第二章
ゆらぎが、真っ白なキャンバスの前に座って、何やらパレットの上でぐるぐると絵の具を混ぜあわせている、真剣そのものの彼女を微笑ましく思いながら、作業の邪魔にならないよう遠くから眺めていた。
だが、彼女はすぐにこちらの気配に気づいたらしく、ぱっと明るい笑みを見せた。
「あさぎ!」
「……ごめん、邪魔するつもりはなかったんだ」
はにかむような笑みを浮かべて、ゆらぎのそばへ歩み寄る。履きなれないスリッパがぱたぱたとなった。この間ゆらぎと一緒にルームウェアの専門店へ立ち寄ったときに買った、パステルカラーのスリッパだ。
「いいの、ちょうどいい色ができたところだから、あさぎにも見てもらいたいよ」
「わたしに色の良し悪しがわかるかなあ」
パレットを覗き込めば、緑や青、黄色のそばに青緑に近いような絶妙な色が載っているのが見えた。好きな色だ、と直感的に思う。
「この色で、空を塗りたくて」
「きれいだ」
「ふふん、何を隠そう、これこそが浅葱色だよ」
ゆらぎは、自慢げに鼻を鳴らすと、筆に絵の具をいっぱいにつけ、キャンバスに大きな横線を描いた。これがやがて空になるのだから、ゆらぎはすごい。
「へえ、これが。葱って書くくらいだし、もっと微妙な色なのかと思っていたよ。それに、浅葱裏の浅葱だし」
「景くんのことはそろそろ許してあげたら?」
ゆらぎがくすくすと笑う。思えば景は、ゆらぎにはずっと優しかった。私に対する態度とは大違いだ。
「ゆらぎにするみたいに親切にしてくれたら、とっくに許しているところだよ。まあ……景もゆらぎには嫌われたくないんだろうね」
思わず独り言のように呟けば、ゆらぎは長いまつ毛を瞬かせて笑った。
「なあに? あさぎが鈍感だって話?」
くすくす笑いながら、ゆらぎはせっせと筆を動かしていた。浅葱色が、キャンバスの上半分いっぱいに広がっていく。
「これは、どんな絵になるの?」
「それを聞くのは野暮だよ、あさぎ。できてからのお楽しみね、いちばんに見せてあげるから」
「いちばん? 彼よりも?」
部屋の隅で、ゆらぎの描いた絵画の整理をするツルギを横目で見やる。ゆらぎは、どこか悪戯っぽく笑った。
「彼は別よ。モデルにもなってくれている、共同製作者ともいうべき相手だから」
「ふうん」
ツルギがやってきてから、ゆらぎのいちばんが私でなくなることが増えた。一緒に暮らしているのは私ではなくツルギなのだからある程度は仕方がないと思っていても、所詮はAIのくせに、という思いが拭えない。彼にはきっと、ゆらぎの想像力の素晴らしさも、弾むような心が生み出す美しい感情も、何も理解できていないのだろうから。
「人気者のゆらぎの時間を独り占めするなんて、贅沢なアンドロイドだね」
深く考えもせずに告げたつもりだったが、軽やかに筆を動かしていたゆらぎの手が止まった。そうして、見たこともないような真剣なまなざしに捉えられる。
「……アンドロイドじゃないわ、ツルギよ」
「え? ……あ、ごめん」
情けない声を出しながら、咄嗟に謝ることしかできなかった。
ゆらぎが怒りらしきものを見せたのは、これが最初で最後だった。
「いいの。――そうだ、ヒントをあげるわ。この絵はね、先月に行ったある場所の絵なの」
何ごともなかったように上機嫌で説明を始めるゆらぎに言葉に相槌を打ちながらも、意識の半分は部屋の隅で静かに仕事をこなすアンドロイドに向けられていた。
……ずいぶん、ゆらぎに気に入られているのね。
紛れもなくあれは、ゆらぎの「特別」だ。たったひとりの片割れを横取りされたような気がして、どうにも面白くなかった。
……やっぱり嫌いだ、AIなんて。
◇
「ゆらぎ、ゆらぎ、起きて。学校に遅刻してしまうよ」
いつもの機械的なアラームの代わりに、柔らかな声に起こされる。ゆっくりと目を開けると、陽光に透ける灰色の髪が目の前で揺れていた。きれいだ。
「ん……」
寝ぼけたままなんとなくその髪に手を伸ばすと、青年らしい大きな手がすぐに重なった。
「どうしたの、ゆらぎ。今日はお寝坊さんだね」
くすりと吐息まじりの笑みが降ってきて、手の甲をなだめるようにさすられる。そこまできて、ようやく状況を理解して飛び起きた。
「っ……ツルギ!」
「おはよう、ゆらぎ。よく眠れた?」
にこにこと人畜無害な笑みを浮かべて、彼は嬉しそうに私の手を取っていた。もっとも、そう見えるだけで心の動きなどどこにもないのだろうけれど。
「……起こしにきてくれたの」
「もちろん。ついでに支度も手伝いに。新しい制服はどこにアイロンをかけるべきか迷ったけど、上の服とスカーフにかけておいたよ」
「そ、そう……ありがとう」
ツルギには『母の意向でしばらくあさぎと同じ高校に通うことになった、これは絵本作家の夢を認めてもらうためにやむを得ず受け入れなければならない条件だ』と説明し、新しい住居として私の家を紹介した。「絵本作家になるのに、医師の勉強もするの? 大変だね」とは言われたが、基本的には受け入れてくれたようだ。
……ゆらぎの高校はブレザーだったもんね。そこは説明してなかったな。
私の通う高校の制服はセーラー服だから、構造の違いに戸惑っただろう。そこまで気が回っていなかった。
「はい、どうぞ」
ツルギはクローゼットの中にかけていた制服を取り出し、手渡してくれた。至れり尽くせりだ。
「ありがとう……じゃあ、着替えるから出て行ってくれる?」
「なんで? 手伝わなくていいの?」
「えっ?」
いくらアンドロイドでも、異性の姿をしたツルギの前で着替えるのは若干の抵抗がある。ゆらぎは、そのあたりは完全に割り切っていたのだろうか。
……変なの、ツルギをアンドロイドって呼んだら怒ったくせに。
浅葱色の空を思い出しかけて、一瞬手が止まる。夢の名残りを、無理やり頭の隅に追いやった。
「だ、大丈夫。もう高校生だし、このくらい自分でできるから」
「わかった。リビングで待っているね」
従順に微笑んで、ツルギは私の部屋を後にした。ひとりになって思わず、ふう、と大きな息をつく。
衝動的にツルギを連れ帰ったはいいものの、アンドロイドとの生活は苦労も多そうだ。
一通りの身支度を終えリビングへ出て行くと、シチューのいい香りがした。
どうやら、ツルギが朝食を用意してくれたらしい。メニューは昨日彼が作ってくれたにんじん抜きのシチューと、トーストだ。
「あ……ありがとう」
「紅茶もあるよ」
ふわり、と柑橘系の香りのする紅茶が、目の前に置かれる。
本当は、私はにんじんは好きだし、紅茶かコーヒーかで聞かれたらコーヒー派だ。
でも、これでよかった。何もかも、ゆらぎの好きなものだ。ゆらぎのために用意された朝食が並んでいることが、何より嬉しかった。
「いただきます」
私が食事を始めると、彼も私の向かい側に座り、にこにことこちらを眺めてきた。どれだけ人に近い形をしていても、さすがに食事は摂らないらしい。それが不自然に思えるほど、彼の振る舞いは限りなく人に近かった。
「あれ……その服、洗濯したんだ」
「そうだよ、夜の間に」
昨日、私と出会うまで、どうやら彼はゆらぎの事故現場にずっと滞在していたらしい。そのせいで、服はところどころ薄汚れていた。
いちどゆらぎの葬儀の後に姿を現したはずだが、あのとき私が何かを言ったせいで、ツルギはずっと事故現場にいたのだろう。果てのない喪失感に襲われていたせいか、あの日の記憶が曖昧だ。
……服も、用意してあげなきゃいけないのかな。
私が命じるまもなく自分で洗濯してくれるなら、しばらくは大丈夫だろうが、どうしたって生地は摩耗するだろう。それに、洗濯中に何を着ているか知らないが、全裸で出歩かれても困る。
ツルギは、飽きもせず私の食事風景をにこにこと見守っていた。
「そんなに、面白いかな?」
「うん、楽しいよ。ゆらぎがご飯を食べているところ見るの。ぼくと違って、ちゃんと人間で、生きてるんだなって思えて」
本当に、心があるかのようなことを言うアンドロイドだ。だが、ゆらぎに対する好意的な言葉を聞いているのは、心地よい。
ツルギがいつもより早めに起こしてくれたおかげで、朝食はゆっくりと摂ることができた。残り一口になった紅茶を啜りながら、星占いを眺める。今日の順位は一位だった。
「やったね、ゆらぎ。いいことがあるといいね」
ツルギは自分のことのように喜んでみせた。こういうとき、ゆらぎなら負けじとはしゃいで見せるのだろう。
「う、うん。やったあ……!」
どうしても、溌剌としたゆらぎの演技は慣れない。ツルギと暮らして行くのなら、身につけるべきだ。彼に、不信感を抱かせてしまえば、きっとこの現実逃避は終わってしまうのだから。
「バス停まで送るよ」
「あ……そうだね、まだ、慣れないし」
本当は目を瞑ってでもいける道だったが、素直に送ってもらうことにした。といっても、歩いて三十秒ほどの距離なのだが。
「あと十八秒で、バスが来るよ」
バス停に着くなり、ツルギはごく自然に教えてくれた。なるほど、これは便利かもしれない。AIには好意的になれないが、いちどこの便利さを知ってしまえば手放せないのも納得だった。
ツルギの言う通り、バスは十八秒後にやってきて、扉を開けた。乗り込んでから、そっとツルギを振り返る。
「行ってらっしゃい」
「うん……行ってきます」
慣れない挨拶の直後に、バスのドアが閉まる。誰かに見送られる経験なんて、初めてに等しい。実家にいるときも、忙しい母は私を見送ることなどなかったから。
不思議な心地だった。今日一日を頑張れそうな、ぽかぽかとした温かいものが胸の奥に宿っている。
「あいつ、誰?」
背後から大きな影が降ってきて、びくりと肩を跳ねさせた。驚いて振り返れば、景がいつの間にか私の後ろを陣取っている。
「景……珍しいね、この時間に乗っているなんて」
彼は大抵私より二、三本早い便で高校に到着している。部活には所属していないが、朝の始業前の時間にバスケットボールなどをする男子生徒たちに混じって体を動かしているそうだ。
「たまには寝坊くらいする。……それより、あれ誰?」
心なしかいつもより圧が強い気がして、わずかに距離を取った。そのぶんだけ、すぐに詰められてしまったけれど。
「あれって、ツルギのこと?」
「ツルギ? ……ずいぶん親しげに挨拶してたけど、なんでだ?」
「うん。昨日から、一緒に住んでるんだよ」
景の表情が、一瞬でこわばる。気のせいかもしれないが、周りで談笑していた学生たちも、まるでこちらに聞き耳を立てるように息を潜めた気がした。
「一緒に……住んで……?」
激しい動揺を見せる景を見て、すぐに誤解があることを悟った。慌てて、説明を付け加える。
「違う、違うよ、同棲とかじゃないよ。ツルギは、ゆらぎのアンドロイドなの。私が、譲り受けることになって……」
説明しながら、胸がつきりと痛むのがわかった。また、ゆらぎがいないことを思い知るような言葉を口にしてしまった。
景は長い息をつきながら、くしゃりと自分の前髪を握りつぶした。
「なんだ……紛らわしい言い方するなよ」
ひとり暮らしの学生が多い影響で、恋人や友人と半同棲状態になっている者もいるとは聞くが、未成年は未成年だ。褒められたことではないだろう。妙な噂が広がる前に、ここで否定できてよかったかもしれない。
「さすがに誰かと同棲を始めることになったら、景にはいちばんに教えてあげるよ」
唯一の友人に内緒にしておくほど、私は冷たくない。
バスがわずかに揺れて、正門の前に到着した。電子音とともにドアが開いていく。
その瞬間、景の手が私の頭を鷲掴みするようなかたちでぐしゃぐしゃと髪をかき乱した。
「……ほんと、むかつくやつだな、お前は」
私を追い抜くようにバスを降りる直前、ぼそり、とまるで独り言のような調子で彼は言った。一応は櫛を通したばかりの髪を乱しておいてその言い様はないだろう。
手櫛で髪を直しながら、私もバスを降りる。景は、いつもより少しだけ不機嫌そうな顔で私を一瞥すると、私を待つこともなく数歩先を歩いていってしまった。
◇
どことなく不機嫌そうな景の隣で午前の授業を終え、昼食を買うべく購買へ向かう。この時間帯は混雑しているだろうが、人混みに紛れていると余計なことを考えずに済んで楽だった。
長い廊下を歩きながら、ぼんやりと空を眺める。初夏を間近に控えた空は清々しい青空で、あの日ゆらぎが描いてくれた浅葱色の空とは少し違うようだ。あれは、どこで見た空だったのだろう。
「橘さん」
ふいに名前を呼び止められ、ゆっくりと足を止める。振り返れば、白衣を纏った養護教諭が私のそばに立っていた。私たちよりひとまわり上くらいのまだ年若い女性教師は、一部の男子学生に人気だった。
「妹さんのこと、聞きましたよ。……どうか無理はしないでくださいね。つらいときは、いつでもお話ししてください。どんな些細なことでも、保健室に来てもらって構いませんから」
「あ……」
まただ。つきり、と胸が刺されるように痛い。
先生は、多感な時期に姉を亡くした私を心配して、わざわざ声をかけてくれているのだ。整った眉尻を下げて、まるで自分のことのように憂いをいっぱいにした表情からしても、心から私を案じてくれているのだろう。
「はい、ありがとうございます、先生。何かあったら、伺いますね」
愛想笑いのような強張った笑みを浮かべて、一歩後ずさる。だが、先生はそう簡単に私を解放してはくれなかった。
「あなたはひとりでなんでも抱えようとしているように見えるから、心配です。どうでしょう、週にいちど、保健室にお茶を飲みに来るというのは」
「そんな、先生もお忙しいですし」
うすら笑いを浮かべて、視線を逸らす。面倒だ。先生は私を思い遣ってくれているのだとわかるけれど、話せば話すほど、胸が痛くなる。
「……いつでも、待っていますからね」
先生はぽんぽんと私の肩を叩いて、ようやく目の前から立ち去ってくれた。この短い会話で、どっと疲れたような気がする。
……いやだな、いなくなりたいな。
学校を特別好きと思ったことはないけれど、必要な勉強ができるし、景ともくだらない話ができるから、嫌いではなかったのに。この二日間、今まで感じたことのないような閉塞感を覚えてならない。
ふわりと吹き込んできた風に誘われるようにして、開いた窓に肘をついて深呼吸をした。
刈ったばかりの芝生の匂いがする。きっと夏に向けて校庭を整備しているのだろう。けれど、顔を上げてその整えられた庭を見たいとは思えなかった。
何かお腹に入れようと思って購買を目指していたのに、もう何も食べたくなかった。こんな重苦しい気持ちのまま、午後の授業も受けなくてはいけないなんて、考えただけでうんざりする。
その瞬間、スカートのポケットで端末が震えた。のろのろと端末を取り出して、通知を確認する。そこには、見慣れないアイコンと「ツルギ」という文字が表示されていた。
タップして、内容を確認する。そういえば、昨日の夜「端末も新しくしたの」と言って連絡先を教えておいたのだっけ。
『ゆらぎ、今日の夜はゆらぎの好きなオムライスにするよ。お昼ご飯で被らないように、気をつけてね』
思わず、ふ、と口もとが緩んだ。ずいぶん気が利くAIだ。一日の中での献立が被らないようにまで、気遣ってくれるなんて。
……まあ、確かに、ゆらぎはいちど好きになるとそればかり食べるもんね。
一時期、昼食を毎日たまごサンドにしていたときがあったはずだ。栄養管理も請け負っているはずのツルギとしては、苦労もあっただろう。
ゆらぎらしく柔らかな口調で『わかったよ、ありがとう』と返信して、端末をしまう。
端末を操作するために顔を上げたおかげで、刈られたばかりの青々とした芝生が目に入った。ゆらぎならあれを、何色と呼ぶんだろう。
「昼食、摂らないのか?」
どこかぶっきらぼうな声が頭上から降ってきて、顔を上げる。さかさまの視界の中で、景と目があった。
「うん……夜ご飯は、オムライスみたいだし」
視線を窓の外に戻して、窓枠に肘をつく。景が、無遠慮に隣を陣取った。
「オムライス? あさぎは別に好きじゃないだろ。トマト味は吐くほど嫌いなんじゃなかったっけ?」
「ゆらぎは好きだからね」
ゆらぎはよく、私のぶんのトマトも食べてくれていた。実家では私に気遣ってオムライスは出てこなかったけれど、ツルギとふたり暮らしをするようになって、ゆらぎはオムライスのおいしさに驚いていたんだっけ。
「ゆらぎ、って……」
戸惑うように口籠もる景ににこりと笑いかけ、窓辺を後にする。背中に彼の視線をひしひしと感じたが、振り返ることはしなかった。
せっかく、いい気分なのだ。足のつかない深い海で、小さな浮き輪を見つけたような心地なのに、それすら奪われてはたまらない。
『午後も頑張ってね、ゆらぎ』
ツルギから送られてきたメッセージを確認して、端末をしまう。心にのしかかる重たいものを見えなくしたおかげか、いつのまにかまた、自然と息ができるようになっていた。
◇
