、他の裏方でも、私であっても、変わらず庇ったはずだ。そういう人だと、私は知っている。
 ――ろくに前を見ずに走るから転ぶんだろ。いいから乗れ、運んでやる。
 遠い昔、膝を擦りむいて泣いている私に背を向けてしゃがみ込み、ぶっきらぼうにそう告げた景の姿が蘇る。泣いていたせいで彼の表情はわからなかったけれど、きっと先ほどとそう変わらない微笑みを浮かべていたはずだ。
 心配そうに景につきそう相澤さんの姿を見て、心の一部分が空っぽになったような気がした。景に背負われて家まで帰ったあの夕暮れは、きっともう一生来ないのだ。
 ……いやだな。
 やはりこの現実は、つらいことばかり繰り返される。私があさぎでいるかぎり、悲しいことばかり降りかかってくる。
 ……帰りたい、早く、早く、ツルギのところへ。
 溺れるような息苦しさを感じて、くるりと踵を返す。息ができないような心地のまま、無我夢中で舞台の後始末に取り掛かった。

 ◇

「おかえり、ゆらぎ。浴衣の準備はしてあるよ」
 家に帰るなり玄関口で出迎えてくれたツルギの言葉で、はっと我に帰った。ずっとぼんやりとしていたせいで、午後の記憶がほとんどない。確か景は、病院へ向かったのだということだけは辛うじて把握していた。
「あ……ただいま、ツルギ」
 通学用の鞄を受け取り、彼はそのまま私の部屋へ向かった。姿見も鏡台もあの部屋にしかないから、そこで着付けをしてくれるつもりなのだろう。
 後夜祭の開始までは、まだ一時間ほど残されている。学校で着替える人もいるようだが、こうしていちど帰って支度をしてくるクラスメイトも多いようだった。景が後夜祭に参加できるかは、脱臼の程度と治療にかかった時間次第だろう。
 壁際には、今日着る予定の白地に赤と青の草花が描かれた浴衣がかかっている。その隣に同じようにかけられたベージュのインナーをまず着れば良いのだろう。
「ツルギ。ちょっとだけ、あっち向いてて」
 流石に下着姿を見られるのは憚られる。ツルギは従順に私の言葉に従って、壁へ向き直った。その隙に制服を脱ぎ、インナーを纏う。これでも心許ない格好だが、浴衣を着付けてもらう以上仕方がない。
「もう大丈夫だよ」
 私の声を合図に、ツルギは浴衣を持って早速振り返った。わずかな間もなく、まず浴衣を肩にかけてくれる。
「ゆらぎ、袖に手を通してくれる?」
「うん」
 ツルギの指示に従って、手を挙げたり下げたりを繰り返す。彼は無駄のない動きで、一部の乱れもなく浴衣を着付けてくれた。お腹のあたりに赤い帯を巻かれ、背中で結ばれる。
「どうかな、苦しくない?」
「平気だよ。さすがツルギ、完璧だね」
 姿見の前で、くるりと回転して確認する。きっちりと結ばれた帯は、そう簡単に解けることはなさそうだ。近ごろ流行っているようなふわふわとした帯ではないが、昔ながらの結び方が気に入っていた。
「じゃあ次は髪を結い上げよう。ここに座って」
 ツルギに促されるままに鏡台の前に座る。ゆらぎを真似て高い位置でひとつにまとめていた黒髪が、するりと解かれた。肩にタオルを乗せられ、それから結び癖をならすように櫛を通される。
 とても、繊細な手つきだった。間違っても傷つけまいとするような、そんな優しさを感じる。ツルギがいかにゆらぎを大切にしていたか、またひとつ伝わってきて、胸が絞られるように苦しくなった。
「今までにアップロードされた浴衣に合わせた髪型にまつわるデータを一通り読み込んだよ。ゆらぎは髪も長いし、だいたいどんな髪型でもできると思うけど、どうする?」
 ゆらぎなら、どうするだろう。動きづらい服や髪型を嫌っていた彼女が何を選択するのかまるで検討がつかない。幼いころ家族で花火大会に行ったときには、お揃いのツインテールにしていたが、きっと今は選ばないだろう。
「ツルギが、選んでいいよ。私に似合うと思う髪型で」
 本来のAIの役割を超えた命令をしていると、自分でも思った。だが、ツルギはきっと応えてくれるはずだ。
「わかった。任せて」
 ツルギは器用に髪を何束かに分けると、複雑に編み込みながら後ろでまとめていった。一部の乱れもないところが、本当にアンドロイドらしい器用さだ。
 十分も立たないうちに、髪は綺麗に結い上がった。後ろでまとめられた部分に、帯と合わせた赤いりぼんがくくりつけられる。
「できた。どうかな」
 ツルギに促され、首を軽く左右に振って確認する。完璧だ。両サイドの髪は三つ編みに編み込まれ、曲線を描いて後ろでまとめられている。
「すごい、ツルギはなんでもできるね」
