第五章
三日ぶりに登校した高校は、すっかり学祭一色に染め上がっていた。学祭自体は二週後だが、これから朝の時間や放課後にすこしずつ準備を進めていくのだ。
「あさぎ、もう体調はいいのか」
教室の隅でクラスメイトと作業をしていた景が、わざわざ手を止めて様子を見にきてくれた。白いシャツを腕まくりして、活動的な姿だ。
「うん、おかげさまで。もうすっかりいいよ」
「よかった。病み上がりだから無理するなよ」
心底ほっとしたように笑う景の頬には、青いペンキが付いていた。どうやら、劇で使う小道具の制作をしていたらしい。よく見ればシャツにもペンキが点々と飛び散っている。
「景、不注意だね。ペンキがついてるよ」
背伸びをして、景の頬についたペンキを指先で拭う。だが、薄く伸びただけであまり取れなかった。
「ごめん、却って広げちゃった」
「何してんだよ……」
景は手の甲で頬を拭いながらも、ふい、と視線を背けてしまった。わずかに耳の端が赤い。まるで寒いところから帰ってきたみたいだ。
制服のポケットからハンカチを取り出し、景に差し出した。なんの変哲もない、タオル生地のハンカチだ。
「あさぎの手のほうが汚れたじゃないか」
景はそう言って、ハンカチを受け取るなり私の指先を拭いてくれた。確かに、うっすらと指全体が青くなっている。
景の触れ方は丁寧だった。私の肌にいっさいの傷をつけまいとするかのようで、くすぐったい。
思わずふ、と頬を緩めていると、ふいに彼の隣で長い髪が揺れた。
「星川くん、ちょっと、手伝ってほしいところがあって」
波打つような柔らかな黒髪のその少女は、学祭の実行委員でもある相澤さんだ。景とともに、クラスの中心になって学祭準備を進めているのだろう。
「ああ、悪い。……あさぎも、元気だったら放課後にでも一緒に準備しよう。どうせ、裏方志望なんだろう」
「うん、ありがとう。そうするよ」
みんなで何かに取り組むのは好きだが、目立つのは苦手だ。小道具作りの手伝いなんて、まさに私にうってつけだった。
「これ、借りていくな」
景はハンカチを軽く上げて爽やかな笑みを浮かべると、そのままみんなの輪に戻っていった。景を呼びにきた相澤さんが、取り残されるかたちになる。
「橘さん……もう、体調はいいの?」
相澤さんはどこかぎこちない微笑みを浮かべながら尋ねてきた。
「うん、ちょっと風邪ひいただけ。今はもう平気だよ」
「そう……よかった」
挨拶程度の他愛もない話かと思ったが、相澤さんはまだ立ち去らなかった。何か言いたそうに視線を彷徨わせている。
「……あの、何かあった? 学祭準備のことなら、私にできることならなんでもするよ。役者はちょっと、遠慮したいけど」
「ありがとう。……でも、聞きたいのは、それじゃなくてね」
相澤さんは意を決したように、伏せたまつ毛を跳ね上げた。光にあたると、頬にまつ毛の影が落ちてきれいだ。
「あのね……その、橘さんと星川くんって付き合っているのかな、って、思って」
「え?」
相澤さんは顔を真っ赤にして続けた。
「ふたりとも、すごく仲がいいから……もしそうなら、誰にも言わないから教えてほしいの」
白く抜けるようだった細い首まで赤くして、相澤さんがじっと私の返答を待っていた。ひどく、緊張しているようだ。
「付き合ってないよ。幼馴染というだけで……」
事実を、ありのままに伝える。相澤さんが、ぱっと顔を上げた。
「それじゃあ……私が星川くんに告白しても、迷惑じゃないかな?」
教室の隅でするには少々大胆な話だ。だが、ここでもなければ私と話せないとでも思ったのだろう。相澤さんはそれくらい真剣だった。
「星川くんのこと、すてきだなって思ってて……できたら、学祭中に告白したいの」
景も隅に置けない。クラスのいちばん人気の女子に好かれるなんて。
「いいね。迷惑かどうかは景が決めることだし、私に断らなくてもいいと思うよ」
「橘さんは、嫌じゃない? 私と、星川くんが付き合うことになっても」
景の恋愛絡みの想像なんてしたことがなかった。ぼんやりと、景と相澤さんの姿を思い浮かべてみる。
放課後、正門近くの人混みの中で、景と相澤さんが手を繋いで歩いていて、相澤さんが嬉しそうに笑うと、景も柔らかく微笑む。
想像するだけで、こちらも頬が緩んでしまうほど幸せな光景だった。
「そうだね、景が笑っていられるなら、いいと思う。応援してるよ」
心からそう言ったつもりだが、相澤さんの表情は晴れなかった。それどころか、くしゃりと泣きそうに顔を歪めて微笑む。
「橘さん……それはたぶん、自覚していないだけだよ」
「自覚?」
相澤さんは切ない微笑みを浮かべると、不意に元気付けるようにぱんと自分の頬を叩いた。
「ううん、でも、付き合ってないのはおんなじだもんね。……橘さん、私、負けないよ」
相澤さんは何かを吹っ切るように、凛とした笑みを見せた。ころころと表情が変わる人だ。
他のクラスメイトたちに呼ばれて、相澤さんはその言葉を最後に去っていった。
今から手伝えることはなさそうなので、そのままいつもの定位置に座る。ついくせでタブレットに手を伸ばしたが、起動させることはしなかった。
取り憑かれたように解き続けていた読影問題に、今日は取り組もうとは思えなかった。昨日、ツルギに色々と吐きだしたせいか、問題を解いていなくとも、心が凪いでいるような気がする。
……それにしても、あの話は「ゆらぎ」らしくなかったよなあ。
泣き止んでから、失敗したと思った。ゆらぎはきっと、あんなふうに泣かないし、弱音も吐かない。ツルギに縋り付いて泣きじゃくるなんて真似、絶対にしないだろう。
今日からは、もうすこし気をつけなければ。私はまだあの愛しい現実逃避を終わらせたくない。
◇
学祭の準備期間であるせいか、教室は授業中もどこか浮き足だっていた。このクラスで行うのは、おとぎ話をモチーフにした劇で、どうやら代々受け継がれている脚本があるらしい。そのため衣装なども本格的なものが揃っているようだ。
相澤さんは、その劇の主役、ガラスの靴を落とすお姫様役だ。相手の王子は景なのかと思ったが、違う運動部の男子が演じるらしい。景は、小道具制作などの裏方チーフを務めているようだ。
……相澤さんは、残念がっただろうな。
朝のあの様子だと、作中で恋人同士となるような役を景と演じたかったに違いない。景も罪深いやつだ。
「橘さん、こっちもお願いできる?」
同じ小道具制作の男子が、目の前に何枚かのベニヤ板を置いていく。今の私の役目は、この板たちに指定された色をひたすら塗っていくことだ。単純作業だが、板一枚一枚が私の身長くらいの長さがあるため、労力はそれなりにかかる。
「もちろん、これが終わったらやるよ」
かと言って他のクラスメイトは、皆、私以上に忙しいのだ。学業を優先するために短期集中で準備期間を取るこの高校の慣わし上、のんびりはやっていられない。私としては、三日分の遅れを取り戻したい気持ちもあった。
……でも、楽しいかも。
基本的に作業はひとりだが、すこし顔を上げれば同じジャージ姿でせっせと小道具作りに勤しんでいるクラスメイトがいる。今年はあまり楽しみではないと思っていた学祭も、いざ準備が始まれば悪い気はしなかった。
ようやく一枚のベニヤに緑色のペンキを塗り終えて、額の汗を拭う。まだ本格的な夏というにはずいぶん早いが、屋外で集中して作業をすると汗ばむ気温になってきた。
「あさぎ、無理するなよ、病み上がりなんだから」
背後から話しかけられ振り返ると、器具やら筆やらがいっぱいに詰まった段ボールを抱える景の姿があった。
「平気、楽しいよ」
「おい、まさかそれ全部塗るように言われたのか? ひとりで?」
景は段ボールを地面に置くと、私の目の前の板に触れた。それぞれの隅に鉛筆で色指定がしてある。
