序章
ゆらぎが死んだ。
近ごろでは珍しい、交通事故だった。ゆらぎを殺した相手は、人の手で操縦する遺物のような車を運転していたようで、歩道を歩いていたゆらぎに猛スピードで突っ込んだらしい。
事故現場には、ゆらぎの使っていた絵の具が散らばっていた。青、黄色、紫、桃色――ゆらぎに聞けばもっと正確な名前を教えてくれるのだろうけれど、当の彼女はどす黒い赤を散々流していなくなってしまった。
黄土色の肌をした彼女を棺に収め、額にそっとキスをした。真っ白な死装束で隠されてはいたけれど、遺体は縫い目だらけだった。私なら、もうすこしうまく縫えるのに。
灰色の煙に変わった彼女を、真っ黒な服で見送った。かろうじて顔を知っているような大人たちがあれこれと言葉をかけてきたが、音としてしか認識できない。夕焼けの空に立ち昇っていく煙を、ただぼんやりと眺めていた。
あの煙がずっと空まで昇っていけば、ゆらぎは雲になるのだろうか。雲になって、雨になって、川になって、飲み水になって、私の七割を構成する水に、いつか溶けて混じってくれるのだろうか。
「馬鹿馬鹿しい」
自分で考えておきながら、笑えてしまう。なんの慰めにもならない言葉だ。
私とゆらぎは、はじめはひとつの受精卵だったのに、今更七割が満たされたところでなんになるだろう。
橙色の光の中に長く伸びた影を見やる。ひとりだ。どこまでいっても、この先どれだけ歩いても、ひとりぶんの影。
背後で母が私の名を呼んでいる、ような気がしたが、振り返る気にもなれなかった。そんな気力すら、残されていなかった。
ふと、長く伸びた私の影の頭のあたりを、磨き上げられた白い靴が踏む。靴に取り付けられた銀の金具が西日を反射して、目に痛かった。
「ゆらぎ」
この世でもっとも尊い言葉を口にするように、その人は彼女を呼んだ。
「ゆらぎ」
柔らかく、どこまでも彼女を慈しむような声だった。けれど、彼女はもうここにはいない。たった今、灰になって空へ昇っていったところだ。
「ゆらぎ、ここにいたんだね」
その人は、私の影を踏み締めて、私の目の前まで歩み寄ってきた。ふわり、と花の香りがする。ゆらぎが使っていた洗濯洗剤の匂いだ。
視界の中に、ゆっくりと手が差し出される。骨ばった長い指は、青年のもののようだった。
「……あなたは」
恐る恐る顔を上げ、ゆっくりと瞬きをする。眩いほどの夕陽の光の中に、その人はいた。
「どうしたの、ゆらぎ。ぼくを忘れるなんて」
青年の形をしたそれは、人によく似た表情で柔らかく、親しげに微笑んでみせた。
「ぼくだよ、ゆらぎ。きみのパーソナルAI――『ツルギ』だ」
最愛の双子の姉を見送った日、主人を亡くした迷子のアンドロイドが、突然に私のもとに転がり込んできた。
ゆらぎが死んだ。
近ごろでは珍しい、交通事故だった。ゆらぎを殺した相手は、人の手で操縦する遺物のような車を運転していたようで、歩道を歩いていたゆらぎに猛スピードで突っ込んだらしい。
事故現場には、ゆらぎの使っていた絵の具が散らばっていた。青、黄色、紫、桃色――ゆらぎに聞けばもっと正確な名前を教えてくれるのだろうけれど、当の彼女はどす黒い赤を散々流していなくなってしまった。
黄土色の肌をした彼女を棺に収め、額にそっとキスをした。真っ白な死装束で隠されてはいたけれど、遺体は縫い目だらけだった。私なら、もうすこしうまく縫えるのに。
灰色の煙に変わった彼女を、真っ黒な服で見送った。かろうじて顔を知っているような大人たちがあれこれと言葉をかけてきたが、音としてしか認識できない。夕焼けの空に立ち昇っていく煙を、ただぼんやりと眺めていた。
あの煙がずっと空まで昇っていけば、ゆらぎは雲になるのだろうか。雲になって、雨になって、川になって、飲み水になって、私の七割を構成する水に、いつか溶けて混じってくれるのだろうか。
「馬鹿馬鹿しい」
自分で考えておきながら、笑えてしまう。なんの慰めにもならない言葉だ。
私とゆらぎは、はじめはひとつの受精卵だったのに、今更七割が満たされたところでなんになるだろう。
橙色の光の中に長く伸びた影を見やる。ひとりだ。どこまでいっても、この先どれだけ歩いても、ひとりぶんの影。
背後で母が私の名を呼んでいる、ような気がしたが、振り返る気にもなれなかった。そんな気力すら、残されていなかった。
ふと、長く伸びた私の影の頭のあたりを、磨き上げられた白い靴が踏む。靴に取り付けられた銀の金具が西日を反射して、目に痛かった。
「ゆらぎ」
この世でもっとも尊い言葉を口にするように、その人は彼女を呼んだ。
「ゆらぎ」
柔らかく、どこまでも彼女を慈しむような声だった。けれど、彼女はもうここにはいない。たった今、灰になって空へ昇っていったところだ。
「ゆらぎ、ここにいたんだね」
その人は、私の影を踏み締めて、私の目の前まで歩み寄ってきた。ふわり、と花の香りがする。ゆらぎが使っていた洗濯洗剤の匂いだ。
視界の中に、ゆっくりと手が差し出される。骨ばった長い指は、青年のもののようだった。
「……あなたは」
恐る恐る顔を上げ、ゆっくりと瞬きをする。眩いほどの夕陽の光の中に、その人はいた。
「どうしたの、ゆらぎ。ぼくを忘れるなんて」
青年の形をしたそれは、人によく似た表情で柔らかく、親しげに微笑んでみせた。
「ぼくだよ、ゆらぎ。きみのパーソナルAI――『ツルギ』だ」
最愛の双子の姉を見送った日、主人を亡くした迷子のアンドロイドが、突然に私のもとに転がり込んできた。