 ゆらぎを意識して満面の笑みを浮かべれば、ツルギが鏡越しに私をじっと認め微笑んだ。
「そうだよ。ぼくは、ゆらぎのためならなんでもできるよ」
 愛にも忠誠にも似た言葉に、またすこし、切なくなる。そんなものツルギにあるはずないと、深く考えもせずに突き放していたころが懐かしかった。
 返す言葉に迷って、窓の外を見やる。夕暮れだというのに、空は薄暗かった。絶好の花火日和とは言い難いだろう。
「夜遅くなるようなら、迎えにいくよ」
 ツルギはヘアピンや櫛を片付けながら申し出た。ありがたい提案だが、万が一にも景や雪森さんと遭遇してほしくない。ツルギと一緒にいるところを再び見られれば、絶対に言い逃れできなくなることは目に見えていた。
「ありがとう、でも平気。バスの臨時便が出る予定だから、みんなと一緒にそれに乗るよ」
 鏡台の前から立ち上がり。改めて姿見の前で浴衣姿を確認する。いつもと違う格好であるせいか、ゆらぎと思えばゆらぎにしか見えない。
 思わず、そっと鏡に手を触れて、微笑んでみた。ゆらぎが、笑いかけてくれている。
「わかった。じゃあ、食事を用意しておくよ。くれぐれも気をつけてね。今日のゆらぎは、いつもにも増してかわいいから」
 鏡の中を覗き込むようにして、ツルギも隣に並び立つ。彼は明らかに私ではなく、鏡の中の「ゆらぎ」を見ていた。ふたりとも、縋り付くものは同じだ。
「ふふ、知らなかった。ツルギはお世辞も言えるんだね」
「お世辞なんてとんでもない。AIらしい客観的な判断だよ」
 どこか冗談めかした調子でそういうと、ツルギは赤い巾着を差し出してくれた。中にはすでに携帯用端末と、ハンカチが入っている。
「ありがとう」
「楽しんできて、ゆらぎ。いい思い出が作れるといいね」
「……そうだね」
 本当は、新しい思い出などいらないのだ。ゆらぎが生きているふりをしている、この優しい部屋の中以外の思い出なんて、いらない。
「行ってきます」
 慣れない下駄を履いて、玄関口でツルギを振り返る。彼は慈しむように私を見つめながら静かに手を振った。まるで「ゆらぎ」の浴衣姿を目に焼き付けようとするかのような、優しいまなざしだ。
 ひとたび外へ出てしまえば、優しい時間は終わってしまう。生ぬるい夏の風が、呼吸を奪うようなしつこさでまとわりついていた。

 ◇

 再び高校へ戻るころには、雲行きはすっかり怪しくなっていた。ただ雨は降っていないため、花火は予定通り打ち上げられることになったらしい。窓辺で他のクラスの学生たちが、安堵したようにそう話していた。
 後夜祭が始まるまでは、ほとんどの学生が教室で待機しているようだ。他に行く場所もないので、私もそれに倣うつもりでいた。
 教室に入るなり、巾着から端末を取り出して、景にメッセージを送る。怪我を心配するだけの簡潔な一文を打ち込んで、小さく息をついた。
 きっと、景のご両親が経営している病院へ運ばれたのだろう。確実に適切な治療を受けられる場所だから、何も案じることはないのだが、どこか落ち着かない。教室の中心で笑っていた彼の姿がないだけで、ここはひだまりを失ったように寒かった。
 ふと、相澤さんの友人らしき女子たちが、ちらちらとこちらを見ては怪訝そうな顔をしている。褒められているような雰囲気ではない。
 気まずさを覚えてなんとなく視線を逸らすと、向こうから私のほうへわざわざ歩み寄ってきた。皆、すでに華やかな浴衣姿だ。
「橘さん……雪森さんから聞いたんだけど、亡くなったお姉さんの恋人と付き合っているって本当?」
 雪森ひなが黙っているわけはないと思っていたが、話を聞いた本人たちから直接問われるとは予想していなかった。皆、陰口を叩くよりも正々堂々と問題を解決しようとしてくるから厄介だ。その妙な清廉さが、時折どうしようもなく居心地が悪くて仕方がない。
「亡くなったお姉さんの恋人を奪うなんて……。しかもそんな状態で星川くんと仲良くしてるのも、桜子に悪いと思わない?」
 誤魔化すように静かに微笑みを浮かべるも、言葉が出てこない。
 彼女たちに怯えているのでもなく、悔やんでいるでもなく、ただ億劫だった。少なくとも、相澤さんに悪いなんてすこしも思っていない。
 これは、私とゆらぎとツルギの、三人の問題だ。どんな正義感が理由でも、他の誰にも踏み込んでほしくなかった。そして私の世界に、心に住んでもいない相手に、それを伝える必要性は感じない。
 取り繕った笑みを消して、目の前に立ち並んだ女子たちを見上げる。
「心配しないで。私は誰も傷つけるつもりはないよ」