「単純作業だから、そんなに苦ではないよ」
「まあ、みんないっぱいいっぱいだからな……」
そう言いながら景は筆を手に取ると、真新しいベニヤ板を塗り始めた。
「景、いいよ。リーダーが不在だと、みんなが困るでしょう」
「今はすこし手空いてるから、呼ばれるまでな」
景は私の倍くらいのスピードで板を塗り進めていく。手際がいいのが憎たらしいところだ。
「そういえば、あさぎが休んでいる間に、後夜祭でクラス全員が浴衣を着ることが決まった」
「え!? 浴衣? 持ってないよ」
後夜祭では、短いが花火が打ち上げられる。花火大会に行くときと同じような要領で、確かに昨年も、浴衣を着ている学生たちはちらほらと見かけた。上級生たちには特に多かった気がする。私はもちろん、いつも通り制服姿で花火を楽しんだのだ。
「担任からは全員着ないなら誰も着るなとのお達しだ。仲間はずれを作りたくないらしい」
「そんな……」
公平にしようとするのはいいが、これではほぼ強制ではないか。
……買いに行くしかないかな。
ゆらぎも、おそらく持っていなかった気がする。ゆらぎの高校でも学祭があり、同じように花火が打ち上げられていたが、あちらでは浴衣というより仮装をして花火を見るのが慣わしのようなのだ。ゆらぎもたしか、季節外れのハロウィンのカボチャの帽子をかぶって楽しんでいたはずだ。
幼いころに家族で花火大会にいったことはあるが、あのころの浴衣は当然もう着られないだろう。やはり、買いに行くしかない。
「あさぎ」
景が、ペンキを塗る手を止め、私に背を向けたまま切り出した。
「その、もしよければ、学祭の前日にでも――」
「――景! こっちの大道具って、どこまで組み立てればいいんだっけ!?」
遠くから、景を呼ぶ男子の声がする。自分の背丈ほどもある大道具を引きずって何か言っているようだ。
「組み立てすぎだ! ……まったく、どうやって校舎に入れるんだよ」
筆を置いて、景が立ち上がる。最後はほとんど嘆くような口調だった。
「早くいってあげて、ここは大丈夫だから」
こちらの単純作業とは違い、あちらには景の指揮が必要そうだ。景が先程まで手にしていた筆を取って、塗りを再開する。微かに、景の手の温もりが残っていた。
「あ……そうだな、悪い」
「全然、頑張ってね」
ひらひらと手を振って、景を見送る。Tシャツ姿の景の後ろがぐんぐん遠ざかっていった。
……浴衣か。
予想外の予定ができてしまったことに、小さく息をつく。
やっかいな決めごとをしてくれた担任だが、それでも、景の浴衣姿だけは楽しみなような気がした。
◇
「やっぱり、ないよなあ……」
その日、帰宅するなり早速ゆらぎのアトリエを覗き、ツルギが整理してくれた箱の中身を確認してみたが、やはり浴衣は見つからなかった。ついでにこの二年ほどのゆらぎの写真で彼女が浴衣を着ているものはないかAIに尋ねてみたが、やはりない。気が進まないが、新たに買うしかなさそうだ。
箱の中から取り出したスケッチブックをひとつひとつ手に取って、再び箱に収めていく。厚紙でできた表紙には鉛筆が擦れたような黒い痕がいくつもあって、ゆらぎが手を黒くしながら懸命にスケッチしたのが伝わってきた。
なんとなく、一冊のスケッチブックをぱらぱらと開いてみる。りんごや彫像、花瓶など、他愛もないものだったが、あるときから人物のスケッチに切り替わった。
……あ、これは雪森さんかな。
どこかいたずらっぽく笑う少女の姿に、いつか美術館で出会った彼女の同級生の顔が蘇った。彼女はゆらぎの親友だと言っていたが、ゆらぎも同じ気持ちだったようだ。明らかに、親しみと温もりを帯びた絵だった。
ぱらぱらと再びめくっていると、不意に見慣れた顔が現れた。おそらく、今より少し幼い私だ。
場所は、ゆらぎのアトリエだろうか。古びたソファーに腰掛け軽く膝を組んで、視線を手元の本に落としている。開いた窓のそばでは軽やかなカーテンがなびいていて、空気の流れがこちらにまで伝わるようだ。
……ちょっと、美化しすぎな気もするけれど。
これだけを見れば、どれだけ涼しげな美少女だろうと思ってしまう。ゆらぎの贔屓目が入っているような気がした。
その後、何枚も何枚も、私の絵が続いた。どれも静かに微笑んでいて、非常に理知的な印象を受ける。だんだん気恥ずかしくなってきた。
……ゆらぎの自画像はないのかな。
同じ顔だが、明らかにここに描かれているのは私だ。ゆらぎが笑うときは、もっとぱっと花が咲くように華やかで明るいのだから。
一枚一枚捲り続けていると、ふと、私の絵から青年の絵に切り替わった。こちらも見慣れた顔だ。人並み外れて整った目鼻立ちと、しみもほくろもない滑らかな肌。ツルギだ。
元は絵のモデルも兼ねて迎えられたアンドロイドなのだから、モデルになるのも納得だ。どこか無機質な印象を抱くツルギの姿が何枚も続いた。
最後のページまで見て、次の番号のスケッチブックに手を伸ばしてみる。ツルギと暮らし始めてからのスケッチなのか、途中で私や雪森さんのスケッチが挟まることもあるが、基本的にはツルギ一色になっていく。
正直、驚いた。どのツルギの姿も、今とはまるで違う。いかにもアンドロイドらしい、機械的な表情を浮かべた姿だった。微笑んでいても、まるで熱を感じない。心があるのでは、と錯覚する絵は一枚もない。
ぱらぱらとページを捲り続けていると、ふいに、色鉛筆で描かれた絵が現れた。ざっと色付けしているだけなのか、荒い印象を受けるが、既視感のある絵の構図に思わず手が止まる。
それは、いつかゆらぎが描いていた星と少年の絵だった。紺色の空に金や銀の星が一面に散っていて、その空の下、静かに横たわる灰色の髪の少年が、星と同じように淡く光っている。
これは、あの絵の下書きのようなものなのだろう。白黒のスケッチの中に突然この一枚を混ぜたことに微かな違和感を覚えながらも、再びページを捲る手を再開した。
次のページからもツルギの絵が続いていた。だが、先ほどまでとは何かが違う。全体的に、雰囲気が丸みを帯びたような気がするのだ。
……目が、違うのかも。
ツルギのまなざしが、明らかに変わった。今のツルギに近い目をしている。機械的に浮かべていたはずの微笑みにも、どこか熱を感じる。
知らぬ間に、心臓が早鐘を打っていた。うるさいほどに頭の中に鳴り響く鼓動を聞きながらも、ページを捲る手を止められない。脳裏には、自然といつかゆらぎが見せてくれた星の形をした何かのレプリカだという作品が浮かんでいた。
「っ……」
最後のスケッチブックの、終盤のページで、思わず息を呑んだ。
それは、やはりツルギを描いたスケッチだった。ツルギはこちらを見て、美しい微笑みを浮かべている。
だがその眼差しは、とてもアンドロイドと呼べるものではなかった。あふれんばかりの慈しみと、愛しさと、そして焦がれるような生々しい熱をわずかに帯びた目だった。
明らかに、描き手への――ゆらぎへの愛情を感じる。この目は、人間が愛しい者に向ける、甘いまなざしだ。
そしてゆらぎの絵も、それに応えているように見えた。繊細なタッチも、彼の雰囲気丸ごと写しとったかのような鮮やかな臨場感も、何もかもに彼への愛を感じる。
明らかに、これは相思相愛の絵だった。何も知らなければ、画家が恋人を描いた絵だと思うだろう。
スケッチブックを持つ手が震える。私は今、ツルギとゆらぎの秘密を、見つけてしまったのではないだろうか。
「ゆらぎ?」
背後から声をかけられ、はっと振り返る。思わずスケッチブックを胸に抱きしめた。
「ごめん、いきなり話しかけて。ノックしても返事がなかったものだから、入ってきちゃった」
ツルギは、いつも通りだった。ちらりと時計を確認すれば、夕食の時間になっていた。ずいぶん長い間、スケッチブックに夢中になってしまったらしい。