家に帰ると、玉ねぎを炒める甘い匂いがした。夕焼けが差す部屋の中で、灰色の髪の青年が器用にフライパンを振っている。
「ゆらぎ、おかえり」
屈託のない笑みを向けられて、それに応えるようにわずかに頬を緩める。
家に帰ってきて、同居人が料理を作ってくれているなんて、初めての経験だ。そもそも手料理を食べる機会自体、実家でも数えるほどしかなかった。
「学校、楽しかった? 新しい場所で、疲れていないといいんだけど」
ツルギは火を止めると、わざわざ私の前までやってきた。そこまでしてくれなくていいのに、と気恥ずかしい思いがにじむ。
「平気だよ。……オムライス、楽しみだな」
「いつもの時間には出来上がるよ。ああ、そうだ、日中にゆらぎのお母さんがやってきて、何か荷物を置いて行ったよ」
「お母さんが?」
メッセージのひとつも残さないところが、なんとも母らしい。別に嫌われているわけでもなんでもないのだが、極端に筆不精なのだ。
「うん、ゆらぎの部屋に置いておいたよ」
ツルギは再びキッチンに戻り、調理を再開したようだった。
母からの荷物とは、なんだろう。自分の部屋に戻り、早速届いた荷物とやらを確認してみることにした。
部屋に入った瞬間に、荷物がなんのかは検討がついてしまった。平べったい、長方形の分厚い板のようなものが布に包まれている。
鞄を置き、そっとその布をめくってみた。思った通り、ゆらぎの絵だ。
絨毯の床に膝をついて、傷つけないよう最新の注意を払って布を取り払う。現れたのは、美しい花畑の絵だった。
「きれい……」
思わず、ほう、と息が漏れる。現実の場所を描いたものなのか、それともゆらぎの空想の世界なのかわからないが、引き込まれるように美しい絵だった。
ゆらぎは色使いが上手だ。私が名前も知らないような色をたくさんつかって、鮮やかな世界を描いている。けれど決して目に痛いような配色ではなく、まさに絵本にあったら好まれるであろう柔らかで優しい雰囲気があった。
キャンバスと思われる荷物は、他にも数枚置かれていた、それとは別に、大きな段ボールの箱もふたつ置いてある。ガムテープを剥がしてみると、中から大量のスケッチブックが現れた。
そしてそのスケッチブックの上に、見慣れた母の字で走り書きが置いてあった。
『また、追加で送ります。ゆらぎも、あなたに持っていてもらいたいと思うから。家族の肖像画だけ、わたしたちで引き取ります』
……どうだ、いちどだけ家族の絵を描いたんだっけ。
描き手のゆらぎ自身は、私の構図を対にするような形で描いていたはずだ。ゆらぎはそこに幼い頃に亡くなった父の姿も描いて、母を泣かせたのだっけ。ゆらぎの空想の姿なのに、やさしく微笑む父の絵を見ていると、まるで本当にすぐそばで私たちを見守ってくれているような気になった。
あの絵から、またひとり、いなくなってしまったのだ。
自分の喪失感に手いっぱいになっていたが、ゆらぎを失った母の悲しみはどれほどだっただろう。ゆらぎがいなくなってからツルギに出会うまでの記憶はすべてが曖昧で、うまく思い出せなかった。
つきり、と胸が痛みそうになったところで、部屋のドアがノックされた。静かに、ドアが開いていく。
「ゆらぎ、ご飯ができたよ」
時計を確認すれば十八時半だった。ゆらぎとツルギの「いつもの時間」とは、この時間のことを指しているらしい。
「ありがとう」
「ああ、絵を届けてもらったんだね。あとで整理を手伝うよ」
ツルギは宝物を見るような目で、キャンバスとダンボールを見下ろした。咄嗟に、母の走り書きを後ろ手で握り潰す。
「そうなの。他のものは、追加で送られてくるって」
「アトリエは、あの空き部屋でいいかな」
この部屋に越してきて以来使っていない、小さな部屋がある。ツルギはもう家の中の構造を把握したらしい。
「そうだね……」
私は、ゆらぎと違ってまるで絵を描けない。この現実逃避を続けるためには、ツルギの前で絵を描くわけにはいかなかった。筆の運びひとつで、簡単に見破られてしまうだろう。
ツルギに導かれるようにして、リビングへ戻る。食卓の上には、卵に包まれた綺麗なオムライスとサラダ、野菜のスープが並べられていた。ご丁寧に、麦茶まで置いてある。家で取る水分といえばもっぱらウォーターサーバーの水だけだった私からすれば、革命的だ。
「おいしそうだね」
「よかった。冷めないうちにどうぞ」
朝食のときと同じように、ツルギは私の向かい側に座った。軽く肘をついて、にこにことこちらを見つめている。
「いただきます」
トマトケチャップがふんだんに使われいるであろうオムライスをひと口目に食べるのは抵抗があったが、いちばん手のかかっている料理を後回しにするのは気が引けて、スプーンを綺麗な卵の表面に沈めた。
卵の下からケチャップライスが姿を表すと、ほんのすこし手が震えた。景に指摘された通り、私がトマト味のものを毛嫌いしているというのは本当だ。幼いころにトマトを食べて吐いてから、ろくに口にしていなかった。
意を決して、一口分のオムライスを口に運ぶ。バターで焼かれたらしい卵は絶品だったが、やはりケチャップの味は口に合わなかった。おそらくこれも最高に美味しい味なのだろうけれど、ろくに咀嚼せずに飲み込む。
「どう? 口にあったかな?」
ツルギは、にこにことして問いかけてくる。好きなものを食べたゆらぎの笑顔が見たくてたまらないとでもいうふうに。
「うん、すごくおいしい」
本当は震えるほど苦手な味だったが、構わずにスプーンを動かした。
ゆらぎが好きな食事が用意されること以上に、彼女が生きているように思える事象があるだろうか。ゆらぎと呼びかけられた私がそれを食べていれば、本当にゆらぎが食事をしているような気になった。
ツルギはわずかにも視線を逸らすことなく私を見ていた。いや、ゆらぎを見ていた。朝言っていた通り、彼はゆらぎが食事をする風景を見るのが好きなのだろう。もっとも、感情を持たないAIの言う「好き」もよくわからないが、やっぱり悪い気はしなかった。
「ごちそうさま。ありがとう、おいしかったよ」
にこりとツルギに笑いかければ、彼は満足そうに頷いた。
「よかった。お皿を片付けたら、絵の整理を手伝うね」
「うん、ありがとう。……私は先にお風呂に入ってこようかな」
本当は、いつも就寝ぎりぎりに入るのだが、耐えられそうになかった。席を立ち、平然を装って椅子をもとの位置に直す。
「わかった、五分後にお湯が沸くよ」
「ありがとう」
ゆらぎのような軽やかな足取りでリビングを後にし、ドアを閉める。そのまま、すぐにお手洗いへ向かった。
「っ……う」
うずくまるようにして、便器にたった今食べたものを吐き出す。やはり、トマトの味は受け付けなかったらしい。ツルギの手前無理をして食べていたが、限界だった。
胃腸炎のときくらいしか吐いたことがないが、どうにも不快な感覚だ。勝手に視界が滲んで、息を切らしながら涙を拭った。
「ふ、はは……」
乾いた笑みが勝手にこぼれる。そのそばから、ぽろぽろと感情を伴わない生理的な涙が吐瀉物の中に落ちていった。
馬鹿げてる。私は心を持たないAIと、何をしているのだろう。子どものおままごともいいところだ。
そう、頭の片隅で冷静に判断できる自分はいるのに、無理をしたことを悔やむ気持ちは湧いてこなかった。
だってこれは、必要なことなのだ。私がゆらぎらしく振る舞うための、しなければならない我慢だ。一食戻したくらいで、人は死なない。あとで多めに水分を取ればいい。たったこれだけの代償で、この甘い現実逃避を続けることができるのなら、お安いものだった。
第三章
「あさぎ、見て! ここが私のブースなの」
ゆらぎが高等部に進学した年の夏、ゆらぎの高校では早速各学生の作品の展覧会が開かれていた。私は、母とともに招待を受け、展示会場まで足を運んでいたのだ。
彫刻や、不思議な形をしたモニュメントの並びを抜けて、ゆらぎの作品が展示されているというブースに足を踏み入れた。その瞬間、思わず息を呑む。
「すごい……」
ゆらぎの作品は何度も見ていたが、何枚も集まると圧巻だ。春夏秋冬のそれぞれの花が描かれた絵が、順に並べられている。
ゆらぎが絵本作家を志すことを渋っていた母も、素直に彼女の絵を褒めていた。心からの賛辞だったと思う。
母とゆらぎの幸せに満ちた会話を聞きながら、ゆらぎの絵をひとつひとつ眺めた。
なんて、穏やかな時間だろう。大切なひとたちが楽しそうに話をしていて、自慢の片割れの絵を、心ゆくまで眺められるなんて。
ひとつひとつの絵を見ていくと、ふと、どの絵にも必ず灰色の髪の青年の姿が描かれていることに気がついた。絵にするといっそう透明感が際立つようで、目を離すと消えてしまいそうだ。
「ああ、その人ね、ツルギだよ。わかった?」
ゆらぎは私の隣に駆けてきて、きらきらと目を輝かせて笑った。
「うん。灰色の髪のひとなんて、なかなかいないし」
「我ながらよく描けたと思っているんだ。この冬の寂しそうな表情とか、お気に入り」
ゆらぎが指差した先には、雪の中で空を見上げて微かに笑みを浮かべるツルギの姿があった。モデルがAIだと知らなければ、この青年が抱く哀愁のわけに想いを馳せることができただろう。
「この人の正体は、明かさないほうがいいかもね」
「どうして?」
「だって、この表情はつくりものでしょう? AIに心なんて、ないんだから。せっかくのゆらぎの絵の深みが、半減しちゃうよ」
言ってから、すこしだけ後悔した。以前ツルギをアンドロイドだと言ったときに、彼女は静かな怒りを見せたのだから。
それを思い出してひやりとしたが、ゆらぎは怒らなかった。
代わりに、意味ありげな笑みを口もとに浮かべたのだ。同じ顔をしているはずなのに、彼女は時々想像もできないほど大人びた、どこか謎めいた笑い方をする。
ゆらぎはそれ以上何も言うことはなかった。沈黙がなんだか気まずくて、冬の絵の隅に展示されたガラスケースの前に移動する。
中には、針金でできた星のようなものが収められていた。よく見れば、内部まで緻密に針金が張り巡らされていて、かなり手間のかかった作品だとわかる。
「これも、綺麗だね。こういうものも作るんだ」
ゆらぎは、ガラスのケースにそっと触れながら、まつ毛を伏せた。
「――これはね、私が作り上げた作品の中で、もっとも大切なもののレプリカなの」
意味ありげな笑みを浮かべたまま、彼女はゆっくりと目を閉じた。まるで、神聖なものに触れるかのような仕草に、目を奪われてしまう。
「このレプリカは、展示会が終わったら壊す予定なの。だから、あさぎに見せるのもこれが最初で最後。本当は展示会に出す予定なんてなかったんだけど、あさぎには見せておきたくて」
「壊しちゃうの? こんなにきれいなのに。置き場所に困っているなら私の部屋に置いてもいいよ」
「それは悪くない提案だけど……でもだめ。やっぱり壊すよ。これは、私の手の及ばない範囲においてはいけないと思うから」
まるで劇薬か爆弾でも扱うような口調だった。大袈裟だと思ったが、それだけゆらぎが思い入れのある作品ならば、私が口出しすることでもない。
「そっか、じゃあ最後によく見ておくよ。……本当にきれい」
「ありがとう。……あさぎのそれも、同じくらいきれいよ」
「え?」
意味を図りかねて、思わずゆらぎを振り返る。彼女はぞっとするほど綺麗な笑みを浮かべ、くるりと踵を返した。
「ねえ、春の絵をちゃんとみた? ここに女の子もいるの、気づいたかな」
この話題はここでおしまいらしい。どこか割り切れない気持ちを抱えたまま、ゆらぎの隣へ駆けていった。
◇
……あの星は、なんだったんだろう。
タブレットで問題集を眺めながら、今朝見たばかりの夢を、ぼんやりと思い出す。
結局、あれ以来あの星のような作品を見ることはなかったし、私も夢に見るまで忘れかけていた。きっと、ゆらぎは言葉通りあれを処分してしまったのだろう。ゆらぎがいなくなった今、正体はわからずじまいだ。
「あさぎ、次、実習室だぞ。移動しよう」
景は、すでに次の授業で使う白衣とタブレットを手に持っていた。準備万端だ。
「ああ、うん……あと一問だけ」
白黒の画面に再び意識を集中させ、右肺野の結節影を丸で囲む。タップすると、すぐに答えが表示された。同じ場所に、赤い丸が浮き出てきた。正解だ。
「また読影問題やっているのか。飽きないな、あさぎも。診断AIに頼ればいいだろ。今や99%の精度なんだから」
「うん……でも、99%だから」
私がなんとなくクラスメイトから遠巻きにされているのも、空き時間を見つけては放射線画像の読影問題に取り組んでいるのが原因なのかもしれない。もちろん、医師免許を取るためには勉強が必須な科目であるし、皆、試験前には真剣に取り組んでいるが、AIが99%の精度で正解を叩き出す今、勉強時間は他の分野により割くべきだという考えが主流だった。皆、せいぜい問題集を一周しておしまいだろう。試験はそれで十分に通るし、診療技能としても差し支えないとされていた。
そんな分野に空き時間のすべてを費やすように向き合っていれば、どんな目で見られるかもわかっている。わかっているけれど、これは私の信念と心の平穏のために続けていることだった。
ここ一週間休んでいたせいで、問題集を解くペースが落ちていたのだ。それを取り戻すように、そして余計なことを考えないために、黙々と解いていた。
「まあ、でも、頼りになるな。大規模停電でも起こったら、みんなあさぎに聞きにくるぞ」
「予備電源があるからなかなかそんなことはないだろうけれど……そうだね、力になれる機会もあるかもね」
問題集のアプリを閉じて、私もタブレットを片手に立ち上がる。鞄から白衣を取り出せば、いつもはしわくちゃのそれに、綺麗にアイロンがけがされていた。
「新しく買ったのか? この時期に?」
私のしわくちゃの白衣に見慣れているせいなのか、景は不思議そうに呟いた。まったく失礼なやつだ。
「アイロンがけをしただけだよ。ツルギがやってくれたんだと思う」
「へえ、便利だな」
「景の家にはたくさんいるんじゃないの」
彼の家は、大病院を経営する医師一族のはずだ。多忙な両親に代わって、彼を世話するアンドロイドは当然いるだろうと思っていた。
「両親は使ってるけど、俺はあんまり。大体自分でなんでもできるしな」
それが見栄でもなんでもないところが憎らしい。実際彼は料理も家事も、なんでもそつなくこなせるのだ。ひとり暮らしを始めてからいちども自炊したことがない私とは大違いだった。
「嫌味なくらい優等生だね、景は」
くすりと笑いながら白衣とタブレットを片手に席を立つ。そろそろ移動しなければ次の授業に間に合わないだろう。
その瞬間、不意に景の手が私の肩に触れ、まじまじと顔を覗き込まれた。彼の使う洗剤が香るような距離に、たじろいでしまう。
「なに、景」
「……顔色が悪くないか?」
どきりとした。これだから医者の卵は厄介だ。
「そうかな?」
「自覚がないなら視診の能力の低さを恥ずべきだな。……ちゃんと食べているんだろうな」
今朝の食事も、昨日の残りのケチャップライスだった。ツルギはどうやら、夕食を多めに作って残ったものを軽くアレンジして朝食に出すスタイルのようだ。材料費を節約する意味でも理にかなっているし、十分に贅沢な食事だと思う。結果的に今日は朝食も吐き戻すことになったが、一日くらい、なんてことない。
「食べているよ。それはもう栄養の考えられた贅沢なものをね。ツルギが作ってくれているから、心配しなくていいよ」
肩に添えられた景の手を、そっと離す。同時に、二限目の始業のチャイムが鳴り響いた。
「ほら、走ろ、景」
タブレットを抱えて、半身で彼を振り返る。景は訝しげなまなざしのまま、黙って私についてきた。
◇
「ゆらぎ」
その夜、焼き魚の骨を突いていると、ツルギはにこにこしながら切り出してきた。用意された箸置きに箸を置いて、続きを促すようにわずかに微笑む。
「今週末は、美術館に行く予定だけど、都合は変わりない?」
美術館。なんともゆらぎが週末に足を運びそうな場所だ。
当然、私の把握していない予定だった。誤魔化すように、とっさに笑みを浮かべる。
「そう、だったね。うん、変わりないよ」
ぎこちなく頷いて、脳内で予定を確認する。今週末は講習も何もなかったはずだ。ゆらぎの代わりに行けるだろう。
「じゃあ、チケットはそのままでいいね。日曜日の何時にしようか?」
「十時、出発くらいかな」
「そんなに早いと、起きられるか心配だね」
くすくすとまるで揶揄うような調子でツルギは笑った。驚いた。こんな会話までできるなんて。
……ゆらぎにしては早かったかな。
ゆらぎは、休日はアラームをかけずに目覚めるまで眠るタイプなのだ。十時に出かけるなんて彼女にしては健全すぎるかもしれない。
「寝坊したら、そのときはそのときだから」
誤魔化すように笑って、再び箸を持つ。