 傷つけたいと思うほどの執着なんて、この場所にもここにいる人々にもないのだ。空気のように溶け込んで、いないもの同然で日々を過ごすから、放っておいてほしかった。
「何、それ……私たちは」
 何か言いかけた女子たちの言葉を遮るように席を立って、教室を出た。
 このまま帰っても良かったが、せっかくツルギが支度を手伝ってくれた浴衣姿が勿体ないような気がして、人気のない場所を探して彷徨った。校庭は、花火を鑑賞する絶好のスポットだ。クラスメイトたちもほとんどがそこへ集まるだろうから、きっといづらいだろう。
 結局たどり着いたのは、校庭の隅にある倉庫の横に設置された古びたベンチだった。景とたまに過ごす人気のないベンチだ。ここからでも、じゅうぶんに花火は見られるだろう。
 ささくれたベンチに腰を下ろして、巾着を膝の上に乗せる。降り出してもおかしくないような厚い雲をひとりでぼんやりと見上げた。
 どのくらいそうしていたのかわからないが、校庭のほうから何かをアナウンスするような音声と音楽が流れてきた。学生たちの完成のような声が上がったのを機に、空に大輪の花火が打ち上がった。緑、桃色、黄色と曇り空にも華やかだ。
 あれは炎色反応だから、ゆらぎに聞かずとも正確な色の名前を当てることができるだろう。それともゆらぎの目から見れば、私の知らない他の素敵な色を連想して、聞いたこともない色名を教えてくれるのだろうか。
 ――ね、あさぎ、綺麗だね! あの花火は、青磁色って言ってもいいかも!
 目を瞑れば、ゆらぎが隣ではしゃいでいるような気になって、思わず頬が緩んだ。どんどん、と響く花火の音が心地よい。ゆらぎが隣にいる夢に浸れるのならば、花火も、どんなに綺麗な景色も捨てて、暗闇に囚われていてもいい気がした。
 次は、どんな言葉をくれるだろう。私が黙って微笑んでいても、彼女は新しい話題を見つけておしゃべりをやめないから、すぐに新しい言葉を口にするはずだ。
「花火が打ち上がっているっていうのに、目を瞑っているのはお前くらいなものだろうな、あさぎ」
 頭上から降ってきた澄んだ低い声に、ゆっくりとまつ毛をあげる。
 そこには、制服姿の景の姿があった。左腕を、三角巾で固定している。
「景……ここにきて大丈夫なの、怪我は?」
「やっぱりただの脱臼だった。整形で整復してもらって、鎮痛剤もらって終了だ。また来週見せに行かないといけないけどな」
 通院とは言っても、実家に近い場所なのだからそう苦労はしないだろう。ひとまず、骨折や腱の断裂がなかったようで一安心だ。
「すっかりクラスのヒーローになっちゃったね。……こんなところにいないで、みんなのところへ合流しなよ。きっと景を待っているよ」
「あさぎは? 行かないのか?」
「私はここがいいの」
 間を空けずにどんどん、と打ち上がる花火を見上げる。少し距離は離れているが、花火を鑑賞するにはじゅうぶんだ。案外、穴場かもしれない。
「確かに、周りが静かで悪くないな」
 景は校庭のほうへ向かうそぶりすら見せず、私の隣に腰を下ろした。
 小さなベンチだから、ふたりで並んで座れば肩が触れそうだ。幸い彼は私の左側に座ってくれたから、怪我をしたばかりの左肩に触れる心配はなさそうだ。
「浴衣、似合ってるな。その髪も、すごくきれいだ」
 景に指摘されて、そっと自分の姿を見下ろす。ツルギの着付けはやはり完璧で、どこも緩んだり乱れたりしていなかった。
「ありがとう。景は浴衣を着られなくて残念だったね」
「見たければ、今度は街の花火大会に行こう。夏休み中にあるだろう」
 ぼんやりと、想像してみる。浴衣姿の景とともに、屋台の並ぶ通りを巡って、焼きそばやりんご飴を買って、川辺に座り込んで花火を見上げるのだ。どこをどう切り取っても美しく、素晴らしい時間になるであろうことは簡単に予想がついた。
「……そうだね、楽しそうだね」
 空を見上げたまま、ぼんやりと答える。
 断る理由もないのに、気が進まないのはきっと、ゆらぎであれば絶対にしない行動だからだ。ゆらぎは、景とふたりで花火大会に行ったりしない。本当なら、ふたりで並んでこうして学祭の花火を見上げることもしない。
 景と過ごす時間を選ぶことは、ゆらぎが生きているふりをして生み出すあの優しい時間との決別を意味しているようでならなかった。正しい道がどちらかなんてわかりきっているのに、どうしても踏み出せない。あの愛しい現実逃避を捨てることができない。
「遠回しな拒絶と受け取るべきか?」