「昔の作品を見ていたの? 珍しいね」
ツルギは、あたりに散らばったスケッチブックを一冊ずつ拾いながら、まとめて箱の中に戻した。
「それもしまう?」
「あ……」
スケッチブックを抱き抱えていた手を緩め、ツルギに手渡す。知らぬ間に指先が震えていた。
「食事の準備ができたよ。行こう、ゆらぎ」
床に座り込んだ私に、彼が手を差し伸べる。手を重ねた瞬間、力強く引き寄せられた。
ふらり、とバランスを崩してしまい彼の胸に頭が当たる。つないでいないほうの彼の手が、そっと私の前髪を撫で、額にくちづけた。
彼の指先が私の髪を梳いていく。慈しむような繊細な手つきに、なんだか泣き出したくなった。
……ツルギ、やはり、あなたには――。
すべての事実から目を背けるように、彼の胸に額を擦り付ける。
スケッチブックを見てからずっと、脈は早いままだった。ときめいているから、なんて理由だったらいっそよかったのに。
窓から差し込んだ夕焼けが、ぴたりとくっついたふたりの影を長く伸ばす。その影はまるで恋人たちを映し出したかのようだった。
◇
ツルギとゆらぎの秘密に、おそらく私は辿り着いてしまった。
その衝撃からうまく抜け出せず、どこかぼんやりとした心地のまま日々が過ぎていた。気づけば、学祭初日は明日に迫っている。
衣装の小さなほつれを黙々と直しながらも、頭の中ではツルギとゆらぎのことを考えていた。あの慈しむようなまなざしをしたツルギの絵が、ずっと眼裏に焼き付いて離れない。
「っ……」
ちくりと左の人差し指に鋭い痛みが走って、はっと我に帰った。遠くに聞こえていたような教室の雑音が、鮮やかに降りかかってくる。教檀のそばでは、役者チームが演技をしながら最終調整をしていた。
人差し指から、ぷくりと赤い血が浮き出してくる。ハンカチを取り出し、それに血を吸わせた。針で刺した程度だから大した傷ではないが、衣装が汚れてしまったら大変だ。
「あさぎ、ヒロインの衣装直ったか?」
忙しそうにあちこち駆け回っていた景が、視界に飛び込んでくる。準備の最終日というだけあって、今までになく忙しそうだ。
「直ったよ。持っていっても大丈夫」
「手、怪我したのか」
景の表情が曇る。案外心配性な彼を安心させるように、ハンカチから手を抜いてひらひらと振って見せた。
「ちょっとした針刺し事故だよ」
「縫合はうまいくせに、裁縫はだめなんだな。生活力のなさが露呈してる」
いつものように軽口を叩きながら、彼はポケットから絆創膏を取り出した。鋏でわずかに切り込みを入れたかと思うと、慣れた手つきで指先に巻きつけてくれる。
「驚いた、持ち歩いているの」
鋏はともかく、絆創膏まであるとは思わなかった。
「大道具係も小道具係もちょっとした怪我が絶えないから、持ち歩くことにしたんだ。便利だろ」
「歩く処置カートだね」
「もうすこしいい言い方しろよ……」
景が巻いてくれた絆創膏を眺める。切り込みを入れたおかげで、指先にしっかりと密着している。動かしてもずれにくそうだ。
「……最近、ずいぶんぼうっとしているみたいだけど、何かあったのか」
ふと、真剣な声音で景が尋ねてくる。忙しいくせに、私のことをよく見ているらしい。
「そうだね……何かあったというか、見つけてしまったというか……」
確証のない話だ。忙しい景にわざわざ話す必要はないだろう。それに、この件にあまり景を巻き込みたくなかった。
「景! ちょっときてくれ! 最終確認がしたい!」
役者チームのほうから、声がかかる。景は振り返ってさわやかに返事をした。
「今行く、ちょっと待っててくれ」
断りを入れてから、彼は再び私に向き直った。私の言葉の続きを、聞いてくれようとしているらしい。
「景、私は大丈夫。今は学祭に集中してよ。あ、衣装のほつれがあったらまた直すから、持ってきてね」
衣装を軽く畳みながら景に手渡す。特別裁縫が得意なわけではないが、手が空いている人間は少ないから請け負うつもりでいた。
「わかった、学祭が終わったらクレープでも食べながら聞かせてくれ。……たしか、あさぎに二回奢ってもらわなきゃいけないはずだからな」
「忙しさで忘れてくれてたらよかったのに……」
この二週で小テストがふたつ行われたが、私は景に数点差で負けていた。ちょっとした計算ミスと、字が汚過ぎて判別されなかった漢字の減点分の差だ。悔しい。
「忘れるわけないだろ」
景はどこか悪戯っぽく笑うと、ヒロインのドレスを片手に抱えて去っていった。水色の生地がひらひらと靡いている。
「橘さん! ごめん、ちょっと手借りていい?」
教室の隅で小道具の最終調整をしていたグループから声がかかる。
「もちろん」
眼裏に浮かぶツルギの絵から逃れるように、作業に没頭する。景にすら相談できなかったのだ。この件には、私ひとりで向き合わなければならないだろう。
◇
「よかった、なんとか間に合いそうだね……」
小道具班のリーダーが、整然と並べられた作品たちを見て満ち足りた息をつく。私も、達成感に似たものを味わっていた。
「いよいよ明日からか、楽しみ」
校舎には垂れ幕もかけられ、学内の空気は弾んでいた。ひょっとすると、この時間帯がいちばん楽しい時間かもしれない。
ステージ発表は二日にかけて行われる。私たちの番は、最終日の昼過ぎだった。確か、最後から二番目の発表だったはずだ。
「ね、みんなで決起集会しない? おいしいケーキ屋さんがあるの」
「いいね、行こ行こ。橘さんも行くでしょ?」
非常に魅力的な提案だったが、おずおずと口を開く。
「ごめん、今日は行けそうにないんだ。浴衣を買いにいかなくちゃ」
ずいぶんぎりぎりになってしまったが、流石に今日行かないと時間がなさそうだ。ツルギも見立ててくれると言っていたので、商業地区で待ち合わせをしていた。
「もしかして、星川くんと行くの?」
小道具班の注意が、いっせいに私に向けられるのがわかる。まさか景の名前が出てくるとは思わず、驚きながらも首を横に振った。
「ううん。景はたぶん、忙しいし」
「橘さんが言えば絶対来ると思うけどなあ」
「実際、どうなの? まだ付き合ってないの?」
相澤さんにも似たようなことを聞かれた。仲がいいとは自分でも思うし、景のことは好きだが、付き合いたいのかどうかはよくわからなかった。深く考えてみたことがないのだ。
「幼馴染ってだけだよ」
恋に興味がないわけではないが、正直今はそれどころではない。たくさんの秘密につつまれた、見つけてよかったのかどうかもわからないような秘密に打ちのめされているところなのだから。
「じゃあ、私はもう行くね。決起集会、楽しんでね」
「早く終わったら合流してもいいんだからね! 連絡して」
気のいい人たちだ。鞄を肩にかけ、軽く手を挙げる。
「ありがとう、じゃあね」
手を振って、教室を後にする。廊下もまた、学祭一色に染め上がっていた。
ふと、廊下の窓から校庭で練習をする相澤さんたちの姿が見えた。私がほつれを直した水色のドレスを着て、芝生の上で軽やかに舞っている。男女問わず、多くの人の視線を奪っていた。
景も、例外ではないようだ。脚本を片手に、柔らかく微笑みながら相澤さんを見つめている。
その姿を見て、気づけば私も頬を緩めていた。
景が笑っているなら、なんでもよかった。付き合う付き合わないについて深く考えたことはないけれど、彼が笑っていられるなら相手は誰でもいい。相澤さんは景のことが好きなようだし、お似合いのふたりだ。
世の中だいたい、私でなくても問題ないことがほとんどだ。その気軽さを、私は気に入っていた。
……でもひとつだけ、私でなければならないことがあるとすれば。