今日は焼き魚とほうれんそうのおひたし、お刺身、お味噌汁、白米といった純和風のメニューだった。どちらかといえばゆらぎが好まない趣向だが「好きなものばかり食べていると栄養のバランスが偏るからね」とツルギは釘を刺すように言っていた。
二日連続でトマトを使った料理でなかったのは、助かった。異様に目敏い景の目を逃れるためにも、栄養はしっかりとっておきたい。
「美術館の他に、寄りたい場所はある?」
「そうだね……」
聞かれて、ふとツルギの服に目が止まった。私が見ていない時間に洗濯をしているらしいが、ずっと同じ白い長袖のシャツを着ている。
「商業地区に寄りたいかな。ツルギの服を見よう」
「ぼくに? ゆらぎのじゃなくて?」
「それひとつじゃ、不便だろうし」
白米を口に運んで、咀嚼する。ツルギは、どこか驚いたように目を丸くしていたが、嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう、ゆらぎが選んでね」
心の動きを模倣するプログラムがあるのだろうか。いくらオーダーメードの見た目とはいえ、彼の表情はあまりにも人間的すぎる。これも、ゆらぎと暮らしていたからこその特徴なのだろうか。
戸惑いを誤魔化すように、黙々と焼き魚を食べ進める。ツルギは、やっぱり相変わらずにこにこしながら私の食事風景を眺めていた。
◇
日曜日、結局規則正しく起床した私は、久しぶりに私服に着替えて「文化・芸術振興地区」へ向かっていた。街の美術館や博物館などは、ほとんどがここに揃っている。至る所にアートが設置された広大な公園も、この街の観光スポットのひとつだった。
ゆらぎは、この地区の美術館で期間限定で行われている展覧会のチケットを予約していたらしい。ご丁寧に自分とツルギのふたりぶんだ。
私自身、あまりに芸術方面に明るくないので事前に少し調べてみたのだが、今日の展覧会はゆらぎの高校の卒業生でもある有名な画家が開いたものなのだという。私でも、名前くらいは聞いたことのある画家だった。
美術館の入り口に入るなり、ツルギが手続きをしてくれる。大人ひとり、高校生ひとりの代金で入れたようだ。
「お待たせ、行こうか、ゆらぎ」
ガラス張りの天井があるロビーを抜けて、展示室へ入る。初めは普段から展示されているものが並ぶブースらしい。ゆらぎはきっと、前も見ているのだろう。
まじまじと絵画を眺めている人たちの間で、私も立ち止まってみる。どれも美しい絵だと思うが、それ以上感想が広がらない。知識と、想像力が乏しいせいだろう。
「ああ、あれも、今日の展覧会のアマガタヒイロの作品だね」
ツルギが、小さな声で耳打ちしてくれる。対照の色を好んで使っているようで、奇抜な印象を受けた。さまざまな色の直線や正円、楕円が入り混じっているけれど、何を描いているものなのか正直私にはわからなかった。
……ゆらぎの色使いのほうが好きだな。
この画家とゆらぎでは目指している方向が違うのだろうが、直感的にそう思った。双子の妹としての贔屓目なしで、そう思ったつもりだ。
ツルギに怪しまれない程度にゆっくりと見て回りながら、いよいよ今回の展覧会のブースへ入室した。
期間限定の展覧会である上に休日であることも相まって、それなりに混雑しているようだ。私たちと同じくらいの若者の姿も多かった。ひょっとすると、ゆらぎが通っていた高校の学生もいるかもしれない。
さりげなく帽子を深く被り、なるべく後ろのほうで見学する。
「前で見なくていいの?」
ツルギが耳打ちするように囁いたが、静かに首を横に振った。
「ここで、静かに見ていたいの」
後ろに来た人が見えるかどうかも気にしなくていいから、このほうが楽だ。綺麗な額縁に収められた奇抜な作品たちを、ゆっくりと見て回った。
展覧会のブースには結局一時間近くいただろう。細かい技法などはさっぱりだが、じっと見ているうちに物語を感じるような絵画もあって、意外に楽しめた。
「ショップに寄っていく? アマガタヒイロの限定グッズもあるみたい」
背の高いツルギはショップの中をさっと見渡して教えてくれた。
「そうだね、ちょっと見てみようかな」
キーホルダーくらい、記念に買ってみてもいいかもしれない。混雑していたが、ツルギがエスコートするように場所を作ってくれた。
「この色、きれい」
中の絵画で描かれていた、色とりどりのクローバーをモチーフにしたキーホルダーが、ずらりと並んでいた。限定グッズというところには、どうにも惹かれてしまう。
「かわいいから、買っていこうかな」
「いいと思うよ、色は全部で十六色あるみたいだね」
キーホルダーの説明が気には細かな色名が描かれていたが、私にはざっくりと青とか黄色、と言うふうにしか区別できない。
「あさぎ」
「えっ」
不意に名前を呼ばれてびくりと肩を跳ねさせると、ツルギは穏やかな笑顔のまま青緑のキーホルダーを手にした。
「浅葱色だ。ゆらぎ、好きだよね?」
「あ……」
ツルギからキーホルダーを手渡され、その冷たい表面をそっとなぞる。
そうか、ゆらぎの好きな色は浅葱色だったんだ。
あらゆる色を思い思いに使う彼女にとって、特別な色はないと思っていた。
……私の名前と、同じ。
じわ、と目頭に涙がにじみそうになって、慌てて気分を切り替えた。
「そうだね。ひとつはこれにしようかな。あとは……」
紺色のキーホルダーを、そっと手に取った。仕方がないから、景にも買っていってあげよう。
ふたつでおしまいにしてもよかったが、ついでと思い黄色と緑のキーホルダーも手に取った。
「四つも買うの? 相当気に入ったんだね」
「まあね」
ツルギはそれらを小さな買い物籠に入れ、持ってくれた。
その後店内をぐるりと一周して、めぼしいものがなかったため、結局キーホルダー四つを買うことに決めた。
「ぼくが買ってくるよ、ゆらぎは外で休んでいて」
ツルギの言葉に甘え、ショップを出る。ガラス張りの壁と天井でできたロビーの中央には、革張りの椅子がいくつも並べられていた。
座ってツルギを待っていようかと思ったところで、ふいに背後から呼び止められる。
「ゆらぎ!」
可愛らしい、女の子の声だった。振り返ると同時に、小さな影が衝突してくる。
「っ……」
「ゆらぎ! ゆらぎだよね!? 生きていたの……!?」
肩までの長さのふわふわとした栗色の髪を揺らして、少女は私に縋り付いていた。手には、たった今私が出てきたショップの袋が提げられている。店内ですれ違ったのだろうか。
「よかった、よかったあ! ゆらぎが死んじゃうなんて、嘘だもんね! そんなの、ありえないもんね!」
涙ぐみながら、少女は私に縋りついてくる。まるで見覚えがないが、おそらくゆらぎのクラスメイトか何かなのだろう。
帽子を深くかぶっていたのは、こういう事態を避けるためだったのだが、仕方がない。
そっと少女の体を引き剥がして、静かに告げた。
「あの、私……ゆらぎの妹のあさぎです」
そう告げた瞬間、輝いていた少女の瞳からすっと光が消える。明らかな落胆だった。
「あ……そっか、言ってたっけ、双子だって……ごめんなさい、わたし、つい……」
「いえ……」
肩を落とした少女は、袋を握り直してぽつぽつと自己紹介をした。
「わたし、ゆらぎさんのクラスメイトの雪森ひなといいます。この度は、ご愁傷様でした。ゆらぎさんとは、生前とても仲良くさせていただきました。私にとっては、いちばんの……親友で」
深く、頭を下げられる。同年代ながら礼儀のきちんとした人だと思った。
だが、胸がずきずきと痛んで仕方がない。「ご愁傷様」だなんて、「生前」だなんて、絶対に聞きたくない言葉だった。
「ありがとう……ゆらぎも、無念だったと――」
嫌だ嫌だ、ゆらぎがいないことを前提とした言葉を、これ以上吐きたくない。ゆらぎはまだいるって、どこか遠くに旅行に行っているだけって、思いたい。そうだ、今朝だって、ゆらぎの好きなアールグレイティーが出てきた。角砂糖が三つ並んでいるのも、ゆらぎが飲む紅茶の特徴だ。
「ゆらぎ? どうしたの、顔色が悪いよ」
不意に、横から伸びてきた腕に引き寄せられ、体を預けるようなかたちになる。
見上げれば、ツルギが私の肩を抱くようにして、体を支えてくれていた。会計を終えて戻ってきたらしい。
「ゆらぎ?」
雪森さんは、聞き漏らさなかったようで、怪訝そうに繰り返した。そうして、ツルギの姿を頭のてっぺんからつま先まで観察し、はっと息を呑む。
「ちょっと待って、そのひと、ゆらぎの恋人じゃないの? まさか、ゆらぎのふりして寝取ったの?」
責めるような声は、ロビーに大きく響いた。入館者たちが、ちらりと私たちを一瞥し、関わらないようにしようとでもいうようにさっと顔を背ける。
「違う、横取りなんかしてない。そもそも、ツルギは――」
「――ぼくはゆらぎの恋人だよ。恋人であるぼくがゆらぎと一緒にいて、何が悪いのかな」
聞いたことのない、冷えきった声だった。一瞬、ツルギの声と認識できなかったほどだ。
「何、言って……だって、その人、ゆらぎじゃないよ。ゆらぎの妹だよ?」
雪森さんは混乱しながらもまっとうな指摘をしてくる。ずきずき、ずきずきと胸も頭も痛んだ。
「ゆらぎだよ? この人は、ぼくのゆらぎだ」
笑うように柔らかな声なのに、有無を言わさぬ迫力があった。思わず、責められているわけでもないのにびくりと肩が跳ねてしまう。
「なに……それ、あさぎさんを、ゆらぎだって思い込んでるってこと?」
明らかな動揺をあらわにして、雪森さんは私たちを交互に見ていた。
そうだ、と肯定したら、どうなるのだろう。ツルギは故障しているとみなされ、私はカウンセリングでも受けさせられるのだろうか。
……嫌だ、私はまだこの逃げ場所を手放したくない。
思わずぎゅ、とツルギのシャツを掴むと、彼は察したように私の肩を抱く腕に力を込めた。
「もう行こう、ゆらぎ」
肩を抱かれたまま、ツルギに導かれるようにして歩き出す。雪森さんの視線が背中に鋭く刺さったが、私たちのことを追ってはこなかった。
外の空気にあたっても、どくどくと早鐘を打ったままの心臓はなかなか静まってくれなかった。ツルギに連れられるようにして公園に入り、しばらく進んだところにあったベンチに脱力するように座り込む。ツルギはふいに私から離れたかと思うと、芝生の広場で営業している屋台から温かい紅茶を買ってきてくれた。
「あ……ありがとう」
「今日は気温が高くなるようだから冷たいものと迷ったけど、こういうときはあったかいもののほうがいいよね」
私の隣に座って、ツルギは何ごともなかったように微笑んだ。人工的な笑みに、どうしようもなくほっと安堵してしまう。
早速カップに口をつけて、紅茶を一口ぶん飲み込んだ。コーヒー派だが、こういうときは紅茶のほうが口当たりが柔らかくて落ち着けるかもしれない。
少しずつ、脈が落ち着いていく。雪森さんとの出会いは、なかなか動揺させられた。
……礼儀正しいと思ったけど、ゆらぎのこととなると冷静ではいられないのかな。
もっとも、親友の恋人を双子の妹が連れ回していると思ったなら、あの反応も無理はないけれど。
……それにしても、恋人、ね。
どこまで本当のことなのだろう。確かにアンドロイドと疑似恋愛を楽しむ人はいるし、多くはないがパートナーとしてアンドロイドを選んだというニュースも聞いたことはある。
あるいは対外的に手っ取り早い関係性の説明として、ゆらぎが彼を「恋人」と紹介していた可能性もある。ゆらぎは彼をアンドロイド扱いしたくなかったようだし、いつでもそばにいる異性を説明するには「恋人」はいちばん通りのいい説明だろう。
ふたりきりのときの姿を見ているに、後者の可能性が高い気がするが、確かなことはわからない。ゆらぎのふりをして現実逃避をしている今、これ以上ツルギに問うこともできず、ゆらぎと彼の関係性に、ひとつ謎を残すかたちになってしまった。
「すこし、落ち着いた?」
私が紅茶を飲み終わったのを見計らって、ツルギは穏やかに問いかけてきた。すっかり考えごとに夢中になっていたが、彼は私が紅茶を飲むところもじっと眺めていたらしい。
「ああ……うん、だいぶ。ツルギは平気?」
「ぼくは大丈夫。……雪森さんには、何か誤解があるみたいだったね。驚いたね、ゆらぎ」
「そう、だね……」
ツルギは誰に何を言われようとも私をゆらぎと信じて疑わないらしい。遺伝子情報で照合しているせいだろうが、もし本当にふたりが恋人だとしたら、騙しているのが心苦しいようにも思う。
……いや、相手は所詮心のないAIだから、いいのかな。
人間のために、私の心の安寧のために、この受け入れがたい現実から逃れるための隠れ家になってもらうために、彼にはまだ私をゆらぎと思っていてもらわなければ困る。一瞬生じた心の迷いをもみ消すように、勢いよくベンチから立ち上がった。
「次は、商業地区に行かないとね。服を買ってあげるよ、ツルギ」
「ありがとう。ここから歩いて五分のバス停から七分後にバスが出るよ」
「ちょうどいい、行こう!」
ツルギの手を引いて、彼も立ち上がらせる。彼はやっぱり、慈しむように微笑んで、私だけを見つめていた。
◇
肩にかけた大きな紙袋を、リビングの椅子にどさりと下ろす。開けたままのカーテンからは、まばゆいほどの夕焼けが差し込んでいた。
あれからツルギと商業地区のショッピングモールをひとまわりして、ツルギの着替えと私の服をそれぞれ何着か選んだ。自分で服を選びに行って購入するなんて、いったいいつぶりだろう。慣れないことをしてずいぶん疲れてしまったが、不思議な満足感があった。
「今から夕食を作るよ。いつもの時間よりすこし遅くなりそうだ。ゆらぎは休んでいて」
ツルギは、荷物を置くなり早速キッチンに立っていた。今日は、ゆらぎの好きなハンバーグを作ってくれるらしい。
一週間暮らして、ツルギの献立の立て方のなんとなくのパターンが読めてきた。ゆらぎの好物が二日続いたら、三日目には栄養バランスをとるために、ゆらぎが特別好んではいない和食などのメニューが挟まれる。だいたいその三日周期で献立を考えているようだった。
三分の二は常にゆらぎの好きなものを作り続けているのだから、ツルギはやっぱりゆらぎに甘いと言わざるを得ない。心はなくとも、主人の喜ぶことを記憶し、それを繰り返すようにプログラムされているのかもしれない。
ツルギは帰り際に買ってきた材料をビニール袋から取り出して、準備を始めていた。ハンバーグなら、どんなにツルギの手際が良くても三十分はかかるだろう。その間、タブレットで問題集を解いたり、本を読んだりしてもいいが、なんとなくためらわれた。せっかくの楽しい現実逃避の一日を、「あさぎ」の行動で穢したくなかったのだ。
「……わたしも手伝おうかな」
袖を捲って、ツルギの隣に立ち、水場で手を洗う。
「ゆらぎが? ……危なくないかな」
この様子だと、器用なゆらぎも料理は苦手だったらしい。思わぬ共通点にふ、とはにかみながら、タオルで手を拭いた。
「ツルギが見守ってくれていれば大丈夫。私は何をすればいい?」
ふたりが同時に野菜を切れるほどキッチンは広くないが、分担はできるはずだ。ツルギはわずかに迷うようなそぶりを見せ、それからレタスを私に手渡した。
「じゃあ……これを洗って、手でちぎってボウルに入れてくれるかな。サラダにしたいんだ」
「わかった、任せて」
包丁を握らせないあたりなんとなく信頼されていないような気がするが、玉ねぎのみじん切りを任されたところでツルギのようにうまくこなせるはずもない。おとなしく、サラダ作りに専念することにした。
滅多に手料理を作らない母のもとで育ったせいで、こういう手伝いの経験はないに等しかった。いちどだけ、ゆらぎと一緒に母の誕生日ケーキを作ったことがあるが、あれも失敗に終わってしまった。母は、黒焦げのケーキを見て嬉しそうに笑っていたものだ。
懐かしさに、自然と頬が緩む。軽く目を閉じれば、隣で料理をしているのはゆらぎであるような気になって、余計に嬉しかった。
「ご機嫌だね、ゆらぎ」
ツルギはまるで測ったような正確さで玉ねぎを刻みながら微笑んだ。こちらに注意を向けながらも、すこしも手もとが狂う様子がない。
ツルギがハンバーグを成形するころには、私もレタスをちぎり終え、ツルギに言われた通りに買ってきた茹で鶏とコーンを乗せたところだった。あとは食前にドレッシングをかければ、サラダは完成だ。
「次は何をすればいい? 焼こうか?」
「やけどでもしたら大変だ。……何かしたいなら、カトラリーの準備を頼もうかな」
ツルギは困ったように微笑んで、フライパンの前を陣取った。私のことを幼い子どもか何かと思っているのかと思うような扱いだ。
……まあ、実際AIにとっては人間の十七歳なんて子どももいいところなんだろうな。
慣れない過保護をどこかくすぐったく思いながら、スプーンやフォークが入った戸棚を開ける。自炊は滅多にしないが、カトラリーや食器類は、実家から持参したものが一通り揃っていた。