 勘のいい彼は、ここでそうだと言えば距離をとってくれるのだろう。すぐに認めてしまいたいのに、どうしてか言葉がうまくでてこない。景は、それだけ特別な存在だった。
 私の答えを待つ間もなく、景は畳みかけた。
「あの壊れたアンドロイドのせいで、ひとりになろうとしているのか?」
 どん、どん、と花火が遠くで響いている。景の肩越しに見える遠くの空で、ぱらぱらと火花が散っていた。息を呑むほど、美しい景色だ。
 いつまでも言い逃れなんてできないのだろう。明確な拒絶すらも言葉にできないのなら、せめて事情を話さなければきっと彼は私を放っておいてなどくれない。
「ツルギは……壊れてなんかないよ」
「でも、お前をゆらぎと呼んでいた」
「ほら、私とゆらぎは一卵性の双子だから。アンドロイドの持ち主は遺伝子情報で照合しているから、同じ遺伝子を持つ私をゆらぎと思い込んでいるだけなんだよ」
 いかにもそれらしく、淡々と説明する。もちろんこんな言葉で、景が納得してくれるはずもなかった。
「そんなの、数分で訂正できる。それこそゆらぎのお母さんに頼めばすぐだ。俺が聞きたいのは、なぜあさぎがそれを修正しようとしないのかだ」
 夜空に散った赤や黄色が、何重にも膜を張ったように色褪せて見えた。
 火薬の匂いがしなければ、まるで夢でも見ているような心地だ。
 だからだろうか。ずっと口にできなかった言葉が、不思議なくらいするすると紡ぎ出されていく。
「……ツルギが私をゆらぎと呼ぶ間はね、ゆらぎが生きているような気がするの。ゆらぎの好きな食事が出て、ゆらぎが好きな本や絵が並べてあって……ゆらぎのふりをしてツルギと会話をすれば、ゆらぎが目の前で会話をしてくれているような心地になるの」
「っ……」
 隣で、景が絶句しているのがわかる。本当は言いたくないことだったのに、いちど話始めると堰を切ったように止まらなくなった。
「ゆらぎのふりをして美術館に行って、ツルギとお出かけをして、アトリエにこもって……そうしている時間だけは、ゆらぎがいなくなったことを実感しないで済むの」
 目を瞑って、ツルギと巡った場所を思い浮かべてみる。思い出すだけでどれもが柔らかで、優しい光景だ。
 ゆらぎが生きている、ふりをしているだけなのだけれども、私にとってはかけがえのない時間だった。あれがなければ、とてもじゃないが心を保てなかった。
「だから……近ごろ高校ではどこか上の空なのか? ここが、ゆらぎの居場所じゃないから」
 さすが、景は理解が早い。本当に話しやすい相手だ。
「そこまでわかってくれたなら、私と思い出を重ねようとしないで。――私は、ゆらぎのいない思い出はいらない」
 拒絶よりも深く彼を突き放す言葉かもしれないと思いながらも、言わずにはいられなかった。こうでもしなければ、彼は絶対に私の手を離してくれない。彼が私の手を引いて進もうとする道は、今の私には眩しすぎる。
「それで、一生アンドロイドとゆらぎごっこを続けて生きていくつもりか? そんなことをしたら、あさぎの人生はどうなるんだ?」
「おかしなことを聞くね。ゆらぎに比べれば、私の人生なんて取るに足らないものだよ」
 思わずくすりと笑みがこぼれてしまう。空がちかちかと光っている。終盤に差し掛かっているのか大きな花火が連続で打ち出されているようだった。
「むしろ私がゆらぎのふりをすることで、ゆらぎの人生の模倣をできるのなら、そんなに素晴らしいことはない。あさぎとして生きていることよりも数倍の価値があるよ」
 今の私が欲しいのは、あの部屋の中の優しい時間だけだ。ツルギとともに嘘の関係を続けて、ゆらぎが生きているような気になって、食事をし、眠る。まやかしのような日々かもしれないが、続けていればいつか現実と区別がつかなくなる日が来てくれるような気がした。
 その瞬間、ふいに景に肩を掴まれ、無理やり体の向きを変えられた。片手なのに、大した力だ。
 珍しく強引な行動をとった景は、見たことのない激しい怒りを宿して私を睨みつけていた。
「冗談じゃない。そんな生活じゃ、あさぎが死んでいるようなものじゃないか」
 そのまま受け止めるには鋭すぎるまなざしだったが、目を逸らすわけにはいかなかった。こちらとしても、あの現実逃避を手放すつもりはないのだ。
「そうだよ、私は私を殺してでもゆらぎを生かしたい」
 生かしたかった、のだ。
 私の臓器でもなんでも使って、ゆらぎを生かしてほしかったのだ。拒絶反応が少ないであろう私という個体があるのに、ゆらぎを死なせてしまうなんて今の医療の限界を感じる。個の尊重だとか倫理だとかに囚われすぎている。大きな目で見ればゆらぎを生かしておくほうが必ず、世の中のためになるのに。