ぎゅ、と指先を握り込んで、窓辺を後にした。いつも通学に使っているバスとは違う路線のバスに乗り込み、商業地区へ向かう。ツルギとは、この街の待ち合わせスポットである噴水の前で落ち合う約束をしていた。
二十分ほど揺られ、バスから降りる。平日の夕方でも、商業地区は賑わっていた。
数分かけて大噴水の前に向かう。待ち合わせしているらしい人々が、大勢たむろしていた。
その中でも、ツルギは人目を引いた。灰色の髪、灰色の瞳、全体的に色素が淡く消え入りそうな儚さがあるのに、妙に意識を奪われる。それが、彼の魅力のひとつなのかもしれない。
その姿を遠目で見かけてから、いちどだけ深呼吸をする。気持ちを、切り替えなければ。
「ツルギ!」
はずむような声を意識して、ツルギのもとへ駆け寄る。ゆらぎならば、こうするはずだ。
「ごめんね、待たせたかな」
ツルギは柔らかに微笑み首を横に振ると、私が肩にかけていた鞄をさっそく持ってくれた。
「ゆらぎこそ、準備は大丈夫だった?」
「ちょうど終わったから平気。間に合ってよかった」
私たちの周囲でも、次々に人々が落ち合っていた。噴水の雫が、傾き始めた日の光をきらきらと反射している。
「調べてみたけど、どこのデパートでも浴衣フェアをやっているみたいだ。値段も平均すれば大差はなさそうだよ」
ツルギはしっかり下調べをしてきてくれたらしい。夏休みにはこの街の名物の花火大会も行われるからどこにでも浴衣は売っているだろうと思っていたが、予想通りだ。
「じゃあ、近いところからにしよう!」
ツルギの手を取って、最寄りの建物に向かって歩き出す。ゆらぎなら、必ずこうするはずだ。
本当は浴衣の柄にこだわりなどなかったが、ゆらぎなら吟味するだろうと思い、いくつかの店を見て回った。ゆらぎの好きな浅葱色の浴衣を探していたのだが、近ごろの流行ではないのか、なかなか見当たらない。四店舗回った末に、結局白地に落ち着いた青と赤の草花が描かれた浴衣と、赤い帯のセットに決めた。ツルギが髪も纏めてくれるというので、それに合わせた赤い髪飾りも購入した。
当日は、後夜祭準備のために二時間ほど時間があるので、いちど帰宅してツルギに身支度を頼むつもりだ。彼のおかげで着付けの心配をしなくていいのは助かった。
四店舗も回ったせいで、すっかり遅くなってしまった。空には紺色が滲み始めている。今日はよく晴れているから、星が見えそうだ。
「ツルギのおかげで、納得いくものを選べたよ。ありがとう」
なるべく溌剌とした笑みを意識して、ツルギに笑いかける。彼もまた、慈しむようなまなざしを私に向けた。
「力になれてよかった。ゆらぎの浴衣姿、楽しみだな」
ふわりと風が吹いて靡いた私の髪を、ツルギの指先がそっと耳にかけてくれた。壊れ物に触れるような、繊細な仕草だ。
他の大体のゆらぎの行動は模倣できるけれど、この瞬間だけはわからない。ツルギに触れられたときゆらぎは、いったいどんな反応をするのだろう。気恥ずかしそうに微笑むのだろうか。それとも、はしゃいで彼に抱きつくのだろうか。
「あさぎ?」
ゆらぎなら、後者の気もするがわからない。この迷いこそが、不信感を与えると思うのに。
「あさぎ? あさぎだろ?」
ふいに背後から腕を掴まれ、はっと我に帰る。自分の名前を呼ばれているのに、すぐに気づけなかった。
「あ……景」
振り返ると、学校帰りらしい景と目が合った。その隣には、相澤さんの姿もある。相澤さんは穏やかに微笑みながらも、私の腕を掴む景の手をどこか切なそうに眺めていた。
「奇遇だね、こんなところで会うなんて。相澤さんもこんにちは」
景の手を振り解いて相澤さんに挨拶をする。正直、今ばかりは景との邂逅を喜べなかった。
「柚原たちが教室に残っていた奴らで決起集会しようっていうから来たんだが……どこいったんだか。見かけなかったか? 連絡もつかないし……」
柚原くんは確か王子役を務める役者チームのリーダーだ。クラスの中心的メンバーで集まる予定だったらしい。小道具班といい、きっとクラスのあちこちのグループで似たようなことをしているのだろう。
「ううん、見てないよ」
景と相澤さんがふたりで取り残されたのはなんとなく作為的なものを感じる。きっと、気を利かせた周りがふたりにしてあげようと考えたのだろう。現に、相澤さんは景ほど必死に他のメンバーを探しているようには見えなかった。
「あさぎは? 商業地区まで何しに来てたんだ?」
「浴衣を買いに来たの。ツルギと一緒に」
景が登場してから、ツルギは一歩下がったところで会話を見守っている。外だから、声が聞こえるかどうかぎりぎりの距離だろう。
「そうか。……買い物が終わったなら、よければあさぎも合流しないか? 限定のレモンケーキがある店らしい」
相澤さんの表情が、かすかに曇る。相澤さんからしてみれば、せっかく景とふたりの時間に、邪魔者が現れたような気分だろう。
「せっかくだけど、ツルギがご飯の準備をしてくれているみたいだから、今日は帰るよ」
景が、冷めた目でツルギを見つめる。
「あさぎ……さっきあいつ、あさぎのことゆらぎって呼んでなかったか? 名前を呼び間違えるような不具合があるなら、あさぎのお母さんに相談するべきだ」
心臓が、飛び跳ねたような気がした。
ああ、だから景とツルギを引き合わせたくなかったのだ。景の勘のよさは、私の下手な芝居も、私とツルギを結びつけている理由も簡単に見抜いてしまうだろうから。
「さあ……聞き間違いじゃないかな?」
いちどなら、この言い訳で通るはずだ。だが、景は疑念を捨てきれないまなざしで、私との距離を詰めた。
「笑い方だって、あさぎらしくなかった。あれじゃ、まるで――」
「――景に見せない笑顔があるかもしれないって思わない? 考えすぎだよ」
彼の視線から逃れるように一歩引く。我ながら可愛げのない言い方をしたと思ったし、景も気に障ったようだった。
「俺に見せない表情でアンドロイドごときに笑いかけているんだったら、そんなに腹立たしいことはないな」
景の瞳が、今までにないほど冷えきったのがわかった。思わず、びくりと肩を跳ねさせる。
その瞬間、背後から思い切り肩を引き寄せられた。
「――やめてくれるかな、ゆらぎが怖がっている」
心地よく澄んだ、ツルギの声だった。だが、まるで怒っているかのような不思議な熱を感じる。
「ゆらぎ、って、お前――」
景の表情に明らかな怒りが滲む。放っておけばツルギにつかみかかりそうな勢いの景と、とっさに距離を取った。
「景! これは……これは、私たちの事情だから……関わらないで。景には関係ないよ」
自分でもわかっている。これは明確に、彼を突き放す言葉だった。景の苛立ちがいっそう強まった気がする。
「早く、行きなよ。相澤さんもいるんだし、待たせたらよくないよ」
それ以上景の顔を見ていられず、俯いたまま促す。景と相澤さんの黒い革靴だけが、ふせた視界に映り込んでいた。
「そいつがいないところで、必ず話を聞かせてもらう。……逃げるなよ」
答えずにいると、やがて視界からふたりの靴が消えていった。どうやら今日のところは、諦めてくれたらしい。どっと疲れが押し寄せてきた。
「ゆらぎ? 大丈夫?」
ツルギがそっと屈んで、私の顔を覗き込む。頬にそっと触れられて、慌てて笑みを取り繕った。
「あ……ごめん、平気だよ。……さっきのことは、気にしないで」
ツルギの指が、確かめるように口角と頬をなぞった。そうして、満足いったとでも言うように目を細める。
「そうするよ。……じゃあ、帰ろうか、ゆらぎ」
ツルギに手を握られて、ふらふらと歩き出す。さっきの会話のどこまでを、ツルギに聞かれていただろう。
……でもツルギ、きっと、あなたもわかっているんでしょう。
言葉には出せないまま、彼の後に続く。
いつか雪森さんが言った通り、確かに誰がどう見ても、私たちは歪な関係だった。