そこからスプーンとフォークを取り出そうとしたところで、ふと、懐かしいものが目に入った。
それは、木の鞘で包まれた果物ナイフだった。元は亡くなった父のもので、彫刻に凝っていたゆらぎが、父の許可を得て鞘に模様を掘り込んだのだ。まだ幼い手で掘られた、がたがたとしたりんごの彫刻が可愛らしい。
ふ、と微笑みながら、そっと鞘を撫でる。何気なく鞘から刃を抜こうとして、抵抗を感じた。中が錆びついているのかもしれない。
「っ……」
力を込めると、不意に抵抗を失ったナイフは勢いよく鞘から抜けた。その拍子に手首近くの左の掌がわずかに切れてしまった。ぷくり、と赤い線が浮き出してくる。
……うっかりしてたな。
実習でも、刃物や針の扱いには気をつけるように言われているのに、情けない。
細心の注意を払ってナイフを鞘に収め、溜息まじりに傷を眺める。ぷくぷくと浮き出す赤い血を眺めながら、ふと、心のどこかで何かが腑に落ちるような感覚を覚えた。
……そっか、まあ、いざとなればこういう道もあるよね。
今まで考えたこともないような逃げ道が、初めて選択肢のひとつとしてちらついた。当然魅力的ではないが、自分には無関係だと思っていたものを、あっけなく引き寄せてしまった自分の思考がすこし恐ろしい。
「ゆらぎ?」
ハンバーグを焼いていたはずのツルギの声が、すぐ後ろで響く。はっとして振り返れば、いつの間にか彼は私の背後に迫っていた。
「……怪我をしたの? 大丈夫?」
ツルギはそっと私の左手を取って、傷をまじまじと観察した。ろくに声も上げていないのに、よく気付いたものだ。
「ナイフを抜くときに、ちょっと傷ついちゃったの。このくらい、すぐ塞がるよ」
ナイフをそっと胸に抱きながら、誤魔化すように微笑む。すぐに戻す気になれなかったのは、父とゆらぎの思い出の詰まったこの品が、お守りのように思えたからだ。
「痛むだろうけど、よく洗わないと。来て」
ツルギに連れられ、洗面所へ移動する。ほんの薄皮が切れた程度なのに、大袈裟だ。
ツルギは水温を調節すると、水の流れにそっと私の手をつけた。ぬるま湯が、早速固まり始めた血を綺麗に洗い流していく。
「ゆらぎ」
不意に、私の手を掴むツルギの指に力がこもる。いつでも壊れものに触れるように繊細な手つきで私の手を取る彼にしては、珍しい行動だった。
「――ぼくより先に、死んじゃだめだよ。いなくなるなら、ぼくを壊してからにしてね」
鏡越しに、濃い灰色の瞳と目があった。まるで愛を囁くような不思議な熱を帯びている。言葉の不穏さとは不釣り合いな彼の静けさと甘い声が、鎖のように重く体に纏わりつくような気がした。
「……何、言ってるの、私は死なないよ。ツルギを、壊したりもしない」
言いながら、抗いようもなく目頭が熱くなる。
まるで自分に言い聞かせるようなその言葉が滑稽で、惨めで、どうしようもなく寂しくてたまらなかった。
◇
休日が終わり、新しい一週間がやってくる。
ツルギに見送られながらバスに乗り、五分ほど揺られ、高校の正門をくぐる。いつも通りの一日が始まった。
午前の授業をこなし、昼休みの始まりの鐘が鳴る。普段であれば軽くノートの整理をするところだったが、なんだか気が進まずぼんやりとしてしまった。
隣に座っていたはずの景は、いつのまにか何人かのクラスメイトの中心で談笑していた。成績優秀で運動神経も抜群の彼はクラスの人気者なのだ。腐れ縁の私にこそ憎たらしい口をきくが、基本的には男女問わず誰にでも優しく、その人あたりのよさも人気の秘訣のようだった。
教室の中ではちらほらとお弁当や購買で買ったパンを広げているクラスメイトたちの姿がある。あまり空腹は感じないが、午後もあることだし何かお腹に入れておくべきだろう。
購買に向かうべく席を立つと、ふと、声をかけられる。
「あさぎ」
さりげなく横を通り過ぎようとした私を目ざとく見つけて、景は不敵な笑みを浮かべていた。
「今、学祭の話をしてたんだ。相澤がステージの使用権を当てたらしい」
景の隣で、柔らかな黒髪の女子学生が照れたように笑った。彼女は確か、学祭の実行委員の相澤さんだ。
「くじ運だけは、昔からいいの」
「さすが桜子」
「これは桜子ヒロインで何かやるしかないね」
清楚でおとなしい相澤さんも、景と同様にクラスの中心的人物だ。ステージ使用権を当てたことで盛り上がっているクラスメイトたちを見て、思わず頬が緩む。
「すごい、相澤さん。学祭楽しみだね」
我ながら他愛もない返答だと思ったが、相澤さんはやっぱり照れたように微笑んだ。皆に好かれるのも頷ける。感じのいいひとだった。
「童話モチーフ? それとも一から脚本作る?」
「完全オリジナルか、悪くないね」
学校行事は、好きだ。お祭りのようだし、みんなである種の非現実に取り組むなんてわくわくする。楽しそうなクラスメイトたちの顔を見ているのも気分がいい。私は率先して何かをするわけではないけれど、去年の学祭でも黙々と模擬店の装飾づくりに励んだものだ。
けれど、今年は去年ほどの高揚感がない。花形であるステージ使用権を勝ち得たというのに、よかったと思うだけで楽しみに思う気持ちがあまり湧いてこない。
再び盛り上がりを見せるクラスメイトたちを横目に、教室を出る。学食に向かう学生も多いのか、廊下はやけに賑わっていた。
このぶんでは、購買も混んでいそうだ。並んでまで食事をしたいとは思わない。もともと朝食を抜く生活をしていたのだ。このところはツルギが朝晩ときちんとした食事を出してくれるから、お腹が空かないのも無理はなかった。
「橘さん」
澄んだ女性の声がして、振り返る。例の養護教諭が立っていた。学生たちの雑踏の中で、しわのない白衣が浮かび上がるように目立っている。
「お昼、食べないんですか? 人気のフルーツサンドがまだありましたよ」
何気ない話を装って、探りをいれているのがばればれだ。この人は、片割れを失った悲劇の学生が可哀想で可哀想で仕方がないらしい。
「購買がもう少し空いたら、何か買って食べます」
空腹を覚えない、なんて正直に伝えたら面倒なことになるに決まっている。この人と長く話せば話すほど、みじめになるのはわかりきっていた。
「学祭が近づいてきましたね。橘さんのクラスは、何をするんですか?」
浮き足立つ学生たちを見つめながら、先生は微笑む。会話を終わらせるつもりはないらしい。
「ステージの使用権を勝ち取ったとか言っていましたから、劇でもするんでしょう。楽しみです」
意欲が低下している、などと判断されて保健室に呼び出されるのはごめんだ。先手を打って、にこりと微笑んでみせた。今年は例年ほど楽しみに思えないだけで、まったくの嘘は言っていない。
ふと、先生の視線が私の左手にとまる。そのままはっとしたように目を見開いたかと思うと、急に手首を掴まれた。
「っ……橘さん、この傷は……?」
袖口から線状の傷がのぞいている。まったく痛みもしないので忘れかけていたが、そういえば昨日うっかり怪我してしまったところだ。ごく浅い傷だし、数日で痂皮もとれるだろう。
「まさか――」
先生の顔が険しくなる。その表情を見て、ようやく私も気がついた。
……面倒なことになったな、どう言い訳しよう。
「可哀想な学生」を過剰に心配しているこのひとのことだ。きっと、躊躇い傷だとでも思ったのだろう。弁明するにも、状況が最悪だ。双子の片割れを失ったばかりの十七歳、復帰して一週間、なんとなくクラスに馴染んでいない。
疑う要素満載だ。国家試験の問題集で出てきたら、私だって先生と同じ発想に至るだろう。
「違いますよ。これは昨日、思い出の品の果物ナイフを見つけて、うっかり切っちゃっただけです」
「思い出の品? それって、お姉さんの……?」
「ええ、まあ……」
取り止めもない、廊下のざわめきが頭に流れ込んでくる。目の前の相手との対話から、逃げ出したくて仕方がなかった。
先生は私の手を掴んだまま、焦ったように何かを言っていたが、よく聞き取れなかった。言葉だとわかるのに、理解はできない。何か言われれば言われるほど、音としてしか認識できなくなる。
廊下の窓から、夏の気配がする風が舞い込んできた。夏は、ゆらぎの好きな季節だ。
……私、どうしてこんなところにいるんだろう。
導かれるように、ツルギの待つ自分の部屋の風景が蘇る。あの空間では私はゆらぎで、ゆらぎは生きていて、好きなものを食べ、ツルギとおしゃべりを楽しむ。幸せな時間だ。
……早く、帰りたいな。
「漆戸先生、そろそろ橘借りてもいいですか? 昼食の約束があるので」
頭上から、聞き慣れた声が降ってくる。先生に掴まれていたはずの私の手を、気づけば景が握っていた。
「星川くん――でも」
「あんまり、心配しすぎないでやってもらってもいいですか。逆効果ですよ、それ」
どこか冷ややかな調子で彼はそう言うと、私の手を引いて歩きだした。完全に現実逃避していた意識が、だんだんと鮮明になる。
景は私を校庭にある倉庫の横に連れ出すと、古びたベンチに座らせた。
ここは、私と景が時折使うお気に入りのベンチだ。人影がなく、木陰があって、ほどよい静けさに包まれている。天気が良い夏の日には、ここで問題集を解いたり、昼食を摂ったりするのだ。
「漆戸の過剰な心配性、相変わらずだな。あれ、学生を心配している私って優しいー、って酔ってるだけだろ、絶対」
私の左隣に腰を下ろして、景は笑うように言った。
あえて辛辣な物言いなのは、私に寄り添ってのことなのだろう。景の言葉は、ちゃんと頭に入ってきた。
「そうなのかな……ちょっと、困っちゃうね」
曖昧に微笑んで、まつ毛を伏せる。再び景の手が伸びてきて、左手首の線状の傷をなぞった。
「これのせいで、絡まれていたのか? どうせ、何かヘマしたんだろう」
言葉とは裏腹に、労わるような手つきだった。すこしだけ、くすぐったい。できたばかりの痂皮をなぞられているせいだろう。
「果物ナイフの鞘を抜こうとしたら、固くて、思いきり力を込めたら手を滑らせちゃったの」
「馬鹿。……果物くらい、あのアンドロイドが切ってくれないのか?」
「切ってくれるよ、頼めばね」
ツルギのことだ。きっと、均等にきれいに、頼めば飾り切りだってやってくれるだろう。私やゆらぎにはない特技だった。
膝の上でそっと、傷を撫でる。その拍子に、スカートのポケットの中でちゃり、と音がした。
……そういえば、まだ渡せてなかったな。
ポケットから、紺色と浅葱色のキーホルダーを取り出す。昨日、美術館で買ったものだ。紺色のものは景へのお土産として買ったが、教室では渡す機会がなくて困っていたところだった。
「景、これ、お土産」
「お土産? どこか行ったのか?」
クローバーの形をしたキーホルダーを受け取りながら、景が目を丸くする。この状況で私が外出するとは思っていなかったのかもしれない。
「昨日、美術館に行ったんだ。チケットがあったからね。アマガタヒイロって知ってる?」
「ああ、あの奇抜な……」
景はキーホルダーをまじまじと観察し、やがて微笑んだ。
「ありがとう。そっちは、あさぎのか?」
「そう、思わず買っちゃった。おそろいだね」
だが買ってみたはいいが、どこにつけよう。ゆらゆらと揺れるキーホルダーを陽の光に翳してみる。
「こういうのってどこにつけるか迷うよね。結局家に置きっぱなしになったりするし」
「つける。大事にする」
景は思ったよりもお土産を喜んでいるようだった。柔らかに緩んだ彼の横顔が、木漏れ日に照らされて、木の葉の影がゆらゆら揺れていた。
彼の嬉しそうな笑みを見ていると時折、砂糖菓子でも食べた後のような、不思議な感覚がじわりと広がっていく。脈打つ心臓の底をくすぐられるような、妙な心地だった。でも決して、嫌ではない。眠りに落ちるあの一瞬の快さによく似ている。
「……アマガタヒイロが好きだなんて、知らなかったな」
くすぐったさを誤魔化すように、膝の上で肘をつく。
「芸術方面にも造詣が深くて恐れ入ったか?」
揶揄うような景の言葉を、ふっと鼻で笑う。
「そうだね、是非とも美術館でひとつひとつの作品解説を賜りたいね」
いつもの私たちの空気感だ。ぼんやりと重苦しい学校生活の中で、この空気だけは鮮明だった。
「そもそもあさぎが美術館に行くなんて珍しいな。ひとりで行ったのか?」
「ううん。ツルギと行ったよ。ついでにツルギの服も買ったの」
美術館では気まずい出会いもあったが、概ね穏やかな一日だった。あんな日曜日なら、時間を持て余して黒い感情に呑まれることを恐れずに済みそうだ。
「へえ……AI嫌いのくせに、そんなふうに笑うんだな」
先程までの上機嫌な様子とは打って変わって、どこか拗ねたような声だった。
笑っていた自覚なんてなかった。思わず、指先を頬にすべらせる。
「ゆらぎは、なんで女性型のアンドロイドを選ばなかったんだろうな……」
なんだか、不貞腐れているみたいだ。彼は私から視線を背けたまま、大袈裟な溜息をついた。
「絵のモデルにしたかったからだよ。女性は私がいるからいいけど、身近に歳の近い男性がいないからって理由で、ツルギにしたみたい」
景と同じ地区に住んでいればその問題も解決できたのだろうが、そもそもゆらぎは景をモデルにするのを避けていたような気がする。「長時間見つめるなんて、あさぎに悪いからね」と、どこか悪戯っぽく笑っていた。
……懐かしいな。
あんな笑い方、私にはできない。人の心をくすぐるような、愛らしい笑みだった。私と同じ顔をしているとはとても思えないくらいに。
「……それより景、お昼は食べたの。私にかまってばかりいないで、ご飯食べてきなよ」
このままでは望まない暗く寂しい感情に呑まれてしまう気がして、慌てて話題を切り替えた。
「あさぎもまだだろ。行くぞ」
景が立ち上がって、軽く伸びをする。
「あんまりお腹空いてないよ」
景には、正直に言ってもいいだろう。彼だけは、今は重苦しいこの学校生活の中でもやっぱり特別だった。
「いいから。早く」
彼の声に導かれるようにして、仕方なく立ち上がる。
瞬間、ざあ、とぬるい風が吹き抜けて、隣で黒髪のポニーテールが揺れたような気がした。
――お昼は、たまごサンドにしようかな。あさぎはフルーツサンドにして、半分こしようよ。
一瞬だけ、ひだまりのような笑みを浮かべる彼女が見えたような気がして、泣きたくなった。いつもこうして私の手を引いてくれるのは、ゆらぎだったのに。
振り返った景にそれを悟られないよう無理やり笑みを浮かべ、彼の隣へ急ぐ。ぬるい風は、いつまでも私にまとわりついていた。
◇
「おかえり、ゆらぎ。今日も楽しかった?」
家に帰るなり、変わらぬ穏やかな笑みを浮かべるツルギが出迎えてくれる。彼と暮らしてたった一週間だというのに、いつの間にか彼の顔を見ると安堵している私がいた。
「ただいま。……そうだね、いつも通りかな」
自分の部屋に入り鞄をかけ、部屋着に着替える。机の上におきっぱなしのクローバーのキーホルダーが、夕焼けをきらりと反射していた。黄色と緑のキーホルダーだ。
黄色は、本当は自分用だ。今、私が鞄につけている浅葱色のものは、本当はゆらぎに買ったものだった。学校でもすこしでも「ゆらぎ」でいたくて、ゆらぎの好きな色を身につけたのだ。
黙って黄色のキーホルダーを引き出しにしまいながら、数秒だけ目を瞑る。西日がじりじりと肌を焼いていた。
「ゆらぎ?」
ノックの音と共に、ツルギの声がした。はっと我に返り、慌ててドアを開けに行く。どのくらい、ぼうっとしていたのだろう。
「ごめん、ちょっと考えごとしてて」
食事の時間にでもなってしまったのかと思ったが、壁に表示された時刻を見る限りまだ三十分はありそうだ。
「後にしようか。邪魔はしたくない」
「いいの、何かあった?」
一人でいるよりもツルギといたほうがずっといい。彼は廊下の奥へ視線を送った。
「実は、ゆらぎの前の部屋の荷物を整理していたんだけど、これでいいか確認してほしかったんだ。前と似たような位置にしまったつもりだけど、どうしても棚が足りなくて」
先週母から送られてきたあの段ボールを、開けてくれたらしい。そういえば、空き部屋をアトリエにすると言っていた。
「ありがとう、見に行くよ」
ゆらぎは、自分の家のいちばん広い部屋をアトリエとして使っていたから、あの空き部屋では確かに手狭だろう。
ツルギに案内されるがまま、しばらく立ち入っていなかった空き部屋に足を踏み入れる。思わず、はっと息を呑んでしまった。
……ゆらぎのアトリエだ。
場所も間取りもまるで違うけれど、入った瞬間そう思った。壁には完成した絵が何枚もかけられていて、部屋の奥には真新しいキャンバスが設置されている。古びた木の丸い椅子も、絵の具の匂いも、ガラス瓶に無造作に入れられた数えきれないほどの筆も、すべて彼女のものだった。
――あさぎ! 遊びに来てくれたの? ちょうど今、あさぎに聞きたかったところなの。ねえ、この色、どっちがいいと思う?