 私はせいぜい、真っ当に生きて大人になったところでただの医師だ。一世紀前であれば死んでいた人の寿命を伸ばして、給料をもらって、平凡に家庭を築いて、一生を終えるのだろう。決して悪くはない人生なのだろうけれど、きっと、ゆらぎには遠く及ばない。
 ゆらぎには、世界を変える可能性があった。ツルギがその何よりの証拠だ。
 そんな功績がなくたって、私よりもゆらぎが生きるべきだったのは明白だ。ゆらぎを好きな人はたくさんいて、ゆらぎの言葉を望んでいるひとが今もいる。私もそのひとりだ。
 以前にも思ったことだが、どう考えてもこの世には、私よりもゆらぎがいてくれたほうがよかった、と痛感する瞬間がありすぎる。それは悲観でも卑屈になっているわけでもなく、紛れもない事実なのだ。
 火薬の香りが遠のいて、どこからか雨の匂いが忍び寄ってくる。ぽつり、と冷たい雫がひと粒頬に当たった。
 景は、私の肩を掴んだまま、ふいに脈絡のない言葉を口にした。
「俺は、ほっとした」
「え?」
 陰鬱な雨の気配の中で、確かに景は私を見ていた。私の知らない、翳った熱を帯びた瞳で。
「すくなくとも俺はほっとしたよ。あの日、動転した様子の母さんから電話が来て、『橘さんの家の、あの子が事故に遭ったの』と聞いたあと、事故に遭ったのがゆらぎのほうだと知って……俺はお前じゃなくてよかったと思った。ゆらぎが大変な目に遭っているのに最低だとわかっていても、そう思わずにはいられなかった」
 清廉で公平な彼らしくない言葉だった。自分の身に代えてまで人を助けるお人好しな彼の発言とは、とても思えない。
「最低、だよ……そんなこと、思うなんて」
 なんとなく景の目を見ていられなくなって、視線を逸らす。こんな景は知らない。奥深くに眠っていた本当の彼を、知らない翳りを引き出してしまったような気がして怖かった。
「そうだ、最低だよ。誰が死んでも、きっとあさぎじゃなくてよかったと思うだろう。あさぎがもし病院に運ばれてきたら、きっと他の誰を差し置いてもあさぎの治療をしてしまう」
 そんなの、医師失格だ。大病院の後継になろうかという人が発していい言葉ではない。私の知っている清廉な彼の姿が、どんどん遠ざかって見えなくなっていく。
「だめだよ、そんなの。……肩、痛いから離してよ」
 さりげなく景と距離を取ろうとするも、彼の手はそれを許してはくれなかった。むしろいっそう距離を詰めるようにして、体を引き寄せられてしまう。
「お前にまつわることでは、平等も倫理も捻じ曲がる。そうさせたのはお前だろ、あさぎ。……逃げようとするな、こっちにいてくれ」
 ぽつぽつと雨が降り出したと同時に、景に思い切り引き寄せられ、そのまま唇が重なった。景の背後では、大輪の花火が打ち上がっている。雨は次第に勢いをまして、その花火を最後にあたりは薄闇に包まれた。
 雨の味がするくちづけだった。「あさぎ」として生きる私の生を望んでいたはずなのに、息を奪って殺そうとしているかのような激しさだ。くらりと目眩がして、思わず目を瞑る。その拍子に、雨水に混じって目尻から温かいものが溢れた。
 それが景の唇にも触れたのか、ようやく彼は顔を離した。どこか自嘲気味に口もとを歪めながら、震える指で私の濡れた頬を撫でる。
「ごめん……こんなことで、あさぎの心を繋ぎ止められるわけもないのにな」
 返す言葉など、見つかるはずもなかった。ただ呆然としたような心地のまま、勢いを増すばかりの雨の中で立ち上がる。
「……今日は帰るよ、じゃあね」
 それだけ言うのが精いっぱいで、逃げ出すように景の前から走り出した。
 慣れない下駄が、足の指に擦れて痛い。屋内に避難するようにかけていく学生たちとは正反対に、門を目指して走り続けた。
「っ……」
 正門の前で派手に転んでしまい、水たまりの中に倒れ込む。
 買ったばかりの浴衣は、すっかり肌に張り付いて、泥だらけになっていた。きっと、綺麗に編み込まれた髪も解けているのだろう。
 どうしてかわからないけれど、涙が止まらなかった。
 あんなの、景らしくない。私の知っている景じゃない。そう思えば思うほどに、胸が抉られるように痛む。
 あんな理不尽な行動をさせてしまうほどに、私の言葉は景を傷つけたのだろうか。
 素直に、あのくちづけを喜べる私でいたかった。どこか照れくさい気持ちで頬を染めて、視線を逸らしあって、でも手は重なっていて、腐れ縁が初恋に変わる瞬間を、心から味わえたらよかった。