三日ぶりに登校した高校は、すっかり学祭一色に染め上がっていた。学祭自体は二週後だが、これから朝の時間や放課後にすこしずつ準備を進めていくのだ。
「あさぎ、もう体調はいいのか」
教室の隅でクラスメイトと作業をしていた景が、わざわざ手を止めて様子を見にきてくれた。白いシャツを腕まくりして、活動的な姿だ。
「うん、おかげさまで。もうすっかりいいよ」
「よかった。病み上がりだから無理するなよ」
心底ほっとしたように笑う景の頬には、青いペンキが付いていた。どうやら、劇で使う小道具の制作をしていたらしい。よく見ればシャツにもペンキが点々と飛び散っている。
「景、不注意だね。ペンキがついてるよ」
背伸びをして、景の頬についたペンキを指先で拭う。だが、薄く伸びただけであまり取れなかった。
「ごめん、却って広げちゃった」
「何してんだよ……」
景は手の甲で頬を拭いながらも、ふい、と視線を背けてしまった。わずかに耳の端が赤い。まるで寒いところから帰ってきたみたいだ。
制服のポケットからハンカチを取り出し、景に差し出した。なんの変哲もない、タオル生地のハンカチだ。
「あさぎの手のほうが汚れたじゃないか」
景はそう言って、ハンカチを受け取るなり私の指先を拭いてくれた。確かに、うっすらと指全体が青くなっている。
景の触れ方は丁寧だった。私の肌にいっさいの傷をつけまいとするかのようで、くすぐったい。
思わずふ、と頬を緩めていると、ふいに彼の隣で長い髪が揺れた。
「星川くん、ちょっと、手伝ってほしいところがあって」
波打つような柔らかな黒髪のその少女は、学祭の実行委員でもある相澤さんだ。景とともに、クラスの中心になって学祭準備を進めているのだろう。
「ああ、悪い。……あさぎも、元気だったら放課後にでも一緒に準備しよう。どうせ、裏方志望なんだろう」
「うん、ありがとう。そうするよ」
みんなで何かに取り組むのは好きだが、目立つのは苦手だ。小道具作りの手伝いなんて、まさに私にうってつけだった。
「これ、借りていくな」
景はハンカチを軽く上げて爽やかな笑みを浮かべると、そのままみんなの輪に戻っていった。景を呼びにきた相澤さんが、取り残されるかたちになる。
「橘さん……もう、体調はいいの?」
相澤さんはどこかぎこちない微笑みを浮かべながら尋ねてきた。
「うん、ちょっと風邪ひいただけ。今はもう平気だよ」
「そう……よかった」
挨拶程度の他愛もない話かと思ったが、相澤さんはまだ立ち去らなかった。何か言いたそうに視線を彷徨わせている。
「……あの、何かあった? 学祭準備のことなら、私にできることならなんでもするよ。役者はちょっと、遠慮したいけど」
「ありがとう。……でも、聞きたいのは、それじゃなくてね」
相澤さんは意を決したように、伏せたまつ毛を跳ね上げた。光にあたると、頬にまつ毛の影が落ちてきれいだ。
「あのね……その、橘さんと星川くんって付き合っているのかな、って、思って」
「え?」
相澤さんは顔を真っ赤にして続けた。
「ふたりとも、すごく仲がいいから……もしそうなら、誰にも言わないから教えてほしいの」
白く抜けるようだった細い首まで赤くして、相澤さんがじっと私の返答を待っていた。ひどく、緊張しているようだ。
「付き合ってないよ。幼馴染というだけで……」
事実を、ありのままに伝える。相澤さんが、ぱっと顔を上げた。
「それじゃあ……私が星川くんに告白しても、迷惑じゃないかな?」
教室の隅でするには少々大胆な話だ。だが、ここでもなければ私と話せないとでも思ったのだろう。相澤さんはそれくらい真剣だった。
「星川くんのこと、すてきだなって思ってて……できたら、学祭中に告白したいの」
景も隅に置けない。クラスのいちばん人気の女子に好かれるなんて。
「いいね。迷惑かどうかは景が決めることだし、私に断らなくてもいいと思うよ」
「橘さんは、嫌じゃない? 私と、星川くんが付き合うことになっても」
景の恋愛絡みの想像なんてしたことがなかった。ぼんやりと、景と相澤さんの姿を思い浮かべてみる。
放課後、正門近くの人混みの中で、景と相澤さんが手を繋いで歩いていて、相澤さんが嬉しそうに笑うと、景も柔らかく微笑む。
想像するだけで、こちらも頬が緩んでしまうほど幸せな光景だった。
「そうだね、景が笑っていられるなら、いいと思う。応援してるよ」
心からそう言ったつもりだが、相澤さんの表情は晴れなかった。それどころか、くしゃりと泣きそうに顔を歪めて微笑む。
「橘さん……それはたぶん、自覚していないだけだよ」
「自覚?」
相澤さんは切ない微笑みを浮かべると、不意に元気付けるようにぱんと自分の頬を叩いた。
「ううん、でも、付き合ってないのはおんなじだもんね。……橘さん、私、負けないよ」
相澤さんは何かを吹っ切るように、凛とした笑みを見せた。ころころと表情が変わる人だ。
他のクラスメイトたちに呼ばれて、相澤さんはその言葉を最後に去っていった。
今から手伝えることはなさそうなので、そのままいつもの定位置に座る。ついくせでタブレットに手を伸ばしたが、起動させることはしなかった。
取り憑かれたように解き続けていた読影問題に、今日は取り組もうとは思えなかった。昨日、ツルギに色々と吐きだしたせいか、問題を解いていなくとも、心が凪いでいるような気がする。
……それにしても、あの話は「ゆらぎ」らしくなかったよなあ。
泣き止んでから、失敗したと思った。ゆらぎはきっと、あんなふうに泣かないし、弱音も吐かない。ツルギに縋り付いて泣きじゃくるなんて真似、絶対にしないだろう。
今日からは、もうすこし気をつけなければ。私はまだあの愛しい現実逃避を終わらせたくない。
◇
学祭の準備期間であるせいか、教室は授業中もどこか浮き足だっていた。このクラスで行うのは、おとぎ話をモチーフにした劇で、どうやら代々受け継がれている脚本があるらしい。そのため衣装なども本格的なものが揃っているようだ。
相澤さんは、その劇の主役、ガラスの靴を落とすお姫様役だ。相手の王子は景なのかと思ったが、違う運動部の男子が演じるらしい。景は、小道具制作などの裏方チーフを務めているようだ。
……相澤さんは、残念がっただろうな。
朝のあの様子だと、作中で恋人同士となるような役を景と演じたかったに違いない。景も罪深いやつだ。
「橘さん、こっちもお願いできる?」
同じ小道具制作の男子が、目の前に何枚かのベニヤ板を置いていく。今の私の役目は、この板たちに指定された色をひたすら塗っていくことだ。単純作業だが、板一枚一枚が私の身長くらいの長さがあるため、労力はそれなりにかかる。
「もちろん、これが終わったらやるよ」
かと言って他のクラスメイトは、皆、私以上に忙しいのだ。学業を優先するために短期集中で準備期間を取るこの高校の慣わし上、のんびりはやっていられない。私としては、三日分の遅れを取り戻したい気持ちもあった。
……でも、楽しいかも。
基本的に作業はひとりだが、すこし顔を上げれば同じジャージ姿でせっせと小道具作りに勤しんでいるクラスメイトがいる。今年はあまり楽しみではないと思っていた学祭も、いざ準備が始まれば悪い気はしなかった。
ようやく一枚のベニヤに緑色のペンキを塗り終えて、額の汗を拭う。まだ本格的な夏というにはずいぶん早いが、屋外で集中して作業をすると汗ばむ気温になってきた。
「あさぎ、無理するなよ、病み上がりなんだから」
背後から話しかけられ振り返ると、器具やら筆やらがいっぱいに詰まった段ボールを抱える景の姿があった。
「平気、楽しいよ」
「おい、まさかそれ全部塗るように言われたのか? ひとりで?」
景は段ボールを地面に置くと、私の目の前の板に触れた。それぞれの隅に鉛筆で色指定がしてある。