色とりどりの絵の具が乗ったパレットを差し出しながら笑う彼女が、目の前にいるかのようだった。
部屋の奥に足を進め、真っ白なキャンバスの前に置かれた椅子にそっと触れる。彼女はずっと、ここに座って絵を描いていたのだ。静かになぞれば、まだ彼女の熱がここに残っているような気がして、たまらない気持ちになった。
「どうかな? スケッチブック類はあっちの棚に入れて……収納場所が足りないから昔の作品はあの箱にしまったんだ。絵の具の在庫の置き場はここにしてみたんだけど――」
ツルギが、てきぱきと説明してくれる。彼は、どうすればゆらぎが絵に打ち込めるか、よくわかっているのだ。悔しいが、ゆらぎの才能をもっとも身近で支えていたのは、彼なのだと思い知らされる。
「――ありがとう、完璧だよ、ツルギ」
説明を終えた彼に微笑みかければ、彼もまた鏡写しのように口もとを緩めた。
「食事の支度ができたらまた呼びに来るよ」
ツルギはそれだけ告げて、静かに部屋をあとにした。
穏やかな静寂が、押し寄せてくる。秒針の音が規則正しく響いていた。珍しく、掛け時計を使っているようだ。ゆらぎらしい趣味だった。
そっと、ゆらぎが座っていた椅子に腰掛けてみる。硬くて、あまり座り心地がいいとはいえないが、ゆらぎはこの視線の高さであの美しい絵を生み出していたのだ。そう思うと、いくらでも座っていられるような気がした。
椅子に座ったまま、そっと目を閉じてみる。絵の具の匂い、秒針の音、電子音のない静寂。
そこに、ゆらぎの声だけがなかった。
「あさぎ」
ゆらぎの声音を真似て、そっと名前を呼んでみる。ゆらぎが私を呼ぶときの、跳ねるような調子で。
けれど、同じ声をしているはずなのに、自分で発した声はやっぱりゆらぎの声とはわずかに違った。
「ふ、ふ」
あまりに虚しくて、気づけば勝手に笑みがこぼれていた。そのままひとしきり声をあげて笑って、長い息を吐く。笑うように震える溜息だった。
……いいな、ツルギは。
彼には、私のこんな声も、ゆらぎの声のように聞こえているのだろう。だからこそ、私のそばにいてくれるのだ。偽物でも、ゆらぎと同じ声を聞ける彼がたまらなく、羨ましくてならなかった。
ゆらぎが、真っ白なキャンバスの前に座って、何やらパレットの上でぐるぐると絵の具を混ぜあわせている、真剣そのものの彼女を微笑ましく思いながら、作業の邪魔にならないよう遠くから眺めていた。
だが、彼女はすぐにこちらの気配に気づいたらしく、ぱっと明るい笑みを見せた。
「あさぎ!」
「……ごめん、邪魔するつもりはなかったんだ」
はにかむような笑みを浮かべて、ゆらぎのそばへ歩み寄る。履きなれないスリッパがぱたぱたとなった。この間ゆらぎと一緒にルームウェアの専門店へ立ち寄ったときに買った、パステルカラーのスリッパだ。
「いいの、ちょうどいい色ができたところだから、あさぎにも見てもらいたいよ」
「わたしに色の良し悪しがわかるかなあ」
パレットを覗き込めば、緑や青、黄色のそばに青緑に近いような絶妙な色が載っているのが見えた。好きな色だ、と直感的に思う。
「この色で、空を塗りたくて」
「きれいだ」
「ふふん、何を隠そう、これこそが浅葱色だよ」
ゆらぎは、自慢げに鼻を鳴らすと、筆に絵の具をいっぱいにつけ、キャンバスに大きな横線を描いた。これがやがて空になるのだから、ゆらぎはすごい。
「へえ、これが。葱って書くくらいだし、もっと微妙な色なのかと思っていたよ。それに、浅葱裏の浅葱だし」
「景くんのことはそろそろ許してあげたら?」
ゆらぎがくすくすと笑う。思えば景は、ゆらぎにはずっと優しかった。私に対する態度とは大違いだ。
「ゆらぎにするみたいに親切にしてくれたら、とっくに許しているところだよ。まあ……景もゆらぎには嫌われたくないんだろうね」
思わず独り言のように呟けば、ゆらぎは長いまつ毛を瞬かせて笑った。
「なあに? あさぎが鈍感だって話?」
くすくす笑いながら、ゆらぎはせっせと筆を動かしていた。浅葱色が、キャンバスの上半分いっぱいに広がっていく。
「これは、どんな絵になるの?」
「それを聞くのは野暮だよ、あさぎ。できてからのお楽しみね、いちばんに見せてあげるから」
「いちばん? 彼よりも?」
部屋の隅で、ゆらぎの描いた絵画の整理をするツルギを横目で見やる。ゆらぎは、どこか悪戯っぽく笑った。
「彼は別よ。モデルにもなってくれている、共同製作者ともいうべき相手だから」
「ふうん」
ツルギがやってきてから、ゆらぎのいちばんが私でなくなることが増えた。一緒に暮らしているのは私ではなくツルギなのだからある程度は仕方がないと思っていても、所詮はAIのくせに、という思いが拭えない。彼にはきっと、ゆらぎの想像力の素晴らしさも、弾むような心が生み出す美しい感情も、何も理解できていないのだろうから。
「人気者のゆらぎの時間を独り占めするなんて、贅沢なアンドロイドだね」
深く考えもせずに告げたつもりだったが、軽やかに筆を動かしていたゆらぎの手が止まった。そうして、見たこともないような真剣なまなざしに捉えられる。
「……アンドロイドじゃないわ、ツルギよ」
「え? ……あ、ごめん」
情けない声を出しながら、咄嗟に謝ることしかできなかった。
ゆらぎが怒りらしきものを見せたのは、これが最初で最後だった。
「いいの。――そうだ、ヒントをあげるわ。この絵はね、先月に行ったある場所の絵なの」
何ごともなかったように上機嫌で説明を始めるゆらぎに言葉に相槌を打ちながらも、意識の半分は部屋の隅で静かに仕事をこなすアンドロイドに向けられていた。
……ずいぶん、ゆらぎに気に入られているのね。
紛れもなくあれは、ゆらぎの「特別」だ。たったひとりの片割れを横取りされたような気がして、どうにも面白くなかった。
……やっぱり嫌いだ、AIなんて。
◇
「ゆらぎ、ゆらぎ、起きて。学校に遅刻してしまうよ」
いつもの機械的なアラームの代わりに、柔らかな声に起こされる。ゆっくりと目を開けると、陽光に透ける灰色の髪が目の前で揺れていた。きれいだ。
「ん……」
寝ぼけたままなんとなくその髪に手を伸ばすと、青年らしい大きな手がすぐに重なった。
「どうしたの、ゆらぎ。今日はお寝坊さんだね」
くすりと吐息まじりの笑みが降ってきて、手の甲をなだめるようにさすられる。そこまできて、ようやく状況を理解して飛び起きた。
「っ……ツルギ!」
「おはよう、ゆらぎ。よく眠れた?」
にこにこと人畜無害な笑みを浮かべて、彼は嬉しそうに私の手を取っていた。もっとも、そう見えるだけで心の動きなどどこにもないのだろうけれど。
「……起こしにきてくれたの」
「もちろん。ついでに支度も手伝いに。新しい制服はどこにアイロンをかけるべきか迷ったけど、上の服とスカーフにかけておいたよ」
「そ、そう……ありがとう」
ツルギには『母の意向でしばらくあさぎと同じ高校に通うことになった、これは絵本作家の夢を認めてもらうためにやむを得ず受け入れなければならない条件だ』と説明し、新しい住居として私の家を紹介した。「絵本作家になるのに、医師の勉強もするの? 大変だね」とは言われたが、基本的には受け入れてくれたようだ。
……ゆらぎの高校はブレザーだったもんね。そこは説明してなかったな。
私の通う高校の制服はセーラー服だから、構造の違いに戸惑っただろう。そこまで気が回っていなかった。
「はい、どうぞ」
ツルギはクローゼットの中にかけていた制服を取り出し、手渡してくれた。至れり尽くせりだ。
「ありがとう……じゃあ、着替えるから出て行ってくれる?」
「なんで? 手伝わなくていいの?」
「えっ?」
いくらアンドロイドでも、異性の姿をしたツルギの前で着替えるのは若干の抵抗がある。ゆらぎは、そのあたりは完全に割り切っていたのだろうか。
……変なの、ツルギをアンドロイドって呼んだら怒ったくせに。
浅葱色の空を思い出しかけて、一瞬手が止まる。夢の名残りを、無理やり頭の隅に追いやった。
「だ、大丈夫。もう高校生だし、このくらい自分でできるから」
「わかった。リビングで待っているね」
従順に微笑んで、ツルギは私の部屋を後にした。ひとりになって思わず、ふう、と大きな息をつく。
衝動的にツルギを連れ帰ったはいいものの、アンドロイドとの生活は苦労も多そうだ。
一通りの身支度を終えリビングへ出て行くと、シチューのいい香りがした。
どうやら、ツルギが朝食を用意してくれたらしい。メニューは昨日彼が作ってくれたにんじん抜きのシチューと、トーストだ。
「あ……ありがとう」
「紅茶もあるよ」
ふわり、と柑橘系の香りのする紅茶が、目の前に置かれる。
本当は、私はにんじんは好きだし、紅茶かコーヒーかで聞かれたらコーヒー派だ。
でも、これでよかった。何もかも、ゆらぎの好きなものだ。ゆらぎのために用意された朝食が並んでいることが、何より嬉しかった。
「いただきます」
私が食事を始めると、彼も私の向かい側に座り、にこにことこちらを眺めてきた。どれだけ人に近い形をしていても、さすがに食事は摂らないらしい。それが不自然に思えるほど、彼の振る舞いは限りなく人に近かった。
「あれ……その服、洗濯したんだ」
「そうだよ、夜の間に」
昨日、私と出会うまで、どうやら彼はゆらぎの事故現場にずっと滞在していたらしい。そのせいで、服はところどころ薄汚れていた。
いちどゆらぎの葬儀の後に姿を現したはずだが、あのとき私が何かを言ったせいで、ツルギはずっと事故現場にいたのだろう。果てのない喪失感に襲われていたせいか、あの日の記憶が曖昧だ。
……服も、用意してあげなきゃいけないのかな。
私が命じるまもなく自分で洗濯してくれるなら、しばらくは大丈夫だろうが、どうしたって生地は摩耗するだろう。それに、洗濯中に何を着ているか知らないが、全裸で出歩かれても困る。
ツルギは、飽きもせず私の食事風景をにこにこと見守っていた。
「そんなに、面白いかな?」
「うん、楽しいよ。ゆらぎがご飯を食べているところ見るの。ぼくと違って、ちゃんと人間で、生きてるんだなって思えて」
本当に、心があるかのようなことを言うアンドロイドだ。だが、ゆらぎに対する好意的な言葉を聞いているのは、心地よい。
ツルギがいつもより早めに起こしてくれたおかげで、朝食はゆっくりと摂ることができた。残り一口になった紅茶を啜りながら、星占いを眺める。今日の順位は一位だった。
「やったね、ゆらぎ。いいことがあるといいね」
ツルギは自分のことのように喜んでみせた。こういうとき、ゆらぎなら負けじとはしゃいで見せるのだろう。
「う、うん。やったあ……!」
どうしても、溌剌としたゆらぎの演技は慣れない。ツルギと暮らして行くのなら、身につけるべきだ。彼に、不信感を抱かせてしまえば、きっとこの現実逃避は終わってしまうのだから。
「バス停まで送るよ」
「あ……そうだね、まだ、慣れないし」
本当は目を瞑ってでもいける道だったが、素直に送ってもらうことにした。といっても、歩いて三十秒ほどの距離なのだが。
「あと十八秒で、バスが来るよ」
バス停に着くなり、ツルギはごく自然に教えてくれた。なるほど、これは便利かもしれない。AIには好意的になれないが、いちどこの便利さを知ってしまえば手放せないのも納得だった。
ツルギの言う通り、バスは十八秒後にやってきて、扉を開けた。乗り込んでから、そっとツルギを振り返る。
「行ってらっしゃい」
「うん……行ってきます」
慣れない挨拶の直後に、バスのドアが閉まる。誰かに見送られる経験なんて、初めてに等しい。実家にいるときも、忙しい母は私を見送ることなどなかったから。
不思議な心地だった。今日一日を頑張れそうな、ぽかぽかとした温かいものが胸の奥に宿っている。
「あいつ、誰?」
背後から大きな影が降ってきて、びくりと肩を跳ねさせた。驚いて振り返れば、景がいつの間にか私の後ろを陣取っている。
「景……珍しいね、この時間に乗っているなんて」
彼は大抵私より二、三本早い便で高校に到着している。部活には所属していないが、朝の始業前の時間にバスケットボールなどをする男子生徒たちに混じって体を動かしているそうだ。
「たまには寝坊くらいする。……それより、あれ誰?」
心なしかいつもより圧が強い気がして、わずかに距離を取った。そのぶんだけ、すぐに詰められてしまったけれど。
「あれって、ツルギのこと?」
「ツルギ? ……ずいぶん親しげに挨拶してたけど、なんでだ?」
「うん。昨日から、一緒に住んでるんだよ」
景の表情が、一瞬でこわばる。気のせいかもしれないが、周りで談笑していた学生たちも、まるでこちらに聞き耳を立てるように息を潜めた気がした。
「一緒に……住んで……?」
激しい動揺を見せる景を見て、すぐに誤解があることを悟った。慌てて、説明を付け加える。
「違う、違うよ、同棲とかじゃないよ。ツルギは、ゆらぎのアンドロイドなの。私が、譲り受けることになって……」
説明しながら、胸がつきりと痛むのがわかった。また、ゆらぎがいないことを思い知るような言葉を口にしてしまった。
景は長い息をつきながら、くしゃりと自分の前髪を握りつぶした。
「なんだ……紛らわしい言い方するなよ」
ひとり暮らしの学生が多い影響で、恋人や友人と半同棲状態になっている者もいるとは聞くが、未成年は未成年だ。褒められたことではないだろう。妙な噂が広がる前に、ここで否定できてよかったかもしれない。
「さすがに誰かと同棲を始めることになったら、景にはいちばんに教えてあげるよ」
唯一の友人に内緒にしておくほど、私は冷たくない。
バスがわずかに揺れて、正門の前に到着した。電子音とともにドアが開いていく。
その瞬間、景の手が私の頭を鷲掴みするようなかたちでぐしゃぐしゃと髪をかき乱した。
「……ほんと、むかつくやつだな、お前は」
私を追い抜くようにバスを降りる直前、ぼそり、とまるで独り言のような調子で彼は言った。一応は櫛を通したばかりの髪を乱しておいてその言い様はないだろう。
手櫛で髪を直しながら、私もバスを降りる。景は、いつもより少しだけ不機嫌そうな顔で私を一瞥すると、私を待つこともなく数歩先を歩いていってしまった。
◇
どことなく不機嫌そうな景の隣で午前の授業を終え、昼食を買うべく購買へ向かう。この時間帯は混雑しているだろうが、人混みに紛れていると余計なことを考えずに済んで楽だった。
長い廊下を歩きながら、ぼんやりと空を眺める。初夏を間近に控えた空は清々しい青空で、あの日ゆらぎが描いてくれた浅葱色の空とは少し違うようだ。あれは、どこで見た空だったのだろう。
「橘さん」
ふいに名前を呼び止められ、ゆっくりと足を止める。振り返れば、白衣を纏った養護教諭が私のそばに立っていた。私たちよりひとまわり上くらいのまだ年若い女性教師は、一部の男子学生に人気だった。
「妹さんのこと、聞きましたよ。……どうか無理はしないでくださいね。つらいときは、いつでもお話ししてください。どんな些細なことでも、保健室に来てもらって構いませんから」
「あ……」
まただ。つきり、と胸が刺されるように痛い。
先生は、多感な時期に姉を亡くした私を心配して、わざわざ声をかけてくれているのだ。整った眉尻を下げて、まるで自分のことのように憂いをいっぱいにした表情からしても、心から私を案じてくれているのだろう。
「はい、ありがとうございます、先生。何かあったら、伺いますね」
愛想笑いのような強張った笑みを浮かべて、一歩後ずさる。だが、先生はそう簡単に私を解放してはくれなかった。
「あなたはひとりでなんでも抱えようとしているように見えるから、心配です。どうでしょう、週にいちど、保健室にお茶を飲みに来るというのは」
「そんな、先生もお忙しいですし」
うすら笑いを浮かべて、視線を逸らす。面倒だ。先生は私を思い遣ってくれているのだとわかるけれど、話せば話すほど、胸が痛くなる。
「……いつでも、待っていますからね」
先生はぽんぽんと私の肩を叩いて、ようやく目の前から立ち去ってくれた。この短い会話で、どっと疲れたような気がする。
……いやだな、いなくなりたいな。
学校を特別好きと思ったことはないけれど、必要な勉強ができるし、景ともくだらない話ができるから、嫌いではなかったのに。この二日間、今まで感じたことのないような閉塞感を覚えてならない。
ふわりと吹き込んできた風に誘われるようにして、開いた窓に肘をついて深呼吸をした。
刈ったばかりの芝生の匂いがする。きっと夏に向けて校庭を整備しているのだろう。けれど、顔を上げてその整えられた庭を見たいとは思えなかった。
何かお腹に入れようと思って購買を目指していたのに、もう何も食べたくなかった。こんな重苦しい気持ちのまま、午後の授業も受けなくてはいけないなんて、考えただけでうんざりする。
その瞬間、スカートのポケットで端末が震えた。のろのろと端末を取り出して、通知を確認する。そこには、見慣れないアイコンと「ツルギ」という文字が表示されていた。
タップして、内容を確認する。そういえば、昨日の夜「端末も新しくしたの」と言って連絡先を教えておいたのだっけ。
『ゆらぎ、今日の夜はゆらぎの好きなオムライスにするよ。お昼ご飯で被らないように、気をつけてね』
思わず、ふ、と口もとが緩んだ。ずいぶん気が利くAIだ。一日の中での献立が被らないようにまで、気遣ってくれるなんて。
……まあ、確かに、ゆらぎはいちど好きになるとそればかり食べるもんね。
一時期、昼食を毎日たまごサンドにしていたときがあったはずだ。栄養管理も請け負っているはずのツルギとしては、苦労もあっただろう。
ゆらぎらしく柔らかな口調で『わかったよ、ありがとう』と返信して、端末をしまう。
端末を操作するために顔を上げたおかげで、刈られたばかりの青々とした芝生が目に入った。ゆらぎならあれを、何色と呼ぶんだろう。
「昼食、摂らないのか?」
どこかぶっきらぼうな声が頭上から降ってきて、顔を上げる。さかさまの視界の中で、景と目があった。