 ゆらぎが生きていたらきっと、今ごろ動揺して震える手で彼女にメッセージを送っていたのだろう。初めてキスをしちゃった、と照れながらゆらぎに報告できただろう。でもその彼女はもういない。
 ゆらぎ、ゆらぎ、どうして死んじゃったの。
 すべては、彼女がいなくなった日からおかしくなり始めたのだ。ゆらぎがいないから、私の青春も初恋もぜんぶ色褪せてしまう。ゆらぎが私の世界の鮮やかな色彩もきらめきも一緒に抱き込んでいなくなってしまったから、毎日がこんなにも鬱屈としていて、無理やり息をさせられているような心地で生きているのだ。
「ああ、ああああ……!」
 ゆらぎがいなくなった事実に直面すると、泣き叫ばずにはいられなかった。この慟哭を胸の奥に沈めて、なんでもないふりをして今日まで生きてきたのだ。けれどそれは心の不安定な部分を突くように、ついに今日溢れ出してしまった。
 自分が涙していること自体、認めたくなかった。
 この涙は、ゆらぎの死の証だ。決して流してはいけないものだったのに。
 景のくちづけが、無理やり私の目を覚ましたのだ。彼の好意が、私を「ゆらぎ」でいられなくしたのだ。
 ふいに、体に打ち付けていた雨の感触が消える。ゆらりと黒い影が落ちてきて、導かれるように顔を上げた。
「ゆらぎ」
 目の前には、私に傘を差し出すツルギの姿があった。迎えはいらないと言ったが、雨が降ったから傘を届けに来てくれたのだろう。
「どうしてそんなところに座っているの、風邪をひいちゃうよ」
 いつも通りの、優しい声、機械とは思えないほど自然な微笑み、私ではない誰かに縋る切実なまなざし。
 わかっていた。彼だってもう、とっくに夢から覚めているのだと。
「……ツルギ、私、もう歩けなくなっちゃった」
 道標を、完全に見失ったような心地だった。雨に濡れる街を茫然と眺めることしかできない。
 ツルギは傘を地面に置くと、代わりに横抱きにするようにして私を抱き上げた。人の体温によく似た熱が、浴衣越しに伝わってくる。
「帰ろうか」
 ツルギは私を抱き上げたまま、雨の中を歩き出した。泣き疲れてぼんやりとした心地のまま、ツルギが前へ進む振動に身を委ねることしかできない。
 ツルギの肩に頭を預けて、目を瞑る。息が、うまくできない。再びあの優しい現実逃避に溺れることができるのなら、他の何を差し出しても構わないような気がした。
 ◇

 家に帰るなり、ツルギに髪を解かれ、そのまま入浴するよう促された。夏だと言うのに長いこと雨に当たったせいか、浴衣を脱いだ肌は冷え切っていて、湯船に浸かった瞬間は思わず溜息がこぼれた。
 ツルギが用意してくれた部屋着に着替え、髪を拭きながらリビングへ移動する。ツルギの姿は、そこにはなかった。狭い家の中だ。ツルギのいる場所なんてだいたい検討がついた。
 薄暗い廊下を進み、彼が作り出したアトリエを目指す。扉はわずかに空いていて、中の様子を伺うことができた。
 ツルギは、部屋の中で立ち尽くしていた。電気もつけず、雨が降っている外のわずかな明かりだけが彼の影を浮かび上がらせている。どこか茫然とした様子で立ち尽くすその様は、彼と再会したときのことを彷彿とさせた。
 あの日彼は、ゆらぎがいなくなった事故現場で、飼い主を迎える犬のようにゆらぎを待っていた。膨大な知識と高度な学習能力を併せ持ったAIが搭載されているにもかかわらず、まるで彼女の死を理解できないとでもいうように、じっと待ち続けていた。
 あのままツルギが私に気づかずに、彼と接触することもないまま母にツルギの回収を頼んでいたら、私はどうなっていたのだろう。ゆらぎの死を乗り越えて、景と手を繋いでいただろうか。
 思わずふ、と自嘲気味な笑みが溢れる。自分で考えておきながら、馬鹿馬鹿しい発想だ。冗談でも、そんな姿は思い浮かばない。ツルギがいなければ、私はひょっとすると今ごろ――。
 扉をそっと押して、中に入る。ツルギも私の存在に気づいているのだろうが、こちらを見向きもしなかった。その視線は、ゆらぎが描いた絵に注がれている。星の中で横たわる灰色の髪の少年の絵だ。
「ツルギ」
 防音設備はしっかりしているはずだというのに、雨音がうるさいくらいに響いていた。私とツルギだけが、この薄闇に取り残されたような気分になる。
「……ずっと、聞きたかったことがあるの」
 これを尋ねてしまえば、私の優しい現実逃避は終わってしまう。それでももう、目を逸らし続けられるような段階にないことはわかっていた。私はもう、夢から覚めかけているのだから。