「単純作業だから、そんなに苦ではないよ」
「まあ、みんないっぱいいっぱいだからな……」
そう言いながら景は筆を手に取ると、真新しいベニヤ板を塗り始めた。
「景、いいよ。リーダーが不在だと、みんなが困るでしょう」
「今はすこし手空いてるから、呼ばれるまでな」
景は私の倍くらいのスピードで板を塗り進めていく。手際がいいのが憎たらしいところだ。
「そういえば、あさぎが休んでいる間に、後夜祭でクラス全員が浴衣を着ることが決まった」
「え!? 浴衣? 持ってないよ」
後夜祭では、短いが花火が打ち上げられる。花火大会に行くときと同じような要領で、確かに昨年も、浴衣を着ている学生たちはちらほらと見かけた。上級生たちには特に多かった気がする。私はもちろん、いつも通り制服姿で花火を楽しんだのだ。
「担任からは全員着ないなら誰も着るなとのお達しだ。仲間はずれを作りたくないらしい」
「そんな……」
公平にしようとするのはいいが、これではほぼ強制ではないか。
……買いに行くしかないかな。
ゆらぎも、おそらく持っていなかった気がする。ゆらぎの高校でも学祭があり、同じように花火が打ち上げられていたが、あちらでは浴衣というより仮装をして花火を見るのが慣わしのようなのだ。ゆらぎもたしか、季節外れのハロウィンのカボチャの帽子をかぶって楽しんでいたはずだ。
幼いころに家族で花火大会にいったことはあるが、あのころの浴衣は当然もう着られないだろう。やはり、買いに行くしかない。
「あさぎ」
景が、ペンキを塗る手を止め、私に背を向けたまま切り出した。
「その、もしよければ、学祭の前日にでも――」
「――景! こっちの大道具って、どこまで組み立てればいいんだっけ!?」
遠くから、景を呼ぶ男子の声がする。自分の背丈ほどもある大道具を引きずって何か言っているようだ。
「組み立てすぎだ! ……まったく、どうやって校舎に入れるんだよ」
筆を置いて、景が立ち上がる。最後はほとんど嘆くような口調だった。
「早くいってあげて、ここは大丈夫だから」
こちらの単純作業とは違い、あちらには景の指揮が必要そうだ。景が先程まで手にしていた筆を取って、塗りを再開する。微かに、景の手の温もりが残っていた。
「あ……そうだな、悪い」
「全然、頑張ってね」
ひらひらと手を振って、景を見送る。Tシャツ姿の景の後ろがぐんぐん遠ざかっていった。
……浴衣か。
予想外の予定ができてしまったことに、小さく息をつく。
やっかいな決めごとをしてくれた担任だが、それでも、景の浴衣姿だけは楽しみなような気がした。
◇
「やっぱり、ないよなあ……」
その日、帰宅するなり早速ゆらぎのアトリエを覗き、ツルギが整理してくれた箱の中身を確認してみたが、やはり浴衣は見つからなかった。ついでにこの二年ほどのゆらぎの写真で彼女が浴衣を着ているものはないかAIに尋ねてみたが、やはりない。気が進まないが、新たに買うしかなさそうだ。
箱の中から取り出したスケッチブックをひとつひとつ手に取って、再び箱に収めていく。厚紙でできた表紙には鉛筆が擦れたような黒い痕がいくつもあって、ゆらぎが手を黒くしながら懸命にスケッチしたのが伝わってきた。
なんとなく、一冊のスケッチブックをぱらぱらと開いてみる。りんごや彫像、花瓶など、他愛もないものだったが、あるときから人物のスケッチに切り替わった。
……あ、これは雪森さんかな。
どこかいたずらっぽく笑う少女の姿に、いつか美術館で出会った彼女の同級生の顔が蘇った。彼女はゆらぎの親友だと言っていたが、ゆらぎも同じ気持ちだったようだ。明らかに、親しみと温もりを帯びた絵だった。
ぱらぱらと再びめくっていると、不意に見慣れた顔が現れた。おそらく、今より少し幼い私だ。
場所は、ゆらぎのアトリエだろうか。古びたソファーに腰掛け軽く膝を組んで、視線を手元の本に落としている。開いた窓のそばでは軽やかなカーテンがなびいていて、空気の流れがこちらにまで伝わるようだ。
……ちょっと、美化しすぎな気もするけれど。
これだけを見れば、どれだけ涼しげな美少女だろうと思ってしまう。ゆらぎの贔屓目が入っているような気がした。
その後、何枚も何枚も、私の絵が続いた。どれも静かに微笑んでいて、非常に理知的な印象を受ける。だんだん気恥ずかしくなってきた。
……ゆらぎの自画像はないのかな。
同じ顔だが、明らかにここに描かれているのは私だ。ゆらぎが笑うときは、もっとぱっと花が咲くように華やかで明るいのだから。
一枚一枚捲り続けていると、ふと、私の絵から青年の絵に切り替わった。こちらも見慣れた顔だ。人並み外れて整った目鼻立ちと、しみもほくろもない滑らかな肌。ツルギだ。
元は絵のモデルも兼ねて迎えられたアンドロイドなのだから、モデルになるのも納得だ。どこか無機質な印象を抱くツルギの姿が何枚も続いた。
最後のページまで見て、次の番号のスケッチブックに手を伸ばしてみる。ツルギと暮らし始めてからのスケッチなのか、途中で私や雪森さんのスケッチが挟まることもあるが、基本的にはツルギ一色になっていく。
正直、驚いた。どのツルギの姿も、今とはまるで違う。いかにもアンドロイドらしい、機械的な表情を浮かべた姿だった。微笑んでいても、まるで熱を感じない。心があるのでは、と錯覚する絵は一枚もない。
ぱらぱらとページを捲り続けていると、ふいに、色鉛筆で描かれた絵が現れた。ざっと色付けしているだけなのか、荒い印象を受けるが、既視感のある絵の構図に思わず手が止まる。
それは、いつかゆらぎが描いていた星と少年の絵だった。紺色の空に金や銀の星が一面に散っていて、その空の下、静かに横たわる灰色の髪の少年が、星と同じように淡く光っている。
これは、あの絵の下書きのようなものなのだろう。白黒のスケッチの中に突然この一枚を混ぜたことに微かな違和感を覚えながらも、再びページを捲る手を再開した。
次のページからもツルギの絵が続いていた。だが、先ほどまでとは何かが違う。全体的に、雰囲気が丸みを帯びたような気がするのだ。
……目が、違うのかも。
ツルギのまなざしが、明らかに変わった。今のツルギに近い目をしている。機械的に浮かべていたはずの微笑みにも、どこか熱を感じる。
知らぬ間に、心臓が早鐘を打っていた。うるさいほどに頭の中に鳴り響く鼓動を聞きながらも、ページを捲る手を止められない。脳裏には、自然といつかゆらぎが見せてくれた星の形をした何かのレプリカだという作品が浮かんでいた。
「っ……」
最後のスケッチブックの、終盤のページで、思わず息を呑んだ。
それは、やはりツルギを描いたスケッチだった。ツルギはこちらを見て、美しい微笑みを浮かべている。
だがその眼差しは、とてもアンドロイドと呼べるものではなかった。あふれんばかりの慈しみと、愛しさと、そして焦がれるような生々しい熱をわずかに帯びた目だった。
明らかに、描き手への――ゆらぎへの愛情を感じる。この目は、人間が愛しい者に向ける、甘いまなざしだ。
そしてゆらぎの絵も、それに応えているように見えた。繊細なタッチも、彼の雰囲気丸ごと写しとったかのような鮮やかな臨場感も、何もかもに彼への愛を感じる。
明らかに、これは相思相愛の絵だった。何も知らなければ、画家が恋人を描いた絵だと思うだろう。
スケッチブックを持つ手が震える。私は今、ツルギとゆらぎの秘密を、見つけてしまったのではないだろうか。
「ゆらぎ?」
背後から声をかけられ、はっと振り返る。思わずスケッチブックを胸に抱きしめた。
「ごめん、いきなり話しかけて。ノックしても返事がなかったものだから、入ってきちゃった」
ツルギは、いつも通りだった。ちらりと時計を確認すれば、夕食の時間になっていた。ずいぶん長い間、スケッチブックに夢中になってしまったらしい。