「うん……夜ご飯は、オムライスみたいだし」
視線を窓の外に戻して、窓枠に肘をつく。景が、無遠慮に隣を陣取った。
「オムライス? あさぎは別に好きじゃないだろ。トマト味は吐くほど嫌いなんじゃなかったっけ?」
「ゆらぎは好きだからね」
ゆらぎはよく、私のぶんのトマトも食べてくれていた。実家では私に気遣ってオムライスは出てこなかったけれど、ツルギとふたり暮らしをするようになって、ゆらぎはオムライスのおいしさに驚いていたんだっけ。
「ゆらぎ、って……」
戸惑うように口籠もる景ににこりと笑いかけ、窓辺を後にする。背中に彼の視線をひしひしと感じたが、振り返ることはしなかった。
せっかく、いい気分なのだ。足のつかない深い海で、小さな浮き輪を見つけたような心地なのに、それすら奪われてはたまらない。
『午後も頑張ってね、ゆらぎ』
ツルギから送られてきたメッセージを確認して、端末をしまう。心にのしかかる重たいものを見えなくしたおかげか、いつのまにかまた、自然と息ができるようになっていた。
◇
家に帰ると、玉ねぎを炒める甘い匂いがした。夕焼けが差す部屋の中で、灰色の髪の青年が器用にフライパンを振っている。
「ゆらぎ、おかえり」
屈託のない笑みを向けられて、それに応えるようにわずかに頬を緩める。
家に帰ってきて、同居人が料理を作ってくれているなんて、初めての経験だ。そもそも手料理を食べる機会自体、実家でも数えるほどしかなかった。
「学校、楽しかった? 新しい場所で、疲れていないといいんだけど」
ツルギは火を止めると、わざわざ私の前までやってきた。そこまでしてくれなくていいのに、と気恥ずかしい思いがにじむ。
「平気だよ。……オムライス、楽しみだな」
「いつもの時間には出来上がるよ。ああ、そうだ、日中にゆらぎのお母さんがやってきて、何か荷物を置いて行ったよ」
「お母さんが?」
メッセージのひとつも残さないところが、なんとも母らしい。別に嫌われているわけでもなんでもないのだが、極端に筆不精なのだ。
「うん、ゆらぎの部屋に置いておいたよ」
ツルギは再びキッチンに戻り、調理を再開したようだった。
母からの荷物とは、なんだろう。自分の部屋に戻り、早速届いた荷物とやらを確認してみることにした。
部屋に入った瞬間に、荷物がなんのかは検討がついてしまった。平べったい、長方形の分厚い板のようなものが布に包まれている。
鞄を置き、そっとその布をめくってみた。思った通り、ゆらぎの絵だ。
絨毯の床に膝をついて、傷つけないよう最新の注意を払って布を取り払う。現れたのは、美しい花畑の絵だった。
「きれい……」
思わず、ほう、と息が漏れる。現実の場所を描いたものなのか、それともゆらぎの空想の世界なのかわからないが、引き込まれるように美しい絵だった。
ゆらぎは色使いが上手だ。私が名前も知らないような色をたくさんつかって、鮮やかな世界を描いている。けれど決して目に痛いような配色ではなく、まさに絵本にあったら好まれるであろう柔らかで優しい雰囲気があった。
キャンバスと思われる荷物は、他にも数枚置かれていた、それとは別に、大きな段ボールの箱もふたつ置いてある。ガムテープを剥がしてみると、中から大量のスケッチブックが現れた。
そしてそのスケッチブックの上に、見慣れた母の字で走り書きが置いてあった。
『また、追加で送ります。ゆらぎも、あなたに持っていてもらいたいと思うから。家族の肖像画だけ、わたしたちで引き取ります』
……どうだ、いちどだけ家族の絵を描いたんだっけ。
描き手のゆらぎ自身は、私の構図を対にするような形で描いていたはずだ。ゆらぎはそこに幼い頃に亡くなった父の姿も描いて、母を泣かせたのだっけ。ゆらぎの空想の姿なのに、やさしく微笑む父の絵を見ていると、まるで本当にすぐそばで私たちを見守ってくれているような気になった。
あの絵から、またひとり、いなくなってしまったのだ。
自分の喪失感に手いっぱいになっていたが、ゆらぎを失った母の悲しみはどれほどだっただろう。ゆらぎがいなくなってからツルギに出会うまでの記憶はすべてが曖昧で、うまく思い出せなかった。
つきり、と胸が痛みそうになったところで、部屋のドアがノックされた。静かに、ドアが開いていく。
「ゆらぎ、ご飯ができたよ」
時計を確認すれば十八時半だった。ゆらぎとツルギの「いつもの時間」とは、この時間のことを指しているらしい。
「ありがとう」
「ああ、絵を届けてもらったんだね。あとで整理を手伝うよ」
ツルギは宝物を見るような目で、キャンバスとダンボールを見下ろした。咄嗟に、母の走り書きを後ろ手で握り潰す。
「そうなの。他のものは、追加で送られてくるって」
「アトリエは、あの空き部屋でいいかな」
この部屋に越してきて以来使っていない、小さな部屋がある。ツルギはもう家の中の構造を把握したらしい。
「そうだね……」
私は、ゆらぎと違ってまるで絵を描けない。この現実逃避を続けるためには、ツルギの前で絵を描くわけにはいかなかった。筆の運びひとつで、簡単に見破られてしまうだろう。
ツルギに導かれるようにして、リビングへ戻る。食卓の上には、卵に包まれた綺麗なオムライスとサラダ、野菜のスープが並べられていた。ご丁寧に、麦茶まで置いてある。家で取る水分といえばもっぱらウォーターサーバーの水だけだった私からすれば、革命的だ。
「おいしそうだね」
「よかった。冷めないうちにどうぞ」
朝食のときと同じように、ツルギは私の向かい側に座った。軽く肘をついて、にこにことこちらを見つめている。
「いただきます」
トマトケチャップがふんだんに使われいるであろうオムライスをひと口目に食べるのは抵抗があったが、いちばん手のかかっている料理を後回しにするのは気が引けて、スプーンを綺麗な卵の表面に沈めた。
卵の下からケチャップライスが姿を表すと、ほんのすこし手が震えた。景に指摘された通り、私がトマト味のものを毛嫌いしているというのは本当だ。幼いころにトマトを食べて吐いてから、ろくに口にしていなかった。
意を決して、一口分のオムライスを口に運ぶ。バターで焼かれたらしい卵は絶品だったが、やはりケチャップの味は口に合わなかった。おそらくこれも最高に美味しい味なのだろうけれど、ろくに咀嚼せずに飲み込む。
「どう? 口にあったかな?」
ツルギは、にこにことして問いかけてくる。好きなものを食べたゆらぎの笑顔が見たくてたまらないとでもいうふうに。
「うん、すごくおいしい」
本当は震えるほど苦手な味だったが、構わずにスプーンを動かした。
ゆらぎが好きな食事が用意されること以上に、彼女が生きているように思える事象があるだろうか。ゆらぎと呼びかけられた私がそれを食べていれば、本当にゆらぎが食事をしているような気になった。
ツルギはわずかにも視線を逸らすことなく私を見ていた。いや、ゆらぎを見ていた。朝言っていた通り、彼はゆらぎが食事をする風景を見るのが好きなのだろう。もっとも、感情を持たないAIの言う「好き」もよくわからないが、やっぱり悪い気はしなかった。
「ごちそうさま。ありがとう、おいしかったよ」
にこりとツルギに笑いかければ、彼は満足そうに頷いた。
「よかった。お皿を片付けたら、絵の整理を手伝うね」
「うん、ありがとう。……私は先にお風呂に入ってこようかな」
本当は、いつも就寝ぎりぎりに入るのだが、耐えられそうになかった。席を立ち、平然を装って椅子をもとの位置に直す。
「わかった、五分後にお湯が沸くよ」
「ありがとう」
ゆらぎのような軽やかな足取りでリビングを後にし、ドアを閉める。そのまま、すぐにお手洗いへ向かった。
「っ……う」
うずくまるようにして、便器にたった今食べたものを吐き出す。やはり、トマトの味は受け付けなかったらしい。ツルギの手前無理をして食べていたが、限界だった。
胃腸炎のときくらいしか吐いたことがないが、どうにも不快な感覚だ。勝手に視界が滲んで、息を切らしながら涙を拭った。
「ふ、はは……」
乾いた笑みが勝手にこぼれる。そのそばから、ぽろぽろと感情を伴わない生理的な涙が吐瀉物の中に落ちていった。
馬鹿げてる。私は心を持たないAIと、何をしているのだろう。子どものおままごともいいところだ。
そう、頭の片隅で冷静に判断できる自分はいるのに、無理をしたことを悔やむ気持ちは湧いてこなかった。
だってこれは、必要なことなのだ。私がゆらぎらしく振る舞うための、しなければならない我慢だ。一食戻したくらいで、人は死なない。あとで多めに水分を取ればいい。たったこれだけの代償で、この甘い現実逃避を続けることができるのなら、お安いものだった。
第三章
「あさぎ、見て! ここが私のブースなの」
ゆらぎが高等部に進学した年の夏、ゆらぎの高校では早速各学生の作品の展覧会が開かれていた。私は、母とともに招待を受け、展示会場まで足を運んでいたのだ。
彫刻や、不思議な形をしたモニュメントの並びを抜けて、ゆらぎの作品が展示されているというブースに足を踏み入れた。その瞬間、思わず息を呑む。
「すごい……」
ゆらぎの作品は何度も見ていたが、何枚も集まると圧巻だ。春夏秋冬のそれぞれの花が描かれた絵が、順に並べられている。
ゆらぎが絵本作家を志すことを渋っていた母も、素直に彼女の絵を褒めていた。心からの賛辞だったと思う。
母とゆらぎの幸せに満ちた会話を聞きながら、ゆらぎの絵をひとつひとつ眺めた。
なんて、穏やかな時間だろう。大切なひとたちが楽しそうに話をしていて、自慢の片割れの絵を、心ゆくまで眺められるなんて。
ひとつひとつの絵を見ていくと、ふと、どの絵にも必ず灰色の髪の青年の姿が描かれていることに気がついた。絵にするといっそう透明感が際立つようで、目を離すと消えてしまいそうだ。
「ああ、その人ね、ツルギだよ。わかった?」
ゆらぎは私の隣に駆けてきて、きらきらと目を輝かせて笑った。
「うん。灰色の髪のひとなんて、なかなかいないし」
「我ながらよく描けたと思っているんだ。この冬の寂しそうな表情とか、お気に入り」
ゆらぎが指差した先には、雪の中で空を見上げて微かに笑みを浮かべるツルギの姿があった。モデルがAIだと知らなければ、この青年が抱く哀愁のわけに想いを馳せることができただろう。
「この人の正体は、明かさないほうがいいかもね」
「どうして?」
「だって、この表情はつくりものでしょう? AIに心なんて、ないんだから。せっかくのゆらぎの絵の深みが、半減しちゃうよ」
言ってから、すこしだけ後悔した。以前ツルギをアンドロイドだと言ったときに、彼女は静かな怒りを見せたのだから。
それを思い出してひやりとしたが、ゆらぎは怒らなかった。
代わりに、意味ありげな笑みを口もとに浮かべたのだ。同じ顔をしているはずなのに、彼女は時々想像もできないほど大人びた、どこか謎めいた笑い方をする。
ゆらぎはそれ以上何も言うことはなかった。沈黙がなんだか気まずくて、冬の絵の隅に展示されたガラスケースの前に移動する。
中には、針金でできた星のようなものが収められていた。よく見れば、内部まで緻密に針金が張り巡らされていて、かなり手間のかかった作品だとわかる。
「これも、綺麗だね。こういうものも作るんだ」
ゆらぎは、ガラスのケースにそっと触れながら、まつ毛を伏せた。
「――これはね、私が作り上げた作品の中で、もっとも大切なもののレプリカなの」
意味ありげな笑みを浮かべたまま、彼女はゆっくりと目を閉じた。まるで、神聖なものに触れるかのような仕草に、目を奪われてしまう。
「このレプリカは、展示会が終わったら壊す予定なの。だから、あさぎに見せるのもこれが最初で最後。本当は展示会に出す予定なんてなかったんだけど、あさぎには見せておきたくて」
「壊しちゃうの? こんなにきれいなのに。置き場所に困っているなら私の部屋に置いてもいいよ」
「それは悪くない提案だけど……でもだめ。やっぱり壊すよ。これは、私の手の及ばない範囲においてはいけないと思うから」
まるで劇薬か爆弾でも扱うような口調だった。大袈裟だと思ったが、それだけゆらぎが思い入れのある作品ならば、私が口出しすることでもない。
「そっか、じゃあ最後によく見ておくよ。……本当にきれい」
「ありがとう。……あさぎのそれも、同じくらいきれいよ」
「え?」
意味を図りかねて、思わずゆらぎを振り返る。彼女はぞっとするほど綺麗な笑みを浮かべ、くるりと踵を返した。
「ねえ、春の絵をちゃんとみた? ここに女の子もいるの、気づいたかな」
この話題はここでおしまいらしい。どこか割り切れない気持ちを抱えたまま、ゆらぎの隣へ駆けていった。
◇
……あの星は、なんだったんだろう。
タブレットで問題集を眺めながら、今朝見たばかりの夢を、ぼんやりと思い出す。
結局、あれ以来あの星のような作品を見ることはなかったし、私も夢に見るまで忘れかけていた。きっと、ゆらぎは言葉通りあれを処分してしまったのだろう。ゆらぎがいなくなった今、正体はわからずじまいだ。
「あさぎ、次、実習室だぞ。移動しよう」
景は、すでに次の授業で使う白衣とタブレットを手に持っていた。準備万端だ。
「ああ、うん……あと一問だけ」
白黒の画面に再び意識を集中させ、右肺野の結節影を丸で囲む。タップすると、すぐに答えが表示された。同じ場所に、赤い丸が浮き出てきた。正解だ。
「また読影問題やっているのか。飽きないな、あさぎも。診断AIに頼ればいいだろ。今や99%の精度なんだから」
「うん……でも、99%だから」
私がなんとなくクラスメイトから遠巻きにされているのも、空き時間を見つけては放射線画像の読影問題に取り組んでいるのが原因なのかもしれない。もちろん、医師免許を取るためには勉強が必須な科目であるし、皆、試験前には真剣に取り組んでいるが、AIが99%の精度で正解を叩き出す今、勉強時間は他の分野により割くべきだという考えが主流だった。皆、せいぜい問題集を一周しておしまいだろう。試験はそれで十分に通るし、診療技能としても差し支えないとされていた。
そんな分野に空き時間のすべてを費やすように向き合っていれば、どんな目で見られるかもわかっている。わかっているけれど、これは私の信念と心の平穏のために続けていることだった。
ここ一週間休んでいたせいで、問題集を解くペースが落ちていたのだ。それを取り戻すように、そして余計なことを考えないために、黙々と解いていた。
「まあ、でも、頼りになるな。大規模停電でも起こったら、みんなあさぎに聞きにくるぞ」
「予備電源があるからなかなかそんなことはないだろうけれど……そうだね、力になれる機会もあるかもね」
問題集のアプリを閉じて、私もタブレットを片手に立ち上がる。鞄から白衣を取り出せば、いつもはしわくちゃのそれに、綺麗にアイロンがけがされていた。
「新しく買ったのか? この時期に?」
私のしわくちゃの白衣に見慣れているせいなのか、景は不思議そうに呟いた。まったく失礼なやつだ。
「アイロンがけをしただけだよ。ツルギがやってくれたんだと思う」
「へえ、便利だな」
「景の家にはたくさんいるんじゃないの」
彼の家は、大病院を経営する医師一族のはずだ。多忙な両親に代わって、彼を世話するアンドロイドは当然いるだろうと思っていた。
「両親は使ってるけど、俺はあんまり。大体自分でなんでもできるしな」
それが見栄でもなんでもないところが憎らしい。実際彼は料理も家事も、なんでもそつなくこなせるのだ。ひとり暮らしを始めてからいちども自炊したことがない私とは大違いだった。
「嫌味なくらい優等生だね、景は」
くすりと笑いながら白衣とタブレットを片手に席を立つ。そろそろ移動しなければ次の授業に間に合わないだろう。
その瞬間、不意に景の手が私の肩に触れ、まじまじと顔を覗き込まれた。彼の使う洗剤が香るような距離に、たじろいでしまう。
「なに、景」
「……顔色が悪くないか?」
どきりとした。これだから医者の卵は厄介だ。
「そうかな?」
「自覚がないなら視診の能力の低さを恥ずべきだな。……ちゃんと食べているんだろうな」
今朝の食事も、昨日の残りのケチャップライスだった。ツルギはどうやら、夕食を多めに作って残ったものを軽くアレンジして朝食に出すスタイルのようだ。材料費を節約する意味でも理にかなっているし、十分に贅沢な食事だと思う。結果的に今日は朝食も吐き戻すことになったが、一日くらい、なんてことない。
「食べているよ。それはもう栄養の考えられた贅沢なものをね。ツルギが作ってくれているから、心配しなくていいよ」
肩に添えられた景の手を、そっと離す。同時に、二限目の始業のチャイムが鳴り響いた。
「ほら、走ろ、景」
タブレットを抱えて、半身で彼を振り返る。景は訝しげなまなざしのまま、黙って私についてきた。
◇
「ゆらぎ」
その夜、焼き魚の骨を突いていると、ツルギはにこにこしながら切り出してきた。用意された箸置きに箸を置いて、続きを促すようにわずかに微笑む。
「今週末は、美術館に行く予定だけど、都合は変わりない?」
美術館。なんともゆらぎが週末に足を運びそうな場所だ。
当然、私の把握していない予定だった。誤魔化すように、とっさに笑みを浮かべる。
「そう、だったね。うん、変わりないよ」
ぎこちなく頷いて、脳内で予定を確認する。今週末は講習も何もなかったはずだ。ゆらぎの代わりに行けるだろう。
「じゃあ、チケットはそのままでいいね。日曜日の何時にしようか?」
「十時、出発くらいかな」
「そんなに早いと、起きられるか心配だね」
くすくすとまるで揶揄うような調子でツルギは笑った。驚いた。こんな会話までできるなんて。
……ゆらぎにしては早かったかな。
ゆらぎは、休日はアラームをかけずに目覚めるまで眠るタイプなのだ。十時に出かけるなんて彼女にしては健全すぎるかもしれない。
「寝坊したら、そのときはそのときだから」
誤魔化すように笑って、再び箸を持つ。