「ツルギ、あなたは――本当は私のこと、ゆらぎじゃないってわかっているんでしょう」
 彼は振り返らなかった。まるで聞こえていないとでも言うふうに、ゆらぎの絵を眺め続けている。
「私にゆらぎを重ねて、あなたも現実逃避をしていたんだよね。……AIがそんなことするはずないって思っていたから、確信を持てなかったけれど――」
 眼裏に、星を模った美しいゆらぎの作品が蘇る。
 あれが、すべての答えだったのだ。
「――ツルギ、きっとあなたはゆらぎに、心を与えられたんだよね」
 ツルギには、心がある。そしてそれは、ゆらぎによって設計された。それこそが、私が辿り着いた結論だ。
 星を模った「何か」のレプリカだと言って見せてくれたあの作品。その「何か」というのが、きっとツルギに埋め込まれている心なのだろう。ツルギが眺めている星と灰色の髪の少年の絵は、それを示唆しているのだ。
 私をゆらぎと思い込むなんていう不可解な行動も、きっと不具合などではなかった。私たちは始めから、お互いを利用しあっていたのだ。ゆらぎが生きているかのように錯覚できる日常を求めて、一緒にいることを決めたのだ。
 何も言わないツルギの隣に並びたって、星と少年の絵を眺める。絵本作家を目指していた彼女らしい、優しい筆使いの絵だ。私は他のどんな画家の絵よりも彼女の色使いが好きだった。
「……あなたとゆらぎはきっと、本当に恋人同士だったんだよね」
 スケッチブックに描かれたツルギの絵を見ればわかる。描き手とモデルが心を通わせあっていることを察するには、十分なほど優しい愛にあふれたスケッチだった。
 あれは紛れもなく、ゆらぎの恋の証だ。
 私の隣にいるのは、ただのアンドロイドじゃない。恋人を失って悲しみに暮れる、ひとりの青年なのだ。
 ツルギの視線がふと、私に向けられる。口もとには、無理やり貼り付けたような笑みが浮かんでいた。
「……さっきからきみは、何を言っているんだろう。恋人だったも何も、きみは、ぼくのゆらぎなのに」
「ツルギ……」
 彼はまだ、この現実逃避を手放したくないらしい。私だってできることなら、手放したくなかった。今日も明日も今までと同じように、ゆらぎとしてこの部屋の中で笑って、当たり障りのない優しい時間を過ごしていたかった。
「そうだ、久しぶりに絵を描いてよ、ゆらぎ。またきみの絵が見たいんだ。そろそろ新作が欲しいな」
 ツルギの手に手首を掴まれ、そのまま画材が仕舞われた棚の前に連れて行かれる。ゆらぎが使っていたままのパレットと筆を持たされ、部屋の隅に立てかけられた白いキャンバスの前に立たされた。
「ツルギ……私、絵は描けないの。ゆらぎみたいな才能はないんだよ」
「いいから、描いて、ゆらぎ。描いてみせてよ」
 ツルギの手が、筆をもつ手に重なる。急かすような彼の言動には、明らかな焦りが滲んでいた。
「ツルギ――」
「――いいから! 描いて、描いてよ! きみはゆらぎなんだから……!」
 彼が声を荒らげるのは初めてだ。思わず肩がびくりと震える。その拍子に、絵の具を吸った筆が床に落ちてからからと鳴った。
 落ちた筆の周りに、ぱっと赤い液体が飛び散っていた。暗がりの中でも抜けるように明るい赤。人の血とは遠い色をしているのに、どうしてか歩道の上でだらだらと血を流し続けるゆらぎの姿が眼裏に蘇った。
「っ……!」
 吐き気を覚えて、思わずその場にしゃがみ込む。部屋着に絵の具がつくことも厭わずに、うずくまるように床に手をついた。
「ゆらぎ、ほら、筆を持ってよ。ねえ」
 ツルギは追い打ちをかけるように私の目の前にしゃがみ込み、再び筆を握らせた。
 壊れものを扱うようだった今までの言動とは大違いだ。切羽詰まったような強引さを感じて、何も言い返せなくなる。
「またぼくを描いてよ、ゆらぎ。次は花と一緒に描いてくれるって、約束したじゃないか。ずっと、待っているんだよ。どうして約束を果たそうとしてくれないの」
 ツルギの手には、パレットから飛び散った様々な色の絵の具が付着していた。それは混じりあって、淀んだ黒になる。この鬱屈とした暗闇と、同じ色だ。
 追い詰められるように肩を掴まれ、思わずバランスを崩してしまう。そのまま床に飛び散った絵の具の上に押し倒されてしまった。
 奇しくもそれは、絶命したときのゆらぎと同じ構図だ。ぱっと飛び散った色とりどりの絵の具の中で、ゆらぎはどす黒い赤を流していなくなってしまった。
 ツルギも、同じ光景を思い出したのだろう。静謐を保っていた灰色の瞳に、怯えに似た揺らぎが走る。
「ゆらぎ……」
 それはきっと、私に対する呼びかけではなかった。