「昔の作品を見ていたの? 珍しいね」
ツルギは、あたりに散らばったスケッチブックを一冊ずつ拾いながら、まとめて箱の中に戻した。
「それもしまう?」
「あ……」
スケッチブックを抱き抱えていた手を緩め、ツルギに手渡す。知らぬ間に指先が震えていた。
「食事の準備ができたよ。行こう、ゆらぎ」
床に座り込んだ私に、彼が手を差し伸べる。手を重ねた瞬間、力強く引き寄せられた。
ふらり、とバランスを崩してしまい彼の胸に頭が当たる。つないでいないほうの彼の手が、そっと私の前髪を撫で、額にくちづけた。
彼の指先が私の髪を梳いていく。慈しむような繊細な手つきに、なんだか泣き出したくなった。
……ツルギ、やはり、あなたには――。
すべての事実から目を背けるように、彼の胸に額を擦り付ける。
スケッチブックを見てからずっと、脈は早いままだった。ときめいているから、なんて理由だったらいっそよかったのに。
窓から差し込んだ夕焼けが、ぴたりとくっついたふたりの影を長く伸ばす。その影はまるで恋人たちを映し出したかのようだった。
◇
ツルギとゆらぎの秘密に、おそらく私は辿り着いてしまった。
その衝撃からうまく抜け出せず、どこかぼんやりとした心地のまま日々が過ぎていた。気づけば、学祭初日は明日に迫っている。
衣装の小さなほつれを黙々と直しながらも、頭の中ではツルギとゆらぎのことを考えていた。あの慈しむようなまなざしをしたツルギの絵が、ずっと眼裏に焼き付いて離れない。
「っ……」
ちくりと左の人差し指に鋭い痛みが走って、はっと我に帰った。遠くに聞こえていたような教室の雑音が、鮮やかに降りかかってくる。教檀のそばでは、役者チームが演技をしながら最終調整をしていた。
人差し指から、ぷくりと赤い血が浮き出してくる。ハンカチを取り出し、それに血を吸わせた。針で刺した程度だから大した傷ではないが、衣装が汚れてしまったら大変だ。
「あさぎ、ヒロインの衣装直ったか?」
忙しそうにあちこち駆け回っていた景が、視界に飛び込んでくる。準備の最終日というだけあって、今までになく忙しそうだ。
「直ったよ。持っていっても大丈夫」
「手、怪我したのか」
景の表情が曇る。案外心配性な彼を安心させるように、ハンカチから手を抜いてひらひらと振って見せた。
「ちょっとした針刺し事故だよ」
「縫合はうまいくせに、裁縫はだめなんだな。生活力のなさが露呈してる」
いつものように軽口を叩きながら、彼はポケットから絆創膏を取り出した。鋏でわずかに切り込みを入れたかと思うと、慣れた手つきで指先に巻きつけてくれる。
「驚いた、持ち歩いているの」
鋏はともかく、絆創膏まであるとは思わなかった。
「大道具係も小道具係もちょっとした怪我が絶えないから、持ち歩くことにしたんだ。便利だろ」
「歩く処置カートだね」
「もうすこしいい言い方しろよ……」
景が巻いてくれた絆創膏を眺める。切り込みを入れたおかげで、指先にしっかりと密着している。動かしてもずれにくそうだ。
「……最近、ずいぶんぼうっとしているみたいだけど、何かあったのか」
ふと、真剣な声音で景が尋ねてくる。忙しいくせに、私のことをよく見ているらしい。
「そうだね……何かあったというか、見つけてしまったというか……」
確証のない話だ。忙しい景にわざわざ話す必要はないだろう。それに、この件にあまり景を巻き込みたくなかった。
「景! ちょっときてくれ! 最終確認がしたい!」
役者チームのほうから、声がかかる。景は振り返ってさわやかに返事をした。
「今行く、ちょっと待っててくれ」
断りを入れてから、彼は再び私に向き直った。私の言葉の続きを、聞いてくれようとしているらしい。
「景、私は大丈夫。今は学祭に集中してよ。あ、衣装のほつれがあったらまた直すから、持ってきてね」
衣装を軽く畳みながら景に手渡す。特別裁縫が得意なわけではないが、手が空いている人間は少ないから請け負うつもりでいた。
「わかった、学祭が終わったらクレープでも食べながら聞かせてくれ。……たしか、あさぎに二回奢ってもらわなきゃいけないはずだからな」
「忙しさで忘れてくれてたらよかったのに……」
この二週で小テストがふたつ行われたが、私は景に数点差で負けていた。ちょっとした計算ミスと、字が汚過ぎて判別されなかった漢字の減点分の差だ。悔しい。
「忘れるわけないだろ」
景はどこか悪戯っぽく笑うと、ヒロインのドレスを片手に抱えて去っていった。水色の生地がひらひらと靡いている。
「橘さん! ごめん、ちょっと手借りていい?」
教室の隅で小道具の最終調整をしていたグループから声がかかる。
「もちろん」
眼裏に浮かぶツルギの絵から逃れるように、作業に没頭する。景にすら相談できなかったのだ。この件には、私ひとりで向き合わなければならないだろう。
◇
「よかった、なんとか間に合いそうだね……」
小道具班のリーダーが、整然と並べられた作品たちを見て満ち足りた息をつく。私も、達成感に似たものを味わっていた。
「いよいよ明日からか、楽しみ」
校舎には垂れ幕もかけられ、学内の空気は弾んでいた。ひょっとすると、この時間帯がいちばん楽しい時間かもしれない。
ステージ発表は二日にかけて行われる。私たちの番は、最終日の昼過ぎだった。確か、最後から二番目の発表だったはずだ。
「ね、みんなで決起集会しない? おいしいケーキ屋さんがあるの」
「いいね、行こ行こ。橘さんも行くでしょ?」
非常に魅力的な提案だったが、おずおずと口を開く。
「ごめん、今日は行けそうにないんだ。浴衣を買いにいかなくちゃ」
ずいぶんぎりぎりになってしまったが、流石に今日行かないと時間がなさそうだ。ツルギも見立ててくれると言っていたので、商業地区で待ち合わせをしていた。
「もしかして、星川くんと行くの?」
小道具班の注意が、いっせいに私に向けられるのがわかる。まさか景の名前が出てくるとは思わず、驚きながらも首を横に振った。
「ううん。景はたぶん、忙しいし」
「橘さんが言えば絶対来ると思うけどなあ」
「実際、どうなの? まだ付き合ってないの?」
相澤さんにも似たようなことを聞かれた。仲がいいとは自分でも思うし、景のことは好きだが、付き合いたいのかどうかはよくわからなかった。深く考えてみたことがないのだ。
「幼馴染ってだけだよ」
恋に興味がないわけではないが、正直今はそれどころではない。たくさんの秘密につつまれた、見つけてよかったのかどうかもわからないような秘密に打ちのめされているところなのだから。
「じゃあ、私はもう行くね。決起集会、楽しんでね」
「早く終わったら合流してもいいんだからね! 連絡して」
気のいい人たちだ。鞄を肩にかけ、軽く手を挙げる。
「ありがとう、じゃあね」
手を振って、教室を後にする。廊下もまた、学祭一色に染め上がっていた。
ふと、廊下の窓から校庭で練習をする相澤さんたちの姿が見えた。私がほつれを直した水色のドレスを着て、芝生の上で軽やかに舞っている。男女問わず、多くの人の視線を奪っていた。
景も、例外ではないようだ。脚本を片手に、柔らかく微笑みながら相澤さんを見つめている。
その姿を見て、気づけば私も頬を緩めていた。
景が笑っているなら、なんでもよかった。付き合う付き合わないについて深く考えたことはないけれど、彼が笑っていられるなら相手は誰でもいい。相澤さんは景のことが好きなようだし、お似合いのふたりだ。
世の中だいたい、私でなくても問題ないことがほとんどだ。その気軽さを、私は気に入っていた。
……でもひとつだけ、私でなければならないことがあるとすれば。