今日は焼き魚とほうれんそうのおひたし、お刺身、お味噌汁、白米といった純和風のメニューだった。どちらかといえばゆらぎが好まない趣向だが「好きなものばかり食べていると栄養のバランスが偏るからね」とツルギは釘を刺すように言っていた。
二日連続でトマトを使った料理でなかったのは、助かった。異様に目敏い景の目を逃れるためにも、栄養はしっかりとっておきたい。
「美術館の他に、寄りたい場所はある?」
「そうだね……」
聞かれて、ふとツルギの服に目が止まった。私が見ていない時間に洗濯をしているらしいが、ずっと同じ白い長袖のシャツを着ている。
「商業地区に寄りたいかな。ツルギの服を見よう」
「ぼくに? ゆらぎのじゃなくて?」
「それひとつじゃ、不便だろうし」
白米を口に運んで、咀嚼する。ツルギは、どこか驚いたように目を丸くしていたが、嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう、ゆらぎが選んでね」
心の動きを模倣するプログラムがあるのだろうか。いくらオーダーメードの見た目とはいえ、彼の表情はあまりにも人間的すぎる。これも、ゆらぎと暮らしていたからこその特徴なのだろうか。
戸惑いを誤魔化すように、黙々と焼き魚を食べ進める。ツルギは、やっぱり相変わらずにこにこしながら私の食事風景を眺めていた。
◇
日曜日、結局規則正しく起床した私は、久しぶりに私服に着替えて「文化・芸術振興地区」へ向かっていた。街の美術館や博物館などは、ほとんどがここに揃っている。至る所にアートが設置された広大な公園も、この街の観光スポットのひとつだった。
ゆらぎは、この地区の美術館で期間限定で行われている展覧会のチケットを予約していたらしい。ご丁寧に自分とツルギのふたりぶんだ。
私自身、あまりに芸術方面に明るくないので事前に少し調べてみたのだが、今日の展覧会はゆらぎの高校の卒業生でもある有名な画家が開いたものなのだという。私でも、名前くらいは聞いたことのある画家だった。
美術館の入り口に入るなり、ツルギが手続きをしてくれる。大人ひとり、高校生ひとりの代金で入れたようだ。
「お待たせ、行こうか、ゆらぎ」
ガラス張りの天井があるロビーを抜けて、展示室へ入る。初めは普段から展示されているものが並ぶブースらしい。ゆらぎはきっと、前も見ているのだろう。
まじまじと絵画を眺めている人たちの間で、私も立ち止まってみる。どれも美しい絵だと思うが、それ以上感想が広がらない。知識と、想像力が乏しいせいだろう。
「ああ、あれも、今日の展覧会のアマガタヒイロの作品だね」
ツルギが、小さな声で耳打ちしてくれる。対照の色を好んで使っているようで、奇抜な印象を受けた。さまざまな色の直線や正円、楕円が入り混じっているけれど、何を描いているものなのか正直私にはわからなかった。
……ゆらぎの色使いのほうが好きだな。
この画家とゆらぎでは目指している方向が違うのだろうが、直感的にそう思った。双子の妹としての贔屓目なしで、そう思ったつもりだ。
ツルギに怪しまれない程度にゆっくりと見て回りながら、いよいよ今回の展覧会のブースへ入室した。
期間限定の展覧会である上に休日であることも相まって、それなりに混雑しているようだ。私たちと同じくらいの若者の姿も多かった。ひょっとすると、ゆらぎが通っていた高校の学生もいるかもしれない。
さりげなく帽子を深く被り、なるべく後ろのほうで見学する。
「前で見なくていいの?」
ツルギが耳打ちするように囁いたが、静かに首を横に振った。
「ここで、静かに見ていたいの」
後ろに来た人が見えるかどうかも気にしなくていいから、このほうが楽だ。綺麗な額縁に収められた奇抜な作品たちを、ゆっくりと見て回った。
展覧会のブースには結局一時間近くいただろう。細かい技法などはさっぱりだが、じっと見ているうちに物語を感じるような絵画もあって、意外に楽しめた。
「ショップに寄っていく? アマガタヒイロの限定グッズもあるみたい」
背の高いツルギはショップの中をさっと見渡して教えてくれた。
「そうだね、ちょっと見てみようかな」
キーホルダーくらい、記念に買ってみてもいいかもしれない。混雑していたが、ツルギがエスコートするように場所を作ってくれた。
「この色、きれい」
中の絵画で描かれていた、色とりどりのクローバーをモチーフにしたキーホルダーが、ずらりと並んでいた。限定グッズというところには、どうにも惹かれてしまう。
「かわいいから、買っていこうかな」
「いいと思うよ、色は全部で十六色あるみたいだね」
キーホルダーの説明が気には細かな色名が描かれていたが、私にはざっくりと青とか黄色、と言うふうにしか区別できない。
「あさぎ」
「えっ」
不意に名前を呼ばれてびくりと肩を跳ねさせると、ツルギは穏やかな笑顔のまま青緑のキーホルダーを手にした。
「浅葱色だ。ゆらぎ、好きだよね?」
「あ……」
ツルギからキーホルダーを手渡され、その冷たい表面をそっとなぞる。
そうか、ゆらぎの好きな色は浅葱色だったんだ。
あらゆる色を思い思いに使う彼女にとって、特別な色はないと思っていた。
……私の名前と、同じ。
じわ、と目頭に涙がにじみそうになって、慌てて気分を切り替えた。
「そうだね。ひとつはこれにしようかな。あとは……」
紺色のキーホルダーを、そっと手に取った。仕方がないから、景にも買っていってあげよう。
ふたつでおしまいにしてもよかったが、ついでと思い黄色と緑のキーホルダーも手に取った。
「四つも買うの? 相当気に入ったんだね」
「まあね」
ツルギはそれらを小さな買い物籠に入れ、持ってくれた。
その後店内をぐるりと一周して、めぼしいものがなかったため、結局キーホルダー四つを買うことに決めた。
「ぼくが買ってくるよ、ゆらぎは外で休んでいて」
ツルギの言葉に甘え、ショップを出る。ガラス張りの壁と天井でできたロビーの中央には、革張りの椅子がいくつも並べられていた。
座ってツルギを待っていようかと思ったところで、ふいに背後から呼び止められる。
「ゆらぎ!」
可愛らしい、女の子の声だった。振り返ると同時に、小さな影が衝突してくる。
「っ……」
「ゆらぎ! ゆらぎだよね!? 生きていたの……!?」
肩までの長さのふわふわとした栗色の髪を揺らして、少女は私に縋り付いていた。手には、たった今私が出てきたショップの袋が提げられている。店内ですれ違ったのだろうか。
「よかった、よかったあ! ゆらぎが死んじゃうなんて、嘘だもんね! そんなの、ありえないもんね!」
涙ぐみながら、少女は私に縋りついてくる。まるで見覚えがないが、おそらくゆらぎのクラスメイトか何かなのだろう。
帽子を深くかぶっていたのは、こういう事態を避けるためだったのだが、仕方がない。
そっと少女の体を引き剥がして、静かに告げた。
「あの、私……ゆらぎの妹のあさぎです」
そう告げた瞬間、輝いていた少女の瞳からすっと光が消える。明らかな落胆だった。
「あ……そっか、言ってたっけ、双子だって……ごめんなさい、わたし、つい……」
「いえ……」
肩を落とした少女は、袋を握り直してぽつぽつと自己紹介をした。
「わたし、ゆらぎさんのクラスメイトの雪森ひなといいます。この度は、ご愁傷様でした。ゆらぎさんとは、生前とても仲良くさせていただきました。私にとっては、いちばんの……親友で」
深く、頭を下げられる。同年代ながら礼儀のきちんとした人だと思った。
だが、胸がずきずきと痛んで仕方がない。「ご愁傷様」だなんて、「生前」だなんて、絶対に聞きたくない言葉だった。
「ありがとう……ゆらぎも、無念だったと――」
嫌だ嫌だ、ゆらぎがいないことを前提とした言葉を、これ以上吐きたくない。ゆらぎはまだいるって、どこか遠くに旅行に行っているだけって、思いたい。そうだ、今朝だって、ゆらぎの好きなアールグレイティーが出てきた。角砂糖が三つ並んでいるのも、ゆらぎが飲む紅茶の特徴だ。
「ゆらぎ? どうしたの、顔色が悪いよ」
不意に、横から伸びてきた腕に引き寄せられ、体を預けるようなかたちになる。
見上げれば、ツルギが私の肩を抱くようにして、体を支えてくれていた。会計を終えて戻ってきたらしい。
「ゆらぎ?」
雪森さんは、聞き漏らさなかったようで、怪訝そうに繰り返した。そうして、ツルギの姿を頭のてっぺんからつま先まで観察し、はっと息を呑む。
「ちょっと待って、そのひと、ゆらぎの恋人じゃないの? まさか、ゆらぎのふりして寝取ったの?」
責めるような声は、ロビーに大きく響いた。入館者たちが、ちらりと私たちを一瞥し、関わらないようにしようとでもいうようにさっと顔を背ける。
「違う、横取りなんかしてない。そもそも、ツルギは――」
「――ぼくはゆらぎの恋人だよ。恋人であるぼくがゆらぎと一緒にいて、何が悪いのかな」
聞いたことのない、冷えきった声だった。一瞬、ツルギの声と認識できなかったほどだ。
「何、言って……だって、その人、ゆらぎじゃないよ。ゆらぎの妹だよ?」
雪森さんは混乱しながらもまっとうな指摘をしてくる。ずきずき、ずきずきと胸も頭も痛んだ。
「ゆらぎだよ? この人は、ぼくのゆらぎだ」
笑うように柔らかな声なのに、有無を言わさぬ迫力があった。思わず、責められているわけでもないのにびくりと肩が跳ねてしまう。
「なに……それ、あさぎさんを、ゆらぎだって思い込んでるってこと?」
明らかな動揺をあらわにして、雪森さんは私たちを交互に見ていた。
そうだ、と肯定したら、どうなるのだろう。ツルギは故障しているとみなされ、私はカウンセリングでも受けさせられるのだろうか。
……嫌だ、私はまだこの逃げ場所を手放したくない。
思わずぎゅ、とツルギのシャツを掴むと、彼は察したように私の肩を抱く腕に力を込めた。
「もう行こう、ゆらぎ」
肩を抱かれたまま、ツルギに導かれるようにして歩き出す。雪森さんの視線が背中に鋭く刺さったが、私たちのことを追ってはこなかった。
外の空気にあたっても、どくどくと早鐘を打ったままの心臓はなかなか静まってくれなかった。ツルギに連れられるようにして公園に入り、しばらく進んだところにあったベンチに脱力するように座り込む。ツルギはふいに私から離れたかと思うと、芝生の広場で営業している屋台から温かい紅茶を買ってきてくれた。
「あ……ありがとう」
「今日は気温が高くなるようだから冷たいものと迷ったけど、こういうときはあったかいもののほうがいいよね」
私の隣に座って、ツルギは何ごともなかったように微笑んだ。人工的な笑みに、どうしようもなくほっと安堵してしまう。
早速カップに口をつけて、紅茶を一口ぶん飲み込んだ。コーヒー派だが、こういうときは紅茶のほうが口当たりが柔らかくて落ち着けるかもしれない。
少しずつ、脈が落ち着いていく。雪森さんとの出会いは、なかなか動揺させられた。
……礼儀正しいと思ったけど、ゆらぎのこととなると冷静ではいられないのかな。
もっとも、親友の恋人を双子の妹が連れ回していると思ったなら、あの反応も無理はないけれど。
……それにしても、恋人、ね。
どこまで本当のことなのだろう。確かにアンドロイドと疑似恋愛を楽しむ人はいるし、多くはないがパートナーとしてアンドロイドを選んだというニュースも聞いたことはある。
あるいは対外的に手っ取り早い関係性の説明として、ゆらぎが彼を「恋人」と紹介していた可能性もある。ゆらぎは彼をアンドロイド扱いしたくなかったようだし、いつでもそばにいる異性を説明するには「恋人」はいちばん通りのいい説明だろう。
ふたりきりのときの姿を見ているに、後者の可能性が高い気がするが、確かなことはわからない。ゆらぎのふりをして現実逃避をしている今、これ以上ツルギに問うこともできず、ゆらぎと彼の関係性に、ひとつ謎を残すかたちになってしまった。
「すこし、落ち着いた?」
私が紅茶を飲み終わったのを見計らって、ツルギは穏やかに問いかけてきた。すっかり考えごとに夢中になっていたが、彼は私が紅茶を飲むところもじっと眺めていたらしい。
「ああ……うん、だいぶ。ツルギは平気?」
「ぼくは大丈夫。……雪森さんには、何か誤解があるみたいだったね。驚いたね、ゆらぎ」
「そう、だね……」
ツルギは誰に何を言われようとも私をゆらぎと信じて疑わないらしい。遺伝子情報で照合しているせいだろうが、もし本当にふたりが恋人だとしたら、騙しているのが心苦しいようにも思う。
……いや、相手は所詮心のないAIだから、いいのかな。
人間のために、私の心の安寧のために、この受け入れがたい現実から逃れるための隠れ家になってもらうために、彼にはまだ私をゆらぎと思っていてもらわなければ困る。一瞬生じた心の迷いをもみ消すように、勢いよくベンチから立ち上がった。
「次は、商業地区に行かないとね。服を買ってあげるよ、ツルギ」
「ありがとう。ここから歩いて五分のバス停から七分後にバスが出るよ」
「ちょうどいい、行こう!」
ツルギの手を引いて、彼も立ち上がらせる。彼はやっぱり、慈しむように微笑んで、私だけを見つめていた。
◇
肩にかけた大きな紙袋を、リビングの椅子にどさりと下ろす。開けたままのカーテンからは、まばゆいほどの夕焼けが差し込んでいた。
あれからツルギと商業地区のショッピングモールをひとまわりして、ツルギの着替えと私の服をそれぞれ何着か選んだ。自分で服を選びに行って購入するなんて、いったいいつぶりだろう。慣れないことをしてずいぶん疲れてしまったが、不思議な満足感があった。
「今から夕食を作るよ。いつもの時間よりすこし遅くなりそうだ。ゆらぎは休んでいて」
ツルギは、荷物を置くなり早速キッチンに立っていた。今日は、ゆらぎの好きなハンバーグを作ってくれるらしい。
一週間暮らして、ツルギの献立の立て方のなんとなくのパターンが読めてきた。ゆらぎの好物が二日続いたら、三日目には栄養バランスをとるために、ゆらぎが特別好んではいない和食などのメニューが挟まれる。だいたいその三日周期で献立を考えているようだった。
三分の二は常にゆらぎの好きなものを作り続けているのだから、ツルギはやっぱりゆらぎに甘いと言わざるを得ない。心はなくとも、主人の喜ぶことを記憶し、それを繰り返すようにプログラムされているのかもしれない。
ツルギは帰り際に買ってきた材料をビニール袋から取り出して、準備を始めていた。ハンバーグなら、どんなにツルギの手際が良くても三十分はかかるだろう。その間、タブレットで問題集を解いたり、本を読んだりしてもいいが、なんとなくためらわれた。せっかくの楽しい現実逃避の一日を、「あさぎ」の行動で穢したくなかったのだ。
「……わたしも手伝おうかな」
袖を捲って、ツルギの隣に立ち、水場で手を洗う。
「ゆらぎが? ……危なくないかな」
この様子だと、器用なゆらぎも料理は苦手だったらしい。思わぬ共通点にふ、とはにかみながら、タオルで手を拭いた。
「ツルギが見守ってくれていれば大丈夫。私は何をすればいい?」
ふたりが同時に野菜を切れるほどキッチンは広くないが、分担はできるはずだ。ツルギはわずかに迷うようなそぶりを見せ、それからレタスを私に手渡した。
「じゃあ……これを洗って、手でちぎってボウルに入れてくれるかな。サラダにしたいんだ」
「わかった、任せて」
包丁を握らせないあたりなんとなく信頼されていないような気がするが、玉ねぎのみじん切りを任されたところでツルギのようにうまくこなせるはずもない。おとなしく、サラダ作りに専念することにした。
滅多に手料理を作らない母のもとで育ったせいで、こういう手伝いの経験はないに等しかった。いちどだけ、ゆらぎと一緒に母の誕生日ケーキを作ったことがあるが、あれも失敗に終わってしまった。母は、黒焦げのケーキを見て嬉しそうに笑っていたものだ。
懐かしさに、自然と頬が緩む。軽く目を閉じれば、隣で料理をしているのはゆらぎであるような気になって、余計に嬉しかった。
「ご機嫌だね、ゆらぎ」
ツルギはまるで測ったような正確さで玉ねぎを刻みながら微笑んだ。こちらに注意を向けながらも、すこしも手もとが狂う様子がない。
ツルギがハンバーグを成形するころには、私もレタスをちぎり終え、ツルギに言われた通りに買ってきた茹で鶏とコーンを乗せたところだった。あとは食前にドレッシングをかければ、サラダは完成だ。
「次は何をすればいい? 焼こうか?」
「やけどでもしたら大変だ。……何かしたいなら、カトラリーの準備を頼もうかな」
ツルギは困ったように微笑んで、フライパンの前を陣取った。私のことを幼い子どもか何かと思っているのかと思うような扱いだ。
……まあ、実際AIにとっては人間の十七歳なんて子どももいいところなんだろうな。
慣れない過保護をどこかくすぐったく思いながら、スプーンやフォークが入った戸棚を開ける。自炊は滅多にしないが、カトラリーや食器類は、実家から持参したものが一通り揃っていた。
そこからスプーンとフォークを取り出そうとしたところで、ふと、懐かしいものが目に入った。
それは、木の鞘で包まれた果物ナイフだった。元は亡くなった父のもので、彫刻に凝っていたゆらぎが、父の許可を得て鞘に模様を掘り込んだのだ。まだ幼い手で掘られた、がたがたとしたりんごの彫刻が可愛らしい。
ふ、と微笑みながら、そっと鞘を撫でる。何気なく鞘から刃を抜こうとして、抵抗を感じた。中が錆びついているのかもしれない。
「っ……」
力を込めると、不意に抵抗を失ったナイフは勢いよく鞘から抜けた。その拍子に手首近くの左の掌がわずかに切れてしまった。ぷくり、と赤い線が浮き出してくる。
……うっかりしてたな。
実習でも、刃物や針の扱いには気をつけるように言われているのに、情けない。
細心の注意を払ってナイフを鞘に収め、溜息まじりに傷を眺める。ぷくぷくと浮き出す赤い血を眺めながら、ふと、心のどこかで何かが腑に落ちるような感覚を覚えた。
……そっか、まあ、いざとなればこういう道もあるよね。