「どうして……」
 震える彼の手が、そっと私の頬を撫でる。絵の具が頬につく感触があったが、拭う余裕は私にもない。
「どうして……どうしてきみは、ゆらぎにならないんだろう。同じ食事を与えて、同じ時間に眠らせて……平熱だってゆらぎと同じで、同じ顔をして、同じ遺伝子情報を持っているのに……どうしてきみは、ゆらぎにならないんだろう」
 心からの、純粋な疑問を吐露するように、彼はぽつりと呟いた。私の頬を撫でる手は今までと同じように繊細なもので、私の中に眠るゆらぎの面影を必死に掘り起こそうとしているかのようだ。
「他に何をすれば、どう接すれば、きみはゆらぎになってくれるの。外の世界がいけない? 星川景がいなくなればいい? ずっとこの部屋に閉じ込めておけば、きみはいつかゆらぎになってくれるのかな」
 人間は、他の人間にはなれない。遺伝子情報が同じでも、決して同じ存在にはなれない。人であればまず思いつきもしないような願望を、彼は無邪気に口にしていた。
 でも、ツルギだってきっと、無理だとわかっているのだろう。それでもわがままにも似たその不可能を押し通したいと思うほどに、ゆらぎに焦がれているのだ。
「……ごめんね、あの日いなくなったのが、私だったらよかったね」
 景の想いを裏切る言葉だとわかっていても、それはやっぱり私の本心だった。あの日あの場に立っていたのが、私だったらよかったのに。
 そうすればひょっとすると、安穏と生きているよりも鮮烈に、景やゆらぎの記憶の中で生きていられたかもしれない。景の初恋の呪いになって、ゆらぎの歳を取らないモデルになれただろう。それでもきっとふたりは前を向いて私の死を乗り越えて、私はいつか彼らの強さの理由のひとつになるのだ。
 そのほうがよっぽど、みんな幸せだった。私も含めて間違いなく幸せだった。
「っ……ゆらぎの代わりに、なりたかったなあ」
 湯船に浸かって引っ込んでいたはずの涙が、勝手に溢れ出す。鼻の奥がつんと痛んで仕方がなかった。ずっと、血の匂いがする。
「違う! 代わりになるべきは、ぼくだった。あの日、ゆらぎのいちばんそばにいたのに……ゆらぎを守りきれなかった……! いなくなるべきは、間違いなくぼくだ」
 私に馬乗りになったような姿勢のまま、彼は顔を覆って項垂れた。
「ゆらぎ……ごめん、ゆらぎ……」
 絞り出すように震えた声だった。聞いているだけで、余計に涙が溢れてくる。
 きっと、ツルギには涙を流す回路が備わっていないだけで、泣けるものなら泣いていただろう。分厚い悲哀が、覆い被さるように私にも降り注いでいた。
 絵の具に塗れた手を、気づけば彼に伸ばしていた。そのまま、そっと滑らかな彼の頬に触れる。ツルギはくしゃりと表情を歪めて、私の手に頬を擦り寄せた。
 私たちはもっと早くに、こうしてお互いの寂しさを曝け出すべきだったのだ。ひとりで抱えて誤魔化してきたから、こんなにも拗れてしまった。
「……ゆらぎによく似てるのに、ゆらぎの手じゃない」
「そう……そうだよ、私はあさぎ。あなたと同じくゆらぎを失って悲しんでいる、ゆらぎの妹だよ」
 初めて、彼の前で素の姿を晒した気がした。
 ツルギは堪えるように目を瞑ったまま、そのまますがるように私の肩口に顔を埋めた。
 人と変わらない柔らかさの灰色の髪を、指先でそっと梳くように撫でてみる。ゆらぎに与えられたであろう心は、きっとまだ芽生えたばかりなのだろう。私よりもずっと幼い感情を包み込むように、優しく彼を抱きしめた。
「ねえ……聞かせてよ。あなたが知ってる、ゆらぎの話」
 泣きながら笑いかけると、ツルギも似たような表情をして、私の隣に寝転んだ。飛び散った絵の具の上で並んで横たわる私たちは、きっとひどい姿をしているだろう。
 ツルギは、静かに微笑んでぽつぽつとゆらぎの話を始めた。きっと映像で投影させることもできたはずなのに、彼は自分の言葉でゆらぎを表現することを選んだのだ。
 それは、とてもとても幸せな、ゆらぎの記憶だった。祝福の中で生きた、美しい少女の物語だった。
 雨音が遠ざかり、空がわずかに明るくなり始めたころに、ツルギはふいに口を噤んだ。それ以上語るゆらぎの物語がなくなったからだと気づくのに、ずいぶん時間がかかってしまった。
 床に散らばった絵の具が、乾きかけている。このまま朝が来たら、私たちはどうすればいいのだろう。
「ツルギ」
 あてもないのに、彼の名を呼んだ。隣で寝転んだ彼がわずかに首を傾ける。
「どこか、遠くへ行こうか。……私が、ゆらぎでもあさぎでもない場所へ」