ぎゅ、と指先を握り込んで、窓辺を後にした。いつも通学に使っているバスとは違う路線のバスに乗り込み、商業地区へ向かう。ツルギとは、この街の待ち合わせスポットである噴水の前で落ち合う約束をしていた。
二十分ほど揺られ、バスから降りる。平日の夕方でも、商業地区は賑わっていた。
数分かけて大噴水の前に向かう。待ち合わせしているらしい人々が、大勢たむろしていた。
その中でも、ツルギは人目を引いた。灰色の髪、灰色の瞳、全体的に色素が淡く消え入りそうな儚さがあるのに、妙に意識を奪われる。それが、彼の魅力のひとつなのかもしれない。
その姿を遠目で見かけてから、いちどだけ深呼吸をする。気持ちを、切り替えなければ。
「ツルギ!」
はずむような声を意識して、ツルギのもとへ駆け寄る。ゆらぎならば、こうするはずだ。
「ごめんね、待たせたかな」
ツルギは柔らかに微笑み首を横に振ると、私が肩にかけていた鞄をさっそく持ってくれた。
「ゆらぎこそ、準備は大丈夫だった?」
「ちょうど終わったから平気。間に合ってよかった」
私たちの周囲でも、次々に人々が落ち合っていた。噴水の雫が、傾き始めた日の光をきらきらと反射している。
「調べてみたけど、どこのデパートでも浴衣フェアをやっているみたいだ。値段も平均すれば大差はなさそうだよ」
ツルギはしっかり下調べをしてきてくれたらしい。夏休みにはこの街の名物の花火大会も行われるからどこにでも浴衣は売っているだろうと思っていたが、予想通りだ。
「じゃあ、近いところからにしよう!」
ツルギの手を取って、最寄りの建物に向かって歩き出す。ゆらぎなら、必ずこうするはずだ。
本当は浴衣の柄にこだわりなどなかったが、ゆらぎなら吟味するだろうと思い、いくつかの店を見て回った。ゆらぎの好きな浅葱色の浴衣を探していたのだが、近ごろの流行ではないのか、なかなか見当たらない。四店舗回った末に、結局白地に落ち着いた青と赤の草花が描かれた浴衣と、赤い帯のセットに決めた。ツルギが髪も纏めてくれるというので、それに合わせた赤い髪飾りも購入した。
当日は、後夜祭準備のために二時間ほど時間があるので、いちど帰宅してツルギに身支度を頼むつもりだ。彼のおかげで着付けの心配をしなくていいのは助かった。
四店舗も回ったせいで、すっかり遅くなってしまった。空には紺色が滲み始めている。今日はよく晴れているから、星が見えそうだ。
「ツルギのおかげで、納得いくものを選べたよ。ありがとう」
なるべく溌剌とした笑みを意識して、ツルギに笑いかける。彼もまた、慈しむようなまなざしを私に向けた。
「力になれてよかった。ゆらぎの浴衣姿、楽しみだな」
ふわりと風が吹いて靡いた私の髪を、ツルギの指先がそっと耳にかけてくれた。壊れ物に触れるような、繊細な仕草だ。
他の大体のゆらぎの行動は模倣できるけれど、この瞬間だけはわからない。ツルギに触れられたときゆらぎは、いったいどんな反応をするのだろう。気恥ずかしそうに微笑むのだろうか。それとも、はしゃいで彼に抱きつくのだろうか。
「あさぎ?」
ゆらぎなら、後者の気もするがわからない。この迷いこそが、不信感を与えると思うのに。
「あさぎ? あさぎだろ?」
ふいに背後から腕を掴まれ、はっと我に帰る。自分の名前を呼ばれているのに、すぐに気づけなかった。
「あ……景」
振り返ると、学校帰りらしい景と目が合った。その隣には、相澤さんの姿もある。相澤さんは穏やかに微笑みながらも、私の腕を掴む景の手をどこか切なそうに眺めていた。
「奇遇だね、こんなところで会うなんて。相澤さんもこんにちは」
景の手を振り解いて相澤さんに挨拶をする。正直、今ばかりは景との邂逅を喜べなかった。
「柚原たちが教室に残っていた奴らで決起集会しようっていうから来たんだが……どこいったんだか。見かけなかったか? 連絡もつかないし……」
柚原くんは確か王子役を務める役者チームのリーダーだ。クラスの中心的メンバーで集まる予定だったらしい。小道具班といい、きっとクラスのあちこちのグループで似たようなことをしているのだろう。
「ううん、見てないよ」
景と相澤さんがふたりで取り残されたのはなんとなく作為的なものを感じる。きっと、気を利かせた周りがふたりにしてあげようと考えたのだろう。現に、相澤さんは景ほど必死に他のメンバーを探しているようには見えなかった。
「あさぎは? 商業地区まで何しに来てたんだ?」
「浴衣を買いに来たの。ツルギと一緒に」
景が登場してから、ツルギは一歩下がったところで会話を見守っている。外だから、声が聞こえるかどうかぎりぎりの距離だろう。
「そうか。……買い物が終わったなら、よければあさぎも合流しないか? 限定のレモンケーキがある店らしい」
相澤さんの表情が、かすかに曇る。相澤さんからしてみれば、せっかく景とふたりの時間に、邪魔者が現れたような気分だろう。
「せっかくだけど、ツルギがご飯の準備をしてくれているみたいだから、今日は帰るよ」
景が、冷めた目でツルギを見つめる。
「あさぎ……さっきあいつ、あさぎのことゆらぎって呼んでなかったか? 名前を呼び間違えるような不具合があるなら、あさぎのお母さんに相談するべきだ」
心臓が、飛び跳ねたような気がした。
ああ、だから景とツルギを引き合わせたくなかったのだ。景の勘のよさは、私の下手な芝居も、私とツルギを結びつけている理由も簡単に見抜いてしまうだろうから。
「さあ……聞き間違いじゃないかな?」
いちどなら、この言い訳で通るはずだ。だが、景は疑念を捨てきれないまなざしで、私との距離を詰めた。
「笑い方だって、あさぎらしくなかった。あれじゃ、まるで――」
「――景に見せない笑顔があるかもしれないって思わない? 考えすぎだよ」
彼の視線から逃れるように一歩引く。我ながら可愛げのない言い方をしたと思ったし、景も気に障ったようだった。
「俺に見せない表情でアンドロイドごときに笑いかけているんだったら、そんなに腹立たしいことはないな」
景の瞳が、今までにないほど冷えきったのがわかった。思わず、びくりと肩を跳ねさせる。
その瞬間、背後から思い切り肩を引き寄せられた。
「――やめてくれるかな、ゆらぎが怖がっている」
心地よく澄んだ、ツルギの声だった。だが、まるで怒っているかのような不思議な熱を感じる。
「ゆらぎ、って、お前――」
景の表情に明らかな怒りが滲む。放っておけばツルギにつかみかかりそうな勢いの景と、とっさに距離を取った。
「景! これは……これは、私たちの事情だから……関わらないで。景には関係ないよ」
自分でもわかっている。これは明確に、彼を突き放す言葉だった。景の苛立ちがいっそう強まった気がする。
「早く、行きなよ。相澤さんもいるんだし、待たせたらよくないよ」
それ以上景の顔を見ていられず、俯いたまま促す。景と相澤さんの黒い革靴だけが、ふせた視界に映り込んでいた。
「そいつがいないところで、必ず話を聞かせてもらう。……逃げるなよ」
答えずにいると、やがて視界からふたりの靴が消えていった。どうやら今日のところは、諦めてくれたらしい。どっと疲れが押し寄せてきた。
「ゆらぎ? 大丈夫?」
ツルギがそっと屈んで、私の顔を覗き込む。頬にそっと触れられて、慌てて笑みを取り繕った。
「あ……ごめん、平気だよ。……さっきのことは、気にしないで」
ツルギの指が、確かめるように口角と頬をなぞった。そうして、満足いったとでも言うように目を細める。
「そうするよ。……じゃあ、帰ろうか、ゆらぎ」
ツルギに手を握られて、ふらふらと歩き出す。さっきの会話のどこまでを、ツルギに聞かれていただろう。
……でもツルギ、きっと、あなたもわかっているんでしょう。
言葉には出せないまま、彼の後に続く。
いつか雪森さんが言った通り、確かに誰がどう見ても、私たちは歪な関係だった。