今まで考えたこともないような逃げ道が、初めて選択肢のひとつとしてちらついた。当然魅力的ではないが、自分には無関係だと思っていたものを、あっけなく引き寄せてしまった自分の思考がすこし恐ろしい。
「ゆらぎ?」
ハンバーグを焼いていたはずのツルギの声が、すぐ後ろで響く。はっとして振り返れば、いつの間にか彼は私の背後に迫っていた。
「……怪我をしたの? 大丈夫?」
ツルギはそっと私の左手を取って、傷をまじまじと観察した。ろくに声も上げていないのに、よく気付いたものだ。
「ナイフを抜くときに、ちょっと傷ついちゃったの。このくらい、すぐ塞がるよ」
ナイフをそっと胸に抱きながら、誤魔化すように微笑む。すぐに戻す気になれなかったのは、父とゆらぎの思い出の詰まったこの品が、お守りのように思えたからだ。
「痛むだろうけど、よく洗わないと。来て」
ツルギに連れられ、洗面所へ移動する。ほんの薄皮が切れた程度なのに、大袈裟だ。
ツルギは水温を調節すると、水の流れにそっと私の手をつけた。ぬるま湯が、早速固まり始めた血を綺麗に洗い流していく。
「ゆらぎ」
不意に、私の手を掴むツルギの指に力がこもる。いつでも壊れものに触れるように繊細な手つきで私の手を取る彼にしては、珍しい行動だった。
「――ぼくより先に、死んじゃだめだよ。いなくなるなら、ぼくを壊してからにしてね」
鏡越しに、濃い灰色の瞳と目があった。まるで愛を囁くような不思議な熱を帯びている。言葉の不穏さとは不釣り合いな彼の静けさと甘い声が、鎖のように重く体に纏わりつくような気がした。
「……何、言ってるの、私は死なないよ。ツルギを、壊したりもしない」
言いながら、抗いようもなく目頭が熱くなる。
まるで自分に言い聞かせるようなその言葉が滑稽で、惨めで、どうしようもなく寂しくてたまらなかった。
◇
休日が終わり、新しい一週間がやってくる。
ツルギに見送られながらバスに乗り、五分ほど揺られ、高校の正門をくぐる。いつも通りの一日が始まった。
午前の授業をこなし、昼休みの始まりの鐘が鳴る。普段であれば軽くノートの整理をするところだったが、なんだか気が進まずぼんやりとしてしまった。
隣に座っていたはずの景は、いつのまにか何人かのクラスメイトの中心で談笑していた。成績優秀で運動神経も抜群の彼はクラスの人気者なのだ。腐れ縁の私にこそ憎たらしい口をきくが、基本的には男女問わず誰にでも優しく、その人あたりのよさも人気の秘訣のようだった。
教室の中ではちらほらとお弁当や購買で買ったパンを広げているクラスメイトたちの姿がある。あまり空腹は感じないが、午後もあることだし何かお腹に入れておくべきだろう。
購買に向かうべく席を立つと、ふと、声をかけられる。
「あさぎ」
さりげなく横を通り過ぎようとした私を目ざとく見つけて、景は不敵な笑みを浮かべていた。
「今、学祭の話をしてたんだ。相澤がステージの使用権を当てたらしい」
景の隣で、柔らかな黒髪の女子学生が照れたように笑った。彼女は確か、学祭の実行委員の相澤さんだ。
「くじ運だけは、昔からいいの」
「さすが桜子」
「これは桜子ヒロインで何かやるしかないね」
清楚でおとなしい相澤さんも、景と同様にクラスの中心的人物だ。ステージ使用権を当てたことで盛り上がっているクラスメイトたちを見て、思わず頬が緩む。
「すごい、相澤さん。学祭楽しみだね」
我ながら他愛もない返答だと思ったが、相澤さんはやっぱり照れたように微笑んだ。皆に好かれるのも頷ける。感じのいいひとだった。
「童話モチーフ? それとも一から脚本作る?」
「完全オリジナルか、悪くないね」
学校行事は、好きだ。お祭りのようだし、みんなである種の非現実に取り組むなんてわくわくする。楽しそうなクラスメイトたちの顔を見ているのも気分がいい。私は率先して何かをするわけではないけれど、去年の学祭でも黙々と模擬店の装飾づくりに励んだものだ。
けれど、今年は去年ほどの高揚感がない。花形であるステージ使用権を勝ち得たというのに、よかったと思うだけで楽しみに思う気持ちがあまり湧いてこない。
再び盛り上がりを見せるクラスメイトたちを横目に、教室を出る。学食に向かう学生も多いのか、廊下はやけに賑わっていた。
このぶんでは、購買も混んでいそうだ。並んでまで食事をしたいとは思わない。もともと朝食を抜く生活をしていたのだ。このところはツルギが朝晩ときちんとした食事を出してくれるから、お腹が空かないのも無理はなかった。
「橘さん」
澄んだ女性の声がして、振り返る。例の養護教諭が立っていた。学生たちの雑踏の中で、しわのない白衣が浮かび上がるように目立っている。
「お昼、食べないんですか? 人気のフルーツサンドがまだありましたよ」
何気ない話を装って、探りをいれているのがばればれだ。この人は、片割れを失った悲劇の学生が可哀想で可哀想で仕方がないらしい。
「購買がもう少し空いたら、何か買って食べます」
空腹を覚えない、なんて正直に伝えたら面倒なことになるに決まっている。この人と長く話せば話すほど、みじめになるのはわかりきっていた。
「学祭が近づいてきましたね。橘さんのクラスは、何をするんですか?」
浮き足立つ学生たちを見つめながら、先生は微笑む。会話を終わらせるつもりはないらしい。
「ステージの使用権を勝ち取ったとか言っていましたから、劇でもするんでしょう。楽しみです」
意欲が低下している、などと判断されて保健室に呼び出されるのはごめんだ。先手を打って、にこりと微笑んでみせた。今年は例年ほど楽しみに思えないだけで、まったくの嘘は言っていない。
ふと、先生の視線が私の左手にとまる。そのままはっとしたように目を見開いたかと思うと、急に手首を掴まれた。
「っ……橘さん、この傷は……?」
袖口から線状の傷がのぞいている。まったく痛みもしないので忘れかけていたが、そういえば昨日うっかり怪我してしまったところだ。ごく浅い傷だし、数日で痂皮もとれるだろう。
「まさか――」
先生の顔が険しくなる。その表情を見て、ようやく私も気がついた。
……面倒なことになったな、どう言い訳しよう。
「可哀想な学生」を過剰に心配しているこのひとのことだ。きっと、躊躇い傷だとでも思ったのだろう。弁明するにも、状況が最悪だ。双子の片割れを失ったばかりの十七歳、復帰して一週間、なんとなくクラスに馴染んでいない。
疑う要素満載だ。国家試験の問題集で出てきたら、私だって先生と同じ発想に至るだろう。
「違いますよ。これは昨日、思い出の品の果物ナイフを見つけて、うっかり切っちゃっただけです」
「思い出の品? それって、お姉さんの……?」
「ええ、まあ……」
取り止めもない、廊下のざわめきが頭に流れ込んでくる。目の前の相手との対話から、逃げ出したくて仕方がなかった。
先生は私の手を掴んだまま、焦ったように何かを言っていたが、よく聞き取れなかった。言葉だとわかるのに、理解はできない。何か言われれば言われるほど、音としてしか認識できなくなる。
廊下の窓から、夏の気配がする風が舞い込んできた。夏は、ゆらぎの好きな季節だ。
……私、どうしてこんなところにいるんだろう。
導かれるように、ツルギの待つ自分の部屋の風景が蘇る。あの空間では私はゆらぎで、ゆらぎは生きていて、好きなものを食べ、ツルギとおしゃべりを楽しむ。幸せな時間だ。
……早く、帰りたいな。
「漆戸先生、そろそろ橘借りてもいいですか? 昼食の約束があるので」
頭上から、聞き慣れた声が降ってくる。先生に掴まれていたはずの私の手を、気づけば景が握っていた。
「星川くん――でも」
「あんまり、心配しすぎないでやってもらってもいいですか。逆効果ですよ、それ」
どこか冷ややかな調子で彼はそう言うと、私の手を引いて歩きだした。完全に現実逃避していた意識が、だんだんと鮮明になる。
景は私を校庭にある倉庫の横に連れ出すと、古びたベンチに座らせた。
ここは、私と景が時折使うお気に入りのベンチだ。人影がなく、木陰があって、ほどよい静けさに包まれている。天気が良い夏の日には、ここで問題集を解いたり、昼食を摂ったりするのだ。
「漆戸の過剰な心配性、相変わらずだな。あれ、学生を心配している私って優しいー、って酔ってるだけだろ、絶対」
私の左隣に腰を下ろして、景は笑うように言った。
あえて辛辣な物言いなのは、私に寄り添ってのことなのだろう。景の言葉は、ちゃんと頭に入ってきた。
「そうなのかな……ちょっと、困っちゃうね」
曖昧に微笑んで、まつ毛を伏せる。再び景の手が伸びてきて、左手首の線状の傷をなぞった。
「これのせいで、絡まれていたのか? どうせ、何かヘマしたんだろう」
言葉とは裏腹に、労わるような手つきだった。すこしだけ、くすぐったい。できたばかりの痂皮をなぞられているせいだろう。
「果物ナイフの鞘を抜こうとしたら、固くて、思いきり力を込めたら手を滑らせちゃったの」
「馬鹿。……果物くらい、あのアンドロイドが切ってくれないのか?」
「切ってくれるよ、頼めばね」
ツルギのことだ。きっと、均等にきれいに、頼めば飾り切りだってやってくれるだろう。私やゆらぎにはない特技だった。
膝の上でそっと、傷を撫でる。その拍子に、スカートのポケットの中でちゃり、と音がした。
……そういえば、まだ渡せてなかったな。
ポケットから、紺色と浅葱色のキーホルダーを取り出す。昨日、美術館で買ったものだ。紺色のものは景へのお土産として買ったが、教室では渡す機会がなくて困っていたところだった。
「景、これ、お土産」
「お土産? どこか行ったのか?」
クローバーの形をしたキーホルダーを受け取りながら、景が目を丸くする。この状況で私が外出するとは思っていなかったのかもしれない。
「昨日、美術館に行ったんだ。チケットがあったからね。アマガタヒイロって知ってる?」
「ああ、あの奇抜な……」
景はキーホルダーをまじまじと観察し、やがて微笑んだ。
「ありがとう。そっちは、あさぎのか?」
「そう、思わず買っちゃった。おそろいだね」
だが買ってみたはいいが、どこにつけよう。ゆらゆらと揺れるキーホルダーを陽の光に翳してみる。
「こういうのってどこにつけるか迷うよね。結局家に置きっぱなしになったりするし」
「つける。大事にする」
景は思ったよりもお土産を喜んでいるようだった。柔らかに緩んだ彼の横顔が、木漏れ日に照らされて、木の葉の影がゆらゆら揺れていた。
彼の嬉しそうな笑みを見ていると時折、砂糖菓子でも食べた後のような、不思議な感覚がじわりと広がっていく。脈打つ心臓の底をくすぐられるような、妙な心地だった。でも決して、嫌ではない。眠りに落ちるあの一瞬の快さによく似ている。
「……アマガタヒイロが好きだなんて、知らなかったな」
くすぐったさを誤魔化すように、膝の上で肘をつく。
「芸術方面にも造詣が深くて恐れ入ったか?」
揶揄うような景の言葉を、ふっと鼻で笑う。
「そうだね、是非とも美術館でひとつひとつの作品解説を賜りたいね」
いつもの私たちの空気感だ。ぼんやりと重苦しい学校生活の中で、この空気だけは鮮明だった。
「そもそもあさぎが美術館に行くなんて珍しいな。ひとりで行ったのか?」
「ううん。ツルギと行ったよ。ついでにツルギの服も買ったの」
美術館では気まずい出会いもあったが、概ね穏やかな一日だった。あんな日曜日なら、時間を持て余して黒い感情に呑まれることを恐れずに済みそうだ。
「へえ……AI嫌いのくせに、そんなふうに笑うんだな」
先程までの上機嫌な様子とは打って変わって、どこか拗ねたような声だった。
笑っていた自覚なんてなかった。思わず、指先を頬にすべらせる。
「ゆらぎは、なんで女性型のアンドロイドを選ばなかったんだろうな……」
なんだか、不貞腐れているみたいだ。彼は私から視線を背けたまま、大袈裟な溜息をついた。
「絵のモデルにしたかったからだよ。女性は私がいるからいいけど、身近に歳の近い男性がいないからって理由で、ツルギにしたみたい」
景と同じ地区に住んでいればその問題も解決できたのだろうが、そもそもゆらぎは景をモデルにするのを避けていたような気がする。「長時間見つめるなんて、あさぎに悪いからね」と、どこか悪戯っぽく笑っていた。
……懐かしいな。
あんな笑い方、私にはできない。人の心をくすぐるような、愛らしい笑みだった。私と同じ顔をしているとはとても思えないくらいに。
「……それより景、お昼は食べたの。私にかまってばかりいないで、ご飯食べてきなよ」
このままでは望まない暗く寂しい感情に呑まれてしまう気がして、慌てて話題を切り替えた。
「あさぎもまだだろ。行くぞ」
景が立ち上がって、軽く伸びをする。
「あんまりお腹空いてないよ」
景には、正直に言ってもいいだろう。彼だけは、今は重苦しいこの学校生活の中でもやっぱり特別だった。
「いいから。早く」
彼の声に導かれるようにして、仕方なく立ち上がる。
瞬間、ざあ、とぬるい風が吹き抜けて、隣で黒髪のポニーテールが揺れたような気がした。
――お昼は、たまごサンドにしようかな。あさぎはフルーツサンドにして、半分こしようよ。
一瞬だけ、ひだまりのような笑みを浮かべる彼女が見えたような気がして、泣きたくなった。いつもこうして私の手を引いてくれるのは、ゆらぎだったのに。
振り返った景にそれを悟られないよう無理やり笑みを浮かべ、彼の隣へ急ぐ。ぬるい風は、いつまでも私にまとわりついていた。
◇
「おかえり、ゆらぎ。今日も楽しかった?」
家に帰るなり、変わらぬ穏やかな笑みを浮かべるツルギが出迎えてくれる。彼と暮らしてたった一週間だというのに、いつの間にか彼の顔を見ると安堵している私がいた。
「ただいま。……そうだね、いつも通りかな」
自分の部屋に入り鞄をかけ、部屋着に着替える。机の上におきっぱなしのクローバーのキーホルダーが、夕焼けをきらりと反射していた。黄色と緑のキーホルダーだ。
黄色は、本当は自分用だ。今、私が鞄につけている浅葱色のものは、本当はゆらぎに買ったものだった。学校でもすこしでも「ゆらぎ」でいたくて、ゆらぎの好きな色を身につけたのだ。
黙って黄色のキーホルダーを引き出しにしまいながら、数秒だけ目を瞑る。西日がじりじりと肌を焼いていた。
「ゆらぎ?」
ノックの音と共に、ツルギの声がした。はっと我に返り、慌ててドアを開けに行く。どのくらい、ぼうっとしていたのだろう。
「ごめん、ちょっと考えごとしてて」
食事の時間にでもなってしまったのかと思ったが、壁に表示された時刻を見る限りまだ三十分はありそうだ。
「後にしようか。邪魔はしたくない」
「いいの、何かあった?」
一人でいるよりもツルギといたほうがずっといい。彼は廊下の奥へ視線を送った。
「実は、ゆらぎの前の部屋の荷物を整理していたんだけど、これでいいか確認してほしかったんだ。前と似たような位置にしまったつもりだけど、どうしても棚が足りなくて」
先週母から送られてきたあの段ボールを、開けてくれたらしい。そういえば、空き部屋をアトリエにすると言っていた。
「ありがとう、見に行くよ」
ゆらぎは、自分の家のいちばん広い部屋をアトリエとして使っていたから、あの空き部屋では確かに手狭だろう。
ツルギに案内されるがまま、しばらく立ち入っていなかった空き部屋に足を踏み入れる。思わず、はっと息を呑んでしまった。
……ゆらぎのアトリエだ。
場所も間取りもまるで違うけれど、入った瞬間そう思った。壁には完成した絵が何枚もかけられていて、部屋の奥には真新しいキャンバスが設置されている。古びた木の丸い椅子も、絵の具の匂いも、ガラス瓶に無造作に入れられた数えきれないほどの筆も、すべて彼女のものだった。
――あさぎ! 遊びに来てくれたの? ちょうど今、あさぎに聞きたかったところなの。ねえ、この色、どっちがいいと思う?
色とりどりの絵の具が乗ったパレットを差し出しながら笑う彼女が、目の前にいるかのようだった。
部屋の奥に足を進め、真っ白なキャンバスの前に置かれた椅子にそっと触れる。彼女はずっと、ここに座って絵を描いていたのだ。静かになぞれば、まだ彼女の熱がここに残っているような気がして、たまらない気持ちになった。
「どうかな? スケッチブック類はあっちの棚に入れて……収納場所が足りないから昔の作品はあの箱にしまったんだ。絵の具の在庫の置き場はここにしてみたんだけど――」
ツルギが、てきぱきと説明してくれる。彼は、どうすればゆらぎが絵に打ち込めるか、よくわかっているのだ。悔しいが、ゆらぎの才能をもっとも身近で支えていたのは、彼なのだと思い知らされる。
「――ありがとう、完璧だよ、ツルギ」
説明を終えた彼に微笑みかければ、彼もまた鏡写しのように口もとを緩めた。
「食事の支度ができたらまた呼びに来るよ」
ツルギはそれだけ告げて、静かに部屋をあとにした。
穏やかな静寂が、押し寄せてくる。秒針の音が規則正しく響いていた。珍しく、掛け時計を使っているようだ。ゆらぎらしい趣味だった。
そっと、ゆらぎが座っていた椅子に腰掛けてみる。硬くて、あまり座り心地がいいとはいえないが、ゆらぎはこの視線の高さであの美しい絵を生み出していたのだ。そう思うと、いくらでも座っていられるような気がした。
椅子に座ったまま、そっと目を閉じてみる。絵の具の匂い、秒針の音、電子音のない静寂。
そこに、ゆらぎの声だけがなかった。
「あさぎ」
ゆらぎの声音を真似て、そっと名前を呼んでみる。ゆらぎが私を呼ぶときの、跳ねるような調子で。
けれど、同じ声をしているはずなのに、自分で発した声はやっぱりゆらぎの声とはわずかに違った。
「ふ、ふ」
あまりに虚しくて、気づけば勝手に笑みがこぼれていた。そのままひとしきり声をあげて笑って、長い息を吐く。笑うように震える溜息だった。
……いいな、ツルギは。
彼には、私のこんな声も、ゆらぎの声のように聞こえているのだろう。だからこそ、私のそばにいてくれるのだ。偽物でも、ゆらぎと同じ声を聞ける彼がたまらなく、羨ましくてならなかった。